2024年6月9日(日)新城教会主任牧師 滝元順
マルコの福音書 12章30~31節
“あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」”
ハレルヤ!
今日は、「幸せになる秘訣」について学んでいきたいと思います。誰でも幸せになりたいと願っていますが、幸せになる秘訣が聖書に示されています。
それがマルコの福音書十二章三〇節・三一節です。秘訣をまとめれば二つです。
「神を愛すること」と、「隣人を愛すること」の二つに要約されます。旧約聖書から新約聖書に渡り、幸せになる秘訣はこの二つです。簡単ですね。そして、これは表裏一体です。神さまの姿は見えません。どうやって愛していいのかわかりません。人間同士ならば「愛する」という感覚がわかります。イエスさまは、人となってくださった神ですから、神を愛するとは裏返せば、隣人を愛することなのです。お隣の人を愛することは、神さまを愛することであり、神さまを愛することは隣人を愛することです。
先日、新聞にこんな記事が出ていました。
「スイス人哲学者、アンリ・フレデリック・アミエルが、<他者を幸福にすることが一番確かな幸福である>」と。
自分が幸福になるために生きていると、幸せになることができないのです。他者を幸福にすることが一番確かな幸福への道であるというのです。
次に、「<他者のためにお金を使う人は自分のために使う人よりも大きな幸福を感じる>。カナダの社会学者エリザベス・ダンらが二〇〇八年に発表した調査結果である」
他者のためにお金を使う人は、自分のために使うよりも大きな幸せを感じるというのです。教会では献金があります。献金は、自分のためではなく、他者のために献げる事です。自分のために貯め込むのではなく、誰かのために、誰かの幸福のために働くと幸せになれるのです。
エペソ人への手紙六章二〜三節、
“「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。”
「幸せになる秘訣」として、「父と母を敬え」とあります。先日は母の日があり、来週は父の日です。父母を敬うことは、約束を伴っています。「幸せになり、長生きできる」というものです。両親を「敬う」ことは重要な戒めです。
日本人と韓国人は、親孝行な国民だと思われます。今回、韓国でセミナーをさせていただいたのですが、聖書の父母を敬えという概念と、日本、韓国、アジアにある「親孝行」という概念は違っていて、そこに巧妙な敵の策略があるとお話しさせていただきました。
「孝行」って、「孝を行う」と書きます。「孝」とは、儒教の中心概念です。
儒教国、韓国で「儒教と霊的戦い」という大胆なテーマでセミナーをさせていただきました。儒教とは、「恩返しが交換関係として、制度化されたシステムだ」とある学者が定義していました。
そして「しかしその恩返しは、死後の世界にまで及ぶ」というのが儒教の親孝行です。
「考」は、「恩」とペアになっています。誰かから良くしてもらったら、恩を返さなければならないという思いは、自然の気持ちです。しかしそれが制度化されて、システム化されているのが、日本とか韓国の「考と恩のペア」である儒教です。
そしてその恩返しは「死後の世界にまで及ぶ」のです。日本も韓国も、祖先崇拝が非常に強い国です。これは儒教から来ています。生きている父母に恩を返すとか、愛することは良いことですが、それを死後の世界にまで拡大するのは罪です。
また、恩を受けたら百パーセント返さなければならないという考えも、これまた儒教の概念であって、聖書の概念とは違います。
パウロがこんなことを語っています。使徒の働き二〇章三四~三五節、
“あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」”
パウロはイエスさまから直接聞いたのか、間接的に聞いたのかはわかりませんが、彼が人々に最も伝えたかったことは、「労苦して弱い者を助けなければならないこと」、そして「受けるよりも与える方が幸いである」ということでした。これを知ってほしいと、彼は生涯かけて戦ったわけです。
この言葉が日本の社会に、また世界に受け入れられたら、人類は幸せになるはずです。「あいつは本当に恩知らずの奴だな・・・」と言いますが、私たちは「受けることよりも与える」方に比重をおかなければいけないのです。これは神を愛し、隣人を愛する概念に含まれます。
マルコの福音書で述べられた、同じ内容が、ルカの福音書にも出ています。ルカの福音書一〇章二七節二八節、
“すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」”
旧約聖書で語られているこの言葉を、律法学者はよく知っていて、イエスさまの質問に答えたわけです。イエスさまは「その通りです。それを実行しなさい。そうすればいのちを得ます」と語られました。いのちとは、「永遠のいのち」です。すごいですね。神を愛することと、隣人を愛する実践は、永遠のいのちに繋がるわけですから。
今日掲げたこの言葉を、ただ知るだけでなく、実践することは大変重要だと分かります。
つづいてルカの福音書の一〇章を読みますと、隣人を愛する事に関しての実例が、「良きサマリア人のたとえ」として語られている事が分かります。
三〇節から三三節まで読んでみます。
“イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。”
これはエルサレムからエリコに下る道中に起こった事件です。イスラエルに行ったことがある方ならわかると思いますが、エルサレムとエリコは高低差があります。エリコへ続く道は大変険しい道です。この付近にはユダヤ人とサマリア人が住んでいました。倒れていた旅人を助けたのは、サマリア人でした。ユダヤ人である祭司とレビ人は、旅人を助けることなく、通り過ぎたわけです。
このストーリーをただ単に、サマリア人が情が深くて素晴らしいと捉えるのですが、当時の様子を知ると、それだけの意味ではないことが分かります。この道はたいへん危険で、通行人たちは頻繁に強盗に襲われました。ゆえに、通行人たちは倒れている人には無関心でした。なぜなら、倒れている人を構っていたら、自分も危ないからです。
日本には安全神話がありますから、あまりピンと来ないのですが、日本から出ますと、危険地帯って本当に多くあり、そのような地域はほんとうに危ないです。エルサレムからエリコへの道はそのような場所だったわけです。
祭司とかレビ人が通り過ぎたのは、ある意味、当然だったかもしれません。
しかしサマリヤ人は、大きな危険を冒してまで、倒れていた旅人を助けたのです。このストーリーには、勇気ある行動への称賛も含まれています。しかしそこには、さらに深い隣人愛の精神が含まれています。
イエスさまの時代、ユダヤ人と、サマリア人はお互い異民族として対立していました。そしてこの構図は、今もなお続いています。
隣人愛とは、隣に座っている方とか、家族、友人を愛する事も含まれますが、イエスさまが語りたかった隣人愛は、異民族、他国の人たちを受け入れ、愛することでした。この教えが世界に受け入れられたら、全世界は平和になり、皆が幸せになるはずです。
日本と隣国との関係はどうでしょうか。日本と韓国・北朝鮮、日本と中国、日本とロシア、これらは日本を取り巻く諸国ですが、関係がたいへん悪いです。
そのような中、クリスチャンは神の国の住民として、どのような意識と立場を持たなければならないでしょうか。マスコミや世間一般の情報で、心が形成されていたら、聖書の教えとは違ってしまうわけです。
以前にも話しましたが、私は日本と韓国との間にある、悲しい歴史がなかったら、生まれなかった者です。
私の両親は戦後、東京でクリスチャンになりました。アメリカから来た宣教師が私の両親を救いに導いてくれました。
それも、ある人が三千坪の土地を寄付したことにより、そこに教会が建ち、その教会に両親が来て、出会って、その教会で結婚式を挙げました。
所有者がどうしてこの土地を寄付したのかと言うと、理由がありました。その土地を寄付したのは、在日韓国人の方でした。戦争中、日本は朝鮮半島や台湾を、植民地化していました。ゆえに戦争が終わった頃、日本には二百万人ぐらいの韓国系の方々が残されました。日本が敗戦したことにより、GHQの指令が出て、在日の人々は、「母国に帰るか、日本に留まるかのどちらかの選択」を迫られたのです。その多くが故郷の朝鮮半島に帰り、日本には六十万人ぐらいが残ったと言われます。
しかし帰国するにあたり、条件があって、日本で得た財産の権利を全て放棄し、財産は国に没収されることになっていました。その土地を所有していた在日韓国人の方は、母国に帰る決断をしていたのです。彼は土地を国に取られるより、宣教団体に寄付した方が良いと考えて、寄付したのです。それでその土地に教会が建ち、両親がクリスチャンとなり、私が生まれたというわけです。
ということは、日韓の悲しい歴史がなかったら、私はこの地上には存在していないことになります。そんなわけで私が韓国で奉仕させていただけるのは、大きな意味があると信じています。
また在日韓国人の方が土地を寄付しなかったら、新城教会もありません。父は田舎の人間で、当時、教会に行こうと思っていませんでした。しかしたまたま父が働いていた場所の近くに、この牧場があり、父は農業関係の調査を仕事にしていたのです。それでこの場所を知っていたそうです。
今日、こうして新城教会に皆さんが集まってくださっているのは、日本と韓国の間にある深く悲しい歴史があってこそ、成り立っています。新城教会が韓国やアジアに奉仕させていただけるのは、神の摂理によるものです。
ユダヤ人とサマリア人は、イエスさまの時代、お互い、異民族だと考えていました。しかし時代を遡ると、サマリア人とユダヤ人は、同じルーツがあったとがわかります。何百年か遡ると、サマリヤ人は、イスラエルの十二部族の十部族を中心として形成された人たちでした。またユダヤ人とは、ユダ族とベニヤミン族によって形成された人たちだったわけです。元々は同じイスラエルに属する人たちだったのです。
しかし歴史の流れの中、イエスさまの時代、サマリア人とユダヤ人は、お互い異民族のように考えていたのです。
日本、朝鮮半島、中国、それぞれ別の民族ように考えるかもしれません。しかしそうではないのです。
歴史を学ぶ時、四世紀、日本に大きな歴史的転換があったことが分かります。四世紀から七世紀ぐらいの間に、今までにはない、多くの大型墳墓ができたからです。今では古墳と呼ばれる大型墳墓は、現在、全国各地に二十万基近く残っています。