2024年6月23日(日)SIR代表 滝元望師
ヨハネの黙示録 2章4~5節
“けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。”
お祈りします。
愛する天のお父さま、この六月、梅雨のシーズンに入りました。神さま、私たちをこうして共に集め、また今日もあなたを礼拝し、また今から主よ、あなたが語ろうとしていらっしゃることを共に、主のみ声を聞くために、ここに私たちがいることを感謝します。どうぞ、主よ、語る者にもまた聞かれる一人ひとりにも、同じ聖霊ご自身が働いてくださって、聖霊によって語り、また聖霊によって私たちが受け取ることができるように。どうぞ主よ、私の声よりも聖霊ご自身の声がさらに大きく、いや、あなたご自身が語ることを私たちは期待しますから、どうぞ主よ、このみからだなる教会、この新城教会と、またこれを聞いてくださっている全国にいらっしゃる方、世界でも聞いている方がいらっしゃるかもしれませんが、神さまその一人ひとりに、またその場所に、その街に、主がお語りくださるときとなりますように導いてください。このときを主に委ねます。主の主権と支配が、この場所にも、それぞれの場所に、今日現れるときとなることができるように。
主イエス・キリストのみ名を通して、この祈りと願いをみ前におささげいたします。アーメン。
おはようございます。一年前に私は一つのみことばをいただいて、この教会に届けなければいけないなぁということを思っていました。でも、一年間神さまはその言葉そのものを私に委ねてくださって、私自身にも語り続けてくださって、こうしてこの時が与えられたことを感謝します。
モンゴルリバイバルミッションの、こういうポスターが向こうで用意されています。これ何語なんでしょう。読めないですよね。多分ロシア語の影響があるのかな。わかんないですけどね。これでモンゴルと韓国と日本が一緒になって、またイスラエルに重荷を持った方々も行って、そして今度はミッションが開かれます。
私も行くことになって、モンゴル初めてなので、いろいろと日本でとりなすべきことがあることを覚えています。先週の土曜日、日曜日、月曜日も、九州の方に行っていました。美味しいものをいっぱい食べました。安くて美味いものも食べたのですが、でも中心はとりなしなので、楽しく過ごしながら、また韓国からチェ先生の息子さんのホサナ君が急遽来日してくださって、一緒に巡りました。ちょっとそのとりなしのさわりを皆さんにお知らせしたいと思います。今日の午後、そのセミナーがあるので、ぜひまた皆さんご参加ください。
福岡の街には、初詣に五十万人が集まるという大きな神社があります。それは筥崎宮(はこざきぐう)です。これです。
この筥崎宮というのは、元寇の乱と呼ばれる蒙古襲来の時、文永の役で、一二七四年に攻めてきましたけど、焼かれてしまいます。その辺り、その博多の町は、かなり焼かれ、また多くの人たちは殺されたりしました。でもご存知のように、モンゴル帝国から来た連合軍なんですが、元が韓半島に来て、そしてまた中国の兵隊なんかも連れて、高麗の兵隊と、そしてモンゴルの兵隊と、中国の兵隊と一緒に攻めてきたのですが、実はその時、暴風雨が起きて、そして船が多く沈んでしまって帰っていきます。第一回目です。
そしてなんと、その時に亀山上皇という、天皇を退いて、院政、天皇をやめて後ろでコントロールしていた男が、「敵国降伏」というこの文字を書いたのです。
これ実筆だそうです。これ自身は拡大して、小早川という戦国大名が筥崎宮に掲げています。
そしてこの神社の特徴は、普通、神社は西から東を拝むとか、古いやつはそうですね。あとは天皇系の神々を祀ってる場合は、南から北を拝むようになっています。南面北座しているのです。でもこの神社は完全に逆なのです。北から南を拝むようになっている。これどういう意味かというと、これは明確に他の所でも、宮司さんなんかに聞くと、「敵を調伏」するためだと。この向きはモンゴル・韓国を向いています。こんな額があります。
また、福岡県庁の真ん前に、こういう銅像がありまして、これは誰かというと亀山上皇という人物です。そこの台座にも「敵国降伏」という言葉があります。このような所にとりなしに行きながら、また志賀島にも行ったり、最終的に弘安の役で十万人ぐらいの人々がその海域で船が沈み死んだだろうと言われる長崎県松浦市にある鷹島という所にも行きました。十万人ですよ。歴史の中で、多分、日本の国においてそれだけの大量の人たちがいっぺんに死んだということはなかったんだと思います。
そして鎌倉幕府でしたから、鎌倉市に円覚寺という臨済宗の寺を建てて、そしてその蒙古軍もまた日本兵も全部一緒に供養するために建てました。今はすごい綺麗な禅寺ですが、元々いわゆるその怨霊を非常に恐れて寺まで建てて、それから中国から無学祖元という坊さんを招いて彼に特別に拝ませたということがあります。これは北条時宗という人物がその寺を作りまたお坊さんを連れてきました。そこにも行ってとりなしました。
また昨日は、モンゴルに行く少年たちと一緒に、伊勢神宮に行ってとりなしをしました。伊勢神宮の神々が神風を吹かせたというような言い伝えがありますが、それは嘘っぱちなんですけど、神風が吹いたのかどうかはともかく、実際に嵐で多くの船が沈んでしまって形勢が逆転しました。しかしその当時の鎌倉幕府の武士たちは強かったようです。武士というのは皆さん勘違いしてはいけません。今で言うとヤクザです。勝つためには何でもやるというのが武士なのです。それまでは貴族ですから、みんな気位が高かったのですが、その武士たちが何をやったかと言うと、糞尿を煮立てて、うんこやおしっこを煮立てて、そしてそれを撒き散らしたと言うのです。それで敵の船が糞尿で汚れてしまい、それで戦意喪失して負けたという出来事もあったようです。
後醍醐天皇というのが南北朝時代に戦ったときも、武士達は、城の上から糞尿を撒き散らして、攻めてきた足利氏たち、いわゆる貴族たちはそれを浴びて戦意喪失させたということもあったようです。そんなことをいろいろととりなすことができて本当に感謝でした。
「敵意がイエスさまの十字架にあって葬り去られている」というみ言葉を持って、私たちはモンゴルに行きたいと思います。
今も、毎年正月だけで五十万人、年間でいうと多分すごい人数だと思いますが、筥崎宮に拝んでいますが、何も知らずに、家内安全、商売繁盛とかって拝んでいますが、その拝んでいること自体が韓国またモンゴルを降伏させ、呪うという意味を持っているということも知らなければいけないのではないかなぁと思います。
そんなことを知って、皆さんもモンゴルリバイバルミッションが、イエスさまの十字架にある、その赦しと和解の中にあってこの働きが進められるように祈っていただきたいと思います。
ちょっと今回、一つみことばを皆さんに伝える前にお話ししたいことがあります。
最近、私の親友が天に帰りました。高校時代の親友です。
彼はプロのカメラマンでした。第一線で頑張っていました。高校生の時に僕と仲良くなり、一緒に歌を歌ったりしていました。彼はその後、日本大学の芸術学部を出てカメラマンになり、第一線で活躍していました。知っているところでは、いろんなプロモーションビデオなどを手掛けていました。GLAYだとか長渕剛とか、いろいろな作品を手掛けていたようです。
時々連絡を取り合っていたのですが、五・六年前に彼が故郷に帰ったと聞きました。人づてに聞いたのは、彼が癌を患っていて、奥さんも癌で亡くしてしまい、一人で実家にいるということでした。私はすぐに彼を訪ねていき、どうしたんだと尋ねると、彼は人工膀胱になっていて、排泄物も外に出している状況でした。でも、彼はやはりカメラマンで、ドローンを飛ばして作品を作っていると言うんです。ドローンは一機だいたい二十万円以上するんですが、彼はそれを六機くらい持っていて、なくしてもいいようにしていると言っていました。それで、ドローンで作品を作ってYouTubeに上げているというのです。私はそれを見ましたが、やっぱりクオリティが高いものでした。
彼に一度、新城の全景を撮ってくれと頼みました。そして、皆さんが祈りに行く雁峰山(かんぼう)の上にある広場に彼を連れて行きました。ちょうどその時に、岩井くんにドローンの操作を教えるようなこともあって、一緒に行きました。ちょっとその映像を見ていただけますか。ドローンが飛びます。見てくださいね、こうやって飛ぶのです。
二キロ向こうくらいまで行って帰ってくるのです。帰ってこいってボタンを押すと戻ってきます。
そして撮影を始めたのですが、ちょっとしたことが起きました。電波が届かなくなったのです。なんと二十数万円のドローンが・・。一度湖を撮影していた時に行っちゃってそれでもう終わったことがあると言っていましたが。
彼に最後の画面を見せてくれと言ったら、こんな画面だと言うのです。
高速道路ですよね。私はわかりました。ここは山菜採りに行っていた場所だと。これは徳定(とくさだ)のあそこだ!と、タラの芽がいっぱいある所で、「おい!あそこにあるかもしれねぇ!」と言って、すぐにそこに向かいました。鹿避けのネットがあったのですが、猟友会なので簡単に外せるので、外して入っていくと、彼のドローンがありました。
私は思わず「イエスさまだなぁ」と言ってしまいました。
その日、僕のところに来た彼は、カラス鍋を食べることになっていました。僕が捕ったカラスで作る美味しい鍋、皆さんにもご馳走しますが、あんな美味しい鍋はないですよ。それを食べようとして、食前の祈りをしました。「イエス様、この鍋を聖めて健康のために・・」と祈り始めたら、「ちょっと待って!」と彼が言うのです。「悪いけど、今日のドローンが見つかったことのお礼を言ってくれ。」と言うのです。面白いでしょ。「神さま感謝します。あなたがドローンを見つけてくださって本当に感謝します。」と祈りました。そしてそれをきっかけに心を開いて、彼は教会に結構来るようになり、いろんなイベントに参加するようになりました。二〇二一年のクリスマスコンサートにも来てくれました。
その後、彼の癌がどんどん悪化し、腸閉塞を繰り返すようになりました。その時には、一度教会に来て祈ってもらい、イエスさまを受け入れてくれました。彼のその癒しのためにも岩井先生が親切にいろんなアドバイスをしてくれました。でも最終的に彼は緩和ケアの病棟に12月に入って、一月二十一日に天に帰りました。
でも、その二日前に私が彼を見舞いに行ったときに、神さまが「これはもう終わりだ」と示されました。僕と同じでちょっとハゲていて、バリカンで髪を剃っていたのですが、順先生はどうしているか知らないですが、カミソリで綺麗に剃ってあげました。
「これはちょっとまずいな・・」と思ったので、「おい、バプテスマ受けないか」と言ったら、「なんだそれ?」と言うのです。「おまえ、イエスさまを受け入れる祈りをしたから、次は父・子・聖霊によってバプテスマを受けたら天国に行く準備ができるから。」『俺仏教だけど。』「仏教関係ないから大丈夫だよ。」と言いました。そして水を持ってきて、彼にバプテスマを授けました。その映像もあるのですが、彼の尊厳もあるのでお見せしませんが、本当に痩せ細っていましたが、「冷てぇ!」と言って洗礼を受けました。
その翌日、岩井先生がまた見舞いに行ってくれて、「俺は仏教だから。」みたいなことを言っていたらしいです。私が「教会でも葬式できるぞ」みたいなことを言ったので、ちょっとこだわっていましたが、岩井先生が行かれたその翌日に彼は天に帰りました。神さまは素晴らしいなぁと思いました。
彼が心をイエスさまに開くようになったのは、ドローンを通してでした。カメラマンです。彼は本当に親友でした。今でも彼のことを思うと悲しいけど、イエスさまはすごい方だなぁと思います。彼は家柄の良い人で、お父さんは市会議員の議長までやった方でしたし、お兄さんも立派な方です。
彼が生前にドローンで撮ってくれたビデオがあります。ちょっと見てください。この新城教会を撮ってくれたのです。
これはコンサートのために彼が撮ってくれました。何十時間もかけて編集して、色々調整してくれました。本当に感謝しています。イエスさまが素晴らしい方だということを皆さんに証ししたかったです。
今日六月二十三日はどんな日でしょうか?沖縄戦の組織的な戦闘の終結の日です。「慰霊の日」と呼ばれています。そして、今日の朝、これは友達が平和の礎(へいわのいしじ)という摩文仁の丘にある刻銘碑の前でとりなし祈祷会をして下さいました。これは今日の日の出です。この刻銘碑は日の出の方向に向いて造られています。
実は一年前、六月二十三日にパラオからチームが来てくれて、ここでとりなしてくれました。皆さんもご存知かもしれませんが、イッピーとかレジーナとか、なかなか良いチームでした。とても活発なチームで、彼らをレンタカーに乗せて牛丼を食べたいとか言うから、牛丼を食べに行ったり、うどんを食べたいとか言うし、贅沢なものを要求しないのです。彼らはそういう普通の食べ物を食べ、いろんな所で賛美しとりなしてくれました。この平和の礎の所でも、彼らはずっと賛美していました。
今日も朝、NHKや他のテレビのニュースで、だいたい朝七時のニュースは、この平和の礎の場所の映像からスタートします。彼らはここでずっと賛美していて、普通は僕らが賛美していると止められるのですが、彼らはああいう感じでしょ。南国の賛美で、ちょっとマッチしていました。ディレクターも止めませんでした。そのままニュースの背景に彼らの賛美が流れたのです。神さまが彼らを遣わしてくれたなぁと本当に感じました。
一人で私は四日・五日間、彼らを案内したこともあり少し疲れました。最後の日、彼らを早朝空港に送り届けて、また名護に行って名護のベテル教会という所で礼拝メッセージをして、その午後、屋宜原(やぎばる)という所でメッセージをするために車で向かいました。その車中で、梅雨が明けた!と感じたのです。
沖縄では三日前くらいに梅雨が明けましたが、去年は六月二十五日に梅雨が明けました。こういうふうになるのです。これを見たときに、私はパッと主から語られたことがありました。「おまえ感動してないだろう。」ということです。沖縄はいっぱい行っていると、だんだん、だんだん美しい海や空が当たり前になってしまい、感動していない自分がいることに気づかされました。
その時、神さまから「初めの愛に帰れ」と言われました。初めて沖縄に行ったのは一九七〇年代、海洋博が開催されたときで、グロリアシンガーズで十日間くらいのクルセードがあって行きました。父がメッセージし、私たちが賛美をしました。初めて沖縄に行ったときには感動し、「海と空」というとんでもない歌も作りました。ボツになりましたが、レゲエみたいなそんな歌を作って、沖縄一色になりました。
それから何度も何度も沖縄に行きました。私がとりなしの働きに神さまから召された時、一九九三年に沖縄に行った時、運天港という所の丘の上で海を見下ろして祈っている時に「おまえは侵略者だ」と語られました。私たち他府県の者はかつて沖縄を侵略した者であるということを私は神さまから語られて、その時思いました。「よし!沖縄をとりなし祈ろう!人が住んでいる全部の島に行こう!」と、その時に決断しました。実際に私は全ての島に行きました。水納島というみんなで三人の島があるのです。多良間諸島の水納島、もう一つ、クロワッサンアイランドと言って、本部あたりにも水納島というのがあるのですが、そこにも行きました。またアラグスグ島と言って、新城島、七名、そして牛が千頭という所も行って、神さまの前に、その土地のために祈り、神さまにあって沖縄を祝福するということをしました。とりなしをし続ける中で、いつしか失われてしまった思いがあるということを神さまから語られました。