「あなたの天幕の場所を広げよう」

2021年6月13日(日)新城教会牧師 滝元開

イザヤ書54章2節

『あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。』

 こうして皆さんと共に主を賛美し、主を礼拝できる、この大きな恵みを心から感謝します。今日は賛美礼拝ということで、たくさんの賛美を主におささげできました。さらに賛美に溢れた毎日でありたいと心から願っています。

今日、新城教会ニュースが手元に配られているかと思いますけれども、この中で今回私がメッセージを取り次がせていただきました。「賛美の力」について書いてあります。毎回のニュースのメッセージの最後には、いつも「一緒に口に出して祈りましょう。」というコーナーがあるのですが、今回は「賛美の力を体験してください。」ということで、最後に「主の愛が今」の歌詞が書かれていて、そしてYouTubeのザワメキのチャンネルから、今、主の愛が今が流れていまして、「それに合わせて歌ってください。」とそのように書かれていますので、ぜひ今回、このニュースを見られた皆さんが一緒に歌って、その中で主の癒やしのみ力が、そのいやしの翼が伸べられるように、ぜひ覚えてお祈りいただければと思います。この新城教会ニュースは四万五千部、この地域に新聞折込により配布されていますので、一枚一枚が無駄になることなく、主によって用いられるようにお祈りいただければと思います。

 

それでは今日のみことばにいきたいと思います。イザヤ書五十四章二節、

 

『あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。』

 

このみことばが今日のテーマです。「あなたの天幕の場所を広げよう」というタイトルを付けさせていただきましたけども、このみことばは四月の終わり頃に与えられました。神さまが与えてくださったみことばの一つで、突然主が私にくださったみことばです。

ここで毎週みことばが取り次がれていますけれども、神さまがくださるみことばというのは、神さまの権威の中から与えられるものなので、与えられるタイミングというのは、私たちの心のその時のコンディションですとか、周りの環境ですとか、そういったものを別として、主が「このみことばを今あなたがたに与えるよ!」というみことばの、その瞬間があると思います。それぞれの牧師先生、それぞれの中で受け取って、ここで語ってくださるわけですが、今回与えられたみことばは四月の後半に主が私に備えてくださったみことばで、「あなたの天幕の場所を広げて、そして綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。」という、そんなみことばが与えられている事を本当に心から感謝します。

この新城教会の働きも主によって進められておりますけども、この戦いの最中で主が今いろいろな事を広げておられます。私たちの思いと裏腹の部分で主が私たちより先に進んでくださっていることを日々実感しております。ですから、主ご自身の歩幅に合わせて、私たちも一緒に主と共に歩むことができればと思います。

 

コロナが始まって、もう一年以上経って、本当に大変な生活が余儀なくされていますけども、でも本当にここまで守られてきたことを心から感謝したいと思います。

この新城教会の中で、今日もネットで参加してくださっておられる多くの皆様がいらっしゃいますけれど、ネットにも参加できなくて、そして礼拝にも来ることのできないという兄妹姉妹が幾人かいらっしゃいます。この教会で以前は毎週来てくださっていて、一番後列の「優先席」と書かれていた所にいつも座ってくださっていた兄妹姉妹がおられました。授産所という所からいつも四人の兄妹姉妹が来てくださっていました。彼らは本当に喜びを持っていつも来てくれて、毎週のこの礼拝をすごく楽しみにしてくださっていたんですけど、一昨年の冬から、最初はインフルエンザが云々と言う事で私たち訪問できなくなりました。それまでは毎週木曜日に行ってお交わりして一緒にお祈りしてという、そういった時間を持っていたのですが、それができなくなりました。そしてそうこうしてるうちに、このコロナのことになってしまって、彼らはもうこの教会に来られなくなって一年半以上になってしまいました。

ですから本当に一生懸命お祈りしているんですけども、なかなか会えないということで、彼らの心の内を思うと何ともなんか切なくなってしまって、そして私自身も何とかして彼らに会いたいなとすごく思って、それまでも何回か電話はしたのですが、授産所のほうに電話をさせていただきました。

そしたら、「今回は家族という、そういうこととして会うことを許可します。」と言って、許可してくださいました。緊急事態宣言の前のことでしたけども、そうしたら、向こうの方がこうおっしゃるんですね。「四人が一緒に会うことはできない。一人一人で、なおかつガラス越しに会うことができますのでお越しになってください。」と言ってくださったので、私たち会いに行きました。本当にもう一年半ぶりだったので、みんな果たして元気であるんだろうかと、ドキドキワクワクしながら行きました。

 

そうしたら四人来てくださるということで、一番バッターどなたかな?と思ったら、最初に来てくださったのがこの方。

T兄でした。本当に彼は笑いの賜物があって、本当にいつも笑っていてくれる方だったんですけど、今回彼、車椅子でやってきましたけど、随分スリムになって、「ここまでスリムになったら、主の時が満ちた時には、体重、重くないから歩けるね。」と言ったら、「わはは!」と笑っていましたけど、本当にとっても嬉しい久しぶりの再会でした。

そして第二番目に来てくださったのが、この方、H兄でした。

彼も本当に一年半ぶりだというのに、元気だったんですね。「久しぶりじゃないか」と言ってきてくださって、そして、「毎晩教会のために祈ってるよ!皆んな大丈夫か?」それだったんですよ。彼らにしたらあの施設の中から、この一年半、一歩も出られていないんですね。ある意味外の空気吸ってないというか、一歩も出られてなくて、このH兄だけは、その施設内の工場にちょこっと移動することはできるんですけど、その他の三名の兄妹姉妹はお部屋と食事の場所、そこだけなんですけど、それぞれがお元気でいてくれて、とても嬉しかったです。「毎日祈ってる。毎晩祈ってる。だから頑張ってくれよ。」と言うんですね。それで近況報告をいろいろしました。そうしたら、「ちゃんと時が戻ってるからな。」と言っていました。彼は以前、「時が戻る」というメッセージを聞いた後、砂時計が止まったという、そういう奇跡を見たので、「主は時を戻して勝利を現してくださる。」と、そんなことを言っておられました。

そして三番目に来てくれたのが、J姉でした。彼女が来てくれて、彼女も喜びましたね。彼らも私たちもそれぞれ本当に喜びでした。やっぱり久しぶりに会うことができて、神の家族って素晴らしいなぁと、そんな風に思いました。車椅子で来て、「車椅子になっちゃった。」と、そう言ってましたけど、ぜひ覚えて祈り続けてあげてください。

そして最後に来てくれたのが、N姉でした。彼女、開口一番、「カンタ君は大丈夫?享子さんは大丈夫?」でした。自分のことではなかったのです。彼女はもうずっと家にも帰れず、ちょうど自宅はいちご農家なので、「いちごのこの季節にも帰れないよ。」と、そんなふうに言っておりましたけど、それぞれ皆さん元気にしてくださっていましたので、是非覚えてお祈りいただければと思います。

 

今、教会のほうで四月から始まっている早天祈祷会、本当に祝福されています。是非、ここまで来ることできる方はお越しになっていただければと思います。ちなみに昨日は三十四、五名の方々が来てくださっていました。

そこで毎回、祈りのカードというのがありまして、この缶の中に、この教会員の皆さんの全員の名前が書かれています。そしてそのカードで一枚一枚、皆さんがお祈りしてくださっていますので、必ず祈り合っています。是非、それぞれのご家庭で祈るのと同時に、来ることのできる方は一緒にお祈りいただいて、祈りの手をさらに高く挙げていくことができればと思っています。

本当に大変な時代の中にありますけども、神さまは変わることなく動き続けてくださっておられることを信じてます。このコロナの中で、いろんなことが変わっていくわけですけど、なんかすごく私たち一人一人、神さまがその心の深いところに光を当ててくださっているような時かなと思うんですね。神さまの光に当てられると、やっぱり人間汚いものなので、良い部分もあれば、良くない部分もあって、そこに光が当てられるので、すごく自分の弱さも感じたりします。

みことばの中に、ルカの福音書八章十七節、

 

『隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。』

 

とあります。隠されていて、自分だけで閉まっているようなこともあるのかもしれないですけど、しかしそこにも主は光を当てて、そして神さまはそこに神さまの回復と再建の働きを始めようとされていると信じます。

昨日のその早天祈祷会で、岡本先生が開かれたみことばの中で、ヨハネの福音書十五章五節の後半だけお読みしますけども、

 

『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』

 

このみことばが開かれました。私たち、本当にこのような中で弱さを感じますけども、しかしイエスさまを離れたら何もできない、そこに立って歩むことができればいいのではないかなと思うんですね。そして神さまご自身の現そうとされているリバイバルのご計画を一緒に担っていただいて、進み続けて行ければと思います。

 

今日もこのネットで今配信しながら、もしかしたらスマホを今見ながら礼拝を守っておられる方もいらっしゃいますし、タブレットかもしれないですし、またある方は大きなテレビに映してこの礼拝に参加されている方もいらっしゃるかと思うんですけど、以前私ここでメッセージをした時に、このスマホについてちょっと話したことがあります。「とても便利で、とても良いものだけど、でも使い道を誤るととっても良くないことに扉が開かれてしまうので気をつけましょう。」という、そんなお話をしました。

ですから良いことに使われるだけじゃなくて、悪い扉もすごく開きやすいと思うんですね。ある意味、お金と一緒で、お金はどうしても必要なもので、でも「金銭を愛することはあらゆる悪の根だ」と書かれていますので、そこに捕らえられると、マモンに捕らえられるわけですけど、スマホも一緒かなと思うんですね。でも私たち使わなきゃいけないような時代の中にいて、私自身もどっちかと言ったらデジタル系好きじゃないので、関わらなくて済んだらそれが嬉しいのですが、やっぱり枕元に置いていて、LINEで真夜中でも連絡が入ってすぐに対処しなきゃいけない事というのがあったりするので、やっぱり欠かすことができないんですね。

でも今回このコロナの中で、今まで以上にこのスマホとの距離感が近くなってしまったという人って、きっと世界中にいっぱいいると思うんですよ。だから本当にその中で、私たちも正しく用いなきゃいけないなと思うんですね。

この間、ある会議の中で、こんな話が出ていました。YouTubeもいいけど、新城教会の礼拝に出ていて、恵まれたな、終わったなと思って、そしてそのままつけておくと、何が始まるかと言ったら、ある時はカトリックのミサが始まってしまった。いや〜、本当にいい扉もあるし、悪い扉もあるから、そこは本当にそれぞれがしっかりと主にあってコントロールさせていただかなかったらいけないなという、そんな話が出ていました。

テサロニケの手紙 第一 五章二十一節に、

 

『しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。』

 

と、みことばにあります。ですから私たち、全ての事を主によって見極める。ある意味、教会が開いた扉だと思うんですね。「YouTubeで見てください。YouTubeで見てください。」でもその向こうには良いものもあるし悪いものもあるし、すれすれのものもいっぱいあるのではないかなと思うんですね。「あぁ、こんな世界もあるんだ。」と、今まで見なかった世界まで私たち、見たりするわけです。