音楽性も向上しましたが、それでも行き詰まるものです。「これ以上は超えられないなぁ・・。」と天井に当たった感じでした。そうなると、だんだん衰退していきます。壁を超えられるか否かが、賛美が前進するか否かにかかるのです。
その時に何が起こったのかと言うと、ロン・ブラウンさんとの出会いでした。これだって、普通に言えば、偶然の偶然でした。
父がロサンゼルスに行った時、ロンさんと偶然に出会ったのです。ロンさんが何者なのか、カークが何者なのか何も知りませんから、「東京リバイバル・ミッションに来たいって言っているけど、来たければ自費で来いって言っといた。」と言って父が私たちにCDを手渡しました。それらを見て驚きました。ロンさんとカークさんは有名な人でした。
ロンさんは偶然、ロサンゼルスの父の集会に、友達がギターを弾くからという事で遊びに来たらしいのです。しかしその出会いが、大きな賛美の変革となったのです。
その中に私の息子とか、上條頌とかも入れてもらって、今ではセキュラーの世界で、有名になりました。これも神さまが用意した出会いでした。
この教会からヘブンリーキングダムだとか、その他、様々なミュージシャンたちが生まれ育ちました。クラシックの方々も出てきたし、振り返ると、要所要所に、主の導きがありました。
子どもたちの賛美から始まって、五十年、六十年経った今、大きく成長しました。
しかしこのような成長の過程の中で、主はどこに導かれたのかと言ったら、「霊域的戦いの賛美と、被造物全体の賛美」の領域でした。
歴史を振り返ると、神の計画が見えてきます。子どもたちから始まった賛美が、最終的には、賛美で暗闇を打ち破る「霊域的戦いの賛美」と、「被造物全体が主を賛美する」という賛美がゴールだったのです。
「新城教会は賛美が盛んですね・・。」とよく言われますが、そうではないのです。主の大きな計画とゴールがあった為、導かれたのです。それが「霊域戦いの賛美と、被造物全体の賛美」でした。
「人類の歴史は、被造物全体の賛美集会に向かって進んでいる」とお話ししましたけれど、黙示録五章十三節、
『天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」』
ここでは人だけでなく、すべての被造物が、主をほめたたえ賛美しています。主はこのゴールに向けて準備させ、賛美を発展させて下さったのです。
新緑の五月、被造物が最も息づく季節です。賛美の歴史を振り返るとともに、人類に課せられている使命を確認したいと願います。
「最高の賛美」が黙示録五章に述べられているのですが、旧約聖書の中にも、最高の賛美について述べられています。詩篇百四十九篇六節。
『彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。』
ここに神への「称賛」と訳されている言葉があります。これはロメマオというヘブル語が使われています。賛美を表す単語はいくつかあるのですが、詩篇百四十九篇六節だけに使われているのがこの単語です。意味的には「最高に高められた賛美」という意味です。
最高の賛美が主にささげられるときに、もろ刃の剣が手渡されるのです。
その剣はどういう剣でしょうか。
『それは国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。また書きしるされたさばきを彼らの間で行うため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。』
となっています。最も高められた賛美が献げられる時、両刃の剣、一方の刃では、最高に主がほめたたえられ、もう一方では、敵を倒す霊的戦いの武器になるのです。『国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。』と告げています。敵とは、目に見えない王国、悪魔の王国に属する霊的存在です。その国の王はサタンです。その下には階級があって、様々な悪霊どもが、サタンの命令によって、組織的にいろいろな領域を支配しています。しかし最高に高められた賛美は、各組織の司令官たちを、剣で打ち負かすのです。
『それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。』と結んでいます。
この「最も高められた賛美」とは、具体的には、詩篇百四十八篇を指しています。詩篇百四十八篇はどういう箇所でしょうか。今日も、皆さんと一緒に賛美しました。それは「ハレルヤ天において」という賛美でした。これは、天から地のどん底まで、すべての被造物が主をほめたたえ賛美するという歌です。
一節から四節まで読んでみましょう。
『ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。
主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。
主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。』
どうでしょうか。命があるように見えるものも、無機質に見えるものも、神の被造物はすべて、「神を賛美する機能を持っている」ことを表しています。
五節を見ると、
『彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。』
とあるのですが、詩篇百四十八篇は「主をほめたたえよ。主をほめたたえよ。」と命令が続くのですが、五節と十三節だけ、表現が少し違うのです。『彼らに主の名をほめたたえさせよ。』となっています。
新改訳2017だと、全て「主をほめたたえよ。」に統一されています。しかし本来は、「主の名をほめたたえさせよ。」と使役で表現しなければならない箇所です。
ここではヘブル語の特殊な用法が使われていると言われます。「主の名をほめたたえさせよ。」とは、動詞にピエル態が使われているのです。ヘブル語の動詞には、「ビニヤーン」という、「態」が七つあるそうです。態とは、「行為をどの視点で見るかを区別する役割」です。私はヘブル語はできませんけれど、調べたところによりますと、ヘブル語の動詞には「態」が七つあって、どれかに当てはまり、態によって、訳全体が変わるようです。
その中の三つ、パアル態、ニフアル態、ピエル態を、ある人がこのように解説していました。少し悪い言葉なのですが、分かりやすいのであえて使用しますが、
「殺す」というパアル態は、ニフアル態では「殺される」と受け身になります。しかしピエル態で表現すると「ぶっ殺す!」となるそうです。「殺す」と「ぶっ殺す」では、強度がかなり違いますよね。
五節と十三節、『彼らに主の名をほめたたえさせよ』が、ピエル態表現だと、命令は最も強い口調になります。
これが、「人類に課せられている役割」であるのです。被造物に対して、「イエスさまを賛美しろ!」と力の限り、悪い言葉で言えば、「ぶっ殺す!」みたいな、激しい表現で命じる役割が課せられているわけです。
特に五月は、被造物が息づいている中で、五節と十三節にあるように、『彼らに主の名をほめたたえさせよ。』の役割を果たす必要があります。
また、五節と十三節だけに、「主の名」とつけ加えられています。他は「主をほめたたえよ。」となっていますが、「主の名」をほめたたえさせよ、です。
私たちにとって主の名とは誰ですか?イエスさまです。ということは、被造物のところに行って、「イエスさまを賛美しろ!」と、ピエル態で、激しく宣言することです。
聖書を理解するときに、詩編も黙示録もそうですが、当時の宇宙観を理解する必要があります。
聖書は何千年も前に書かれた書物です。今の人たちとは全く、考え方・世界観が違うのです。特に宇宙に対する捉え方は、現代人とは、全く違うわけです。昔の人たちは地球が球体なんて知りませんでした。平らだと信じていました。
聖書は一義的には、当時の人たちが読んで分かる書物でした。彼らが持っていた世界観・宇宙観を知ると、現代人も、詩篇百四十八篇などよく理解できます。
「古代ヘブル的宇宙観」は、今とは全く違うのです。
少し分かりやすく表にすると、こうなります。私たちは地上に住んでいますけれど、その上に空があります。この空の中には、月とか星とか太陽が含まれます。しかしその上に、「天の水」があると考えられていました。
さらにその上に、諸天があるという、幅広い世界観を持っていました。諸天があるとは、高次元が存在するということです。最近、宇宙物理学などでやっと、見える世界だけでなく、高次元の存在が議論されるようになりました。私たちは「時空」の中に住んでいますけれど、それ以上の空間があるのです。しかし今から何千年も前の人たちは、諸天がある事をすでに理解していたのです。
そして、さらにその上に「諸天の天」、すなわち、神が住んでおられる場所があると信じていたのです。
地下に対しては、「シェオル」、一般的に言えば死者の世界があると考えました。地獄と呼ばれる世界が地下にあり、さらには、地のどん底があると考えていました。
これらを知って、聖書を読みますとよく理解できます。
先ほどの、『ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。』の「天において」とは、空ではなくて天です。英語の聖書だと「heavens」と複数です。ゆえにこれは「緒天において主をほめたたえよ。」となります。「いと高き所」と言ったら、「緒天のまた上の天」です。「神さまが住んでおられるところで、ほめたたえよ。」ということです。そこには万軍の天使たちもいます。
次に『主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。』これは「空」です。
『主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。』とありますから、緒天の下にある「天の水」の領域です。宇宙観を知って聖書を読むと、本当に分かりやすいです。
地上の中に、土地も海も含まれ、それは目に見える被造物の世界です。
六節から九節を見ますと、
『主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。
地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。
火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行うあらしよ。
山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。』
地上にある、様々な無機質と思われるようなものに対しても、主をほめたたえ賛美しろ!と、命じています。
そして十節には、
『獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。』
動物たちも神から造られたわけですから、彼らは賛美の機能を持っています。すべての動物たちは賛美できます。しかし我々が「主をほめたたえ賛美しろ!」と激しく、彼らに命令しないといけないのです。
先週もお話ししましたように、彼らは首を長くして神の子どもたちを待っています。自分たちのところに来て、激しく、「主の名、イエスさまを賛美しろ!」と宣言してくれるクリスチャンを求めています。
そして、十一節、十二節には、
『地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。』
と命じられています。やっとここで、人類が出てきます。案外賛美は、人だけが歌えばいい!みたいに考えているかもしれませんが、そうではなくて、もちろん私たちも賛美するのですが、人は、他の被造物の賛美スイッチをオンにする役割です。被造物全体の賛美大会が迫っています。
『主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。主は、その民の角を上げられた。主のすべての聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ。』
と結んでいます。被造物が賛美し始めると、何が起こるのか。それは、イエスさまがこの地上にお帰りになるということです。賛美の中でイエスさまは、天から下って来られるのです。
なぜならば、神の創造の目的は、「あなたのみ心ゆえに万物は存在し、また創造されたからです。」とあるように、「み心ゆえ」とは抽象的ですけれど、訳し直すと「喜びのゆえ」となります。神さまは何のために、万物を造られたのか。それは喜びのゆえ、賛美させるためです。
前にもお話ししましたけれど、神はご自分が創造されたすべての被造物を通して、神を賛美するオーケストラを編成されたのです。
なぜ神さまはこんなに多くのものを造られたのか?それは、すべてをして賛美させるためです。神さまはご自分を賛美させるオーケストラをこの宇宙に編成されたのです。
一般の音楽は何のためにあるのかと言ったら、やはり人が楽しむためです。最近はCDではなくて、ダウンロードが主流になりましたが、どうして音楽を制作するのかというと、皆が楽しむためです。苦しむためではなくて、楽しむためです。
神さまも同じです。すべての被造物を、神を賛美させるオーケストラとして造られたのです。これは納得のいく答えです。