わたしはすでに栄光を現した わたしは再び栄光を現そう

 

そしてもう一つ、ザワメキ主催で集会を行うことになりました。来年の一月三日、午後十二時から七時まで、七時間の賛美集会を開催する予定です。この集会はこの地この場所で行いますので、ぜひご参加ください。お昼を少し早めに取っていただき、七時まで賛美に集中できるようにしていただければと思います。食事は各自で準備する形となりますが、七時間、もう一度心新たに賛美をし続けたいと思います。

 

詩篇百十九篇の一六四篇にはこうあります。

 

あなたの義のさばきのために、私は日に七度あなたをほめたたえます。

 

と書かれているので、本当に主を賛美し続けて、私たちの賛美があふれ続けたらいいなと思います。以前、「日に七度賛美をする」ということをしたことがありましたが、朝起きたときから始めると良いと思います。「疲れが取れないな」というような、そんな一言からではなく、「主を賛美します!」そして、朝食の時に賛美して、昼食の時に賛美して、午後四時の「ザワメキ同刻プレイズ」の時間にして、夕方の仕事が終わったときにして、夕食のときにして、そして寝る前に賛美をすることで七回となります。もう一度、ぜひ皆さんも賛美をしていただければなぁと思いますので、もう一度、心新たに賛美していきたいと思います。

 

私が賛美を与えられて、まもなく始めたことの一つは、「詩篇を毎日読む」ということです。一か月で詩篇を一巡しようと決め、それをずっと続けています。三十一日ある月には調整しながら読み進め、二十八日しかない月には少し多く読んだりして、毎日五篇ずつ読み進める中で、一番長いのが百十九篇です。百十九篇は非常に長いので読むのが大変ですが、でも内容が面白く、一つの法則に基づいて書かれています。八節ずつ区切られており、それぞれにテーマがあり、その八節の中で主が語る言葉があります。そんなことを意識しながら読むと、さらに深く理解できると思います。

 

百十九篇の一四五節から一五二節までの八節を一つの例として読みます。

 

私は心を尽くして呼びました。主よ。私に答えてください。私はあなたのおきてを守ります。

私はあなたを呼びました。私をお救いください。私はあなたのさとしを守ります。

私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。

私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます。

 

「夜明けの見張りをしている人よりも先に目を覚ます」というのはすごいですね。この詩篇百十九篇が誰によって書かれたのかははっきりとは書かれていませんが、たぶんエズラではないかと言われています。続きを読みます。

 

あなたの恵みによって私の声を聞いてください。主よ。あなたの決めておられるように、私を生かしてください。

 

主が決めてくださっている私たち一人ひとりに対する役割と人生の目的というのがあるので、その決めておられるように私たちが生きることができたら、どれほど素晴らしいことでしょう。一五〇節、

 

悪を追い求める者が近づきました。彼らはあなたのみおしえから遠く離れています。

しかし、主よ。あなたは私に近くおられます。あなたの仰せはことごとくまことです。

私は昔から、あなたのあかしで知っています。あなたはとこしえからこれを定めておられることを。

 

とあります。本当に私たち、主が決めておられる恵みの中で、それぞれに与えられたそれぞれの使命を全うするために歩み続けることができたら、どれほど素晴らしいことかと思いますので、ぜひ主の祝福を求めて続けていくという、なんか「ください」というよりも、主の決めておられるように歩み続けていく時に、私たちは主の平安と喜びの中で主のために存在するということがさらになされていくのかなと思います。

 

この百十九篇、心に留まるみことばがたくさんあると思うのですが、七十一節にはこうあります。

 

苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

 

と書かれていますので、本当に苦しみや悲しみ、試練といったものが、皆さんの人生の中にもあるかと思います。しかし、それを振り返ったとき、「これが幸せだった」と言える人生こそが、イエスさまの恵みに満ちたものだと思います。ぜひ、その主の愛の中で生き続け、歩んでいきたいと思います。

 

今日の本題のみことばに戻っていきたいと思います。実は今回、今回のレコーディングの中で与えられたみことばで、本当に主が語ってくださったと感じたみことばだったので、皆さんともう一度分かち合いたいと思います。ヨハネの福音書十二章二十七節から二十八節をお読みします。

 

「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。

 

父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」

 

イエスさまが本当に私たちを救い出してくださり、今ここにあるということは、どれほど大きな恵みと選びの中にあることかと、本当に感謝します。

 

でも「再び栄光を現そう」と、イエスさまはそうおっしゃっているので、この終わりの時代において主が私たちの生活のただ中で再び栄光を現してくださることを信じて歩んでいきたいと思います。

 

このヨハネ十二章の大きなテーマは「神さまのご栄光」です。十二章を見ていくと、イエスさまが都に入場される場面から始まります。十三節にはこうあります。

 

しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

 

ホサナ!と、「しゅろ」と訳されると、わじろというのがあるので、なんとなくピンとこないですが、これがナツメヤシの木の枝らしいです。

 

「ダビデの子にホサナ!」と、なんか日本のしゅろとちょっと違うイメージがあまりにも大きいですが、でもこれをもう一度掲げて「イエスさま!帰って来てください!」と叫んでいくことはとても大きなことかなと思います。

 

同じヨハネの福音書十二章十三節ですが、二〇一七年版の方がわかりやすいと思うのですが、

 

なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

 

ということで、本当に、もう一度イエスさまを心からお迎えするために、「それじゃぁ私もしゅろの枝を取って・・」と言ったら、あちこちで枝がなくなってしまいますが、主に感謝しながら歩んでいきたいと思います。

 

教会の事務所に私のブースがあるのですが、そこに少しずつ植物を置いています。その中に「しゅろの木」を最近部屋に移したのですが、以前は外に放置されていました。

 

以前はもうちょっとそれっぽい「イエスさま!来てください!」という感じの植物だったのですが、今回アメリカに行っている間に、見事に枯れ果ててしまいました。だからちょっと残念だったのですが、「ダビデの子にホサナ!イエスさま!帰って来てください!」と、そのように歩んでいくことができたらどんなに素晴らしいことかなぁと思います。

 

ヨハネ十二章十三節で、イエスさまがエルサレムに入場されたときのことを「パームサンデー」と言うそうです。そのしゅろの祝福、しゅろの木を持って、「イエスさま!来てください!」という、その日曜日だということらしいですが、主をさらに求め続けていきたいと思います。

 

黙示録七章九節から十節にはこうあります。

 

その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

 

これは天の姿です。み座に天の父なる神さまがいらっしゃって、子羊イエスさまと聖霊さまがいらっしゃる中で、そこで先に天に帰った皆さんの、愛するご家族だったり、友人、知人、この教会の方々、今、そのみ座の前で現実に主を仰ぎ見つつ、そこでもしゅろを手に取って、主を賛美しているのです。

 

この天と地が一つとなり、主を賛美し、主を礼拝するようにと、主が導いてくださっていますが、主のみわざがなされることを信じて賛美し続けたいと思います。

 

詩篇十七篇十三節にはこうあります。

 

主よ。立ち上がってください。彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください。あなたの剣で、悪者から私のたましいを助け出してください。

 

こんなみことばがあるので、「主よ!立ち上がってください!彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください!」本当に、私たち、「あなたの剣で」というのは「イエスさまの剣で」、悪から守っていただくために、主の素晴らしさをほめたたえる、そのような者であり続けていきたいと思います。

 

第一コリント六章二十節にはこうあります。

 

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」

 

私たち一人ひとりは、「代価を払って」というのは、イエスさまが私の身代わりに十字架にかかって釘付けに、この生身の体を十字架にかけて苦しんでくださった。それほど大きな代価を払って十字架にかかってくださった。本当にイエスさまの愛を覚える時に、本当に大きなことだなと、もう一度感謝して、主を崇め讃え感謝して、そのイエスさまがまもなく帰ってきてくださる。そのためにもう一度、「主よ!帰って来てください!」と心から賛美する、そのような者でありたいと思います。

 

詩篇百十九篇の一四五節から一五二節の中に、心に留まるみことばが多くあります。

 

私は心を尽くして呼びました。主よ。私に答えてください。私はあなたのおきてを守ります。

私はあなたを呼びました。私をお救いください。私はあなたのさとしを守ります。

私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。

私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます。

あなたの恵みによって私の声を聞いてください。主よ。あなたの決めておられるように、私を生かしてください。

 

「あなたの決めておられるように」、だから本当に主が決めてくださっている通りに歩むことができるように、悪者が近づくこともあるかもしれませんが、しかし主は私たちの人生の中で栄光を現してくださるので、そのことを信じて歩んでいきたいと思います。

 

詩篇二十七篇四節にはこうあります。

 

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

 

と書かれていますので、私たちは本当に主の宮に住むためにも、主のみことばにさらに親しんで、歩んでいく時に、そのような祝福があります。

 

第二コリント十二章九節にはこうあります。

 

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 

主のご栄光を現されるために、「強くなりなさい。もっと磨きをかけなさい。」とイエスさまはおっしゃっているようにも、弱さの中に主が働いてくださるので、その主のみわざがなされることを期待して歩んでいきたいと思います。

 

本当に主のみ業を、これからの歩み一歩一歩の中になされて、そして主が、主が帰られるために、天と地が本当に一つとなって、「主よ!帰って来てください!」と私たち、本当にそのしゅろの木を、先に帰ったうちの父もしゅろの木を持って、「イエスさま!」ときっと今日は一緒に賛美してくれているのかなと、そんなふうに思っていますが、ぜひその主と共に、主が私たちのためになしてくださったみわざを現し続けていきたいと思います。