ただ終わりの時代ということには変わりがないので、日々イエスさまの帰られる日が近づけば近づくほど、戦いは激しくなって、二〇二一年、二〇二〇年より手強くなるかなっていう、そんな印象を皆さんももう持っておられるかもしれないですけど、でもその中で神さまが私たちに語っておられるのは、「喜びなさい」というのが、主からのみことばですので、ですから喜び続けていきたいと思います。

 

先ほどの賛美の中で、「さぁリズムにのって」という歌を歌いましたけど、あの賛美が与えられたのは、詩篇六十八篇三節から四節のみことばなんですね。実はこのみことば、今年の上條先生が与えられているみことばなんですけど、

 

『しかし、正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。』

 

私たちは主のみ前で、主の帰られる道を備えるという大きな戦いを主から託されて戦っていますけども、そのみ前で私たちは何をしたらいいかと言ったら、小躍りして喜べ!というのが主からのみことばです。激しい戦いで、激しい苦しみの中に置かれることもあるかもしれないけども、その中で私たちはカナンの地の祝福をいただく中において、やっぱり喜びを失うことなく、絶えず歩んでいきたいと心から願うものであります。

 

昨年、何度も語られたみことばのエレミヤ書二十九章十節の最後に、

 

『あなたがたをこの所に帰らせる。』

 

というふうに主は語っておられました。「この所」というのは、他でもなく、カナンの地なんですね。約束の地、祝福の地、乳と蜜の流れる地。それがカナンの地で、その祝福を与える!という、その祝福の言葉を受け取りたいと思います。

 

モーセがヨシュアとカレブ、そして十人の各部族の代表者たちをカナンの地に遣わした時の事が民数記に書かれています。そのことが民数記の十三章二十節を見ると、モーセがこう言っています。

 

『土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。』

 

その十二人の斥候を遣わす時に語った言葉ですけども、それに対して行って帰ってきた時の出来事がこの二十三節に書かれていますけども、

 

『彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。』

カナンの地の祝福というのが規格外だったんですね。本当に大きな規格外な祝福で、この置物にあるように、二人で大きなぶどうを担ぐほどの祝福。私たちの普段食べるぶどうって、いくら大きくても片手で乗るんですけど、それを片手どころか、二人で担がなければならないようなものがカナンの地にはあった。この二〇二一年、本当に神さまのくださるその祝福というのが、どのようなものか、この七十年が満ちて、回復と再建が現されるというのがどのような祝福に満ちたものか、抱えきれないほどのものだということを信じていきたいと思います。

 

ですから喜びに満ちたこの二〇二一年の幕開けの中で、神さまが私たちに語っておられることを一つ一つ受け止めていきたいと思います。

ただやっぱりリバイバルというのは大きな主の戦いで、二〇二一年がどのような戦いになるか分からないですけども、戦いであることは変わらないですね。

 

先日もお証しさせていただきましたけど、先日、秋田にザワメキで奉仕させていただいた時に、本当に神さまがリバイバルというのはこういったものだよということを教えてくださった気がしました。猛吹雪の中で私たち、秋田の地に降りたって、そして地元の牧師先生が私たちを迎えに来て下さって、その先生の車に乗り込みました。もうすでに雪が積もり路面は凍結していました。すごい雪で前がよく見えないような中で運転なんですけど、さっと運転し始めるとやっぱり結構スピード出されるんですよ。「先生、先生!気をつけましょうね。」みたいな感じで始まりました。でも「僕たち慣れてるから。」と、そうおっしゃっていて、それで進んでいきました。

それで車内の中ではいろんな話が弾んでたんですけども、その中でリバイバルについての話になり、リバイバルには霊的戦いがあるという話をし始めた直後の出来事でした。私たちの目の前の車が軽自動車だったんですけども、私たちの目の前を走っていたかと思ったら、くるっとスピンして回り出しちゃったんですね。スリップして、そしてガードレールにぽこっと当たっちゃったんですね。激しい当たり方じゃなかったので大丈夫かなと思ったんですけど、ただその雪の中だったので、これはもう助けに行くしかないなと思っていたら、その方、生命力のある方で、自力でバックして、そしてまたゆっくり進み始めたんですね。だから大丈夫かなっと、前だけを私たち全員で見ていたら、そしたら次の瞬間だったんですけど、後ろからバーンッ!と後続車にぶつけられました。本当にびっくりしました。シートベルトしててよかったなと思ったんですけど、もう激しい衝突で、私的にはそこまでの経験がなかったので、バーンッ!と来て、目が熱くなって目ん玉飛び出るってこういうことかなと思ったんですけど、大丈夫かなぁという状況でした。

だから神さまは、リバイバルの働き、本当に大きな栄光を現すけども、そのリバイバルの戦いというのは、土台そのものを勝ち取るための働きで、その地域に行ったら、その地域を勝ち取る。それは私たちではなくて、神さまがしようとされるために、私たち遣わされていくので、やっぱりその地域に対する本当に大きな戦いを進めさせていただかなかったらいけないという思いを、もう一度強く持ちました。

だから思わず「先生、ごめんなさい。」って言ってしまいましたけど、祈り不足だったかな?いや、でも本当にいつも皆さんが祈ってくださるからこそ、そこまでで終わった、本当に守られたんだと思うんですけど、でもその中にも本当に主の助けがあって、守りがあって、一一〇番倍したら今日はあちこちで雪の事故があるのでしばらく待っていただかなきゃいけないと言ったので、これは一時間から一時間半、待たなきゃいけないなと思ったんです。でも私の感覚では五分後に警察官がジャンジャジャーンって現れたんですね。本当にいい方でした。

吹雪の中なのにもかかわらず、すごく暖かさを感じさせてくださる若い警察官で、「大丈夫ですか?」と言ってくださいました。「一応ちょっと皆さんの名前を聞かなきゃいけないので、後部座席のあなた、何ていう名前ですか?」とおっしゃったので、「滝元開と言います!」『たきもと…』「元は元気の元です。開は開閉の開。開く閉まるの開。」『うーん、書けない。』とか言うんですよ。この人わかんないのか。「門に鳥居みたいのが、、」と言うんですけど、『うーん、ちょっと書いてください。』と言うのです。えっ?わかんないの?と思ったら、そうではなくて、現場が二つ目だったらしくて、他の現場でも一生懸命やって手が悴むような仕事をして、さぁ帰ろうと思って、コンビニの駐車場にいたら、電話があって五分先のところに私たちが居たということで来てくださって、悴みながらしてくださって、神さまの助け、こんな中にもあるんだなぁと、彼のためにも本当に私たち祈りました。

そしてぶつけちゃった二十三歳の男の子も、「ごめんなさい。ごめんなさい。」とか言っているんですけど、ただ牧師先生が優しい方で、「よくもやってくれたなー」という感じ、ゼロなんですよ。「大丈夫?大丈夫?」と、本当に優しくちゃんと対応して、「このあとは保険屋さんがやってくれるから大丈夫だから。」と言って、それでその時はそれで終わりました。やっぱり本当に主の戦いの中には助けがありますけど、でも戦いはあるんだという事を、もう一度しっかりと知りなさい!ということで神さまが教えてくださった、そんなひと時でした。

 

そして、秋田での奉仕、本当に祝福されました。皆さんと一緒に賛美したんですが、二回の礼拝での奉仕だったんですけど、午前八時からの礼拝と、午前十一時からの礼拝で、「八時からの礼拝は人が少なくてお年寄りだから、しかも秋田の人たち、あんまり表情ないから、気になさらないでくださいね。」と言われました。「はい、分かりました。」と言って、集会を始めたんですけど、表情まで確認はよくできないんですけど、ただ歌い始めたら熱いんですよ、皆さん。ぐわーっと熱く燃えてくるというのがすごく伝わるんです。あれ不思議ですね。面倒くさいなぁと思うと、面倒くささがこっちに伝わってきますし、「イエスさま!」と思って歌っていると、こちらまで熱くなるんですね。だから本当にその賛美の中で、本当に神さまが遣わせてくださった素晴らしいひとときだったなぁと思って感謝しました。

 

そして帰ってきて、自宅に着いたら、その秋田の先生からLINEが届きました。「本当に今回よかった。戦いもあったけど祝福された。」という報告で、それとともに、「あの後、その二十三歳の青年と、そのお母さんと、母子家庭らしくて二人で教会に来てくれた。教会でいろんなお話をすることができて、そして最後は一緒に会堂の中に入って一緒に祈った。そして帰る時には、また教会に来ますと言って帰って行った。本当に祝福だった。」と、そうおっしゃっておられました。

神さまの戦いは進みます。敵はやっぱりサタンも生きているので、何とかしてその隙あらば、バンッと攻撃してくるのがサタンの働きですけど、私たち、主によって、本当に勇気を失うことなく、戦い続けていきたいと心から願います。

 

昨晩はザワメキのワーシップシャウトライブ配信が行われました。本当に祝福の時で、多くの方々が一緒に主を見上げて賛美してくださいました。その中でカンボジアの宣教師の宮野宣教師という方がメッセージを届けてくださいました。

この方が宮野宣教師なんですが、東京の有名な大学を出て、すごく賢い方なんですけども、カンボジアに行って、主からの使命をいただいて、このゲートウェイという子どもたちのための働きをされて、この子どもたちの救いと彼らの成長のために本当に頑張っておられます。

その先生が昨日は素晴らしいメッセージをしてくださって、その中で語られたのがアイデンティティということについて語られました。アイデンティティというのは、人や会社などが他人から推し測られたものではなく、「自分自身」という存在に対して、自分で定義できる意識を持っているもの。

ですからアイデンティティ、「あなたは誰ですか?」と聞かれた時に、「私は新城教会の滝元開です。」と普通言ってしまいますよね。「私はどこどこの会社の誰々です。」「どこどこの学校の誰々です。」「どこどこの学校を出た誰々です。」というふうに言うわけですけど、でもそれらは外側から自分たちに対して測る測りであるわけで、「あなた自身は誰ですか」ということが、終わりの時代にはすごく大切だというメッセージをしてくださっていました。

ですから本当に激しい戦いの中で、例えば会社が倒産すると、「どこどこ会社の私です。」という、そのどこどこ会社がなくなってしまうわけですよ。でもそんな中でも立ち続けることができるためには、自分自身のアイデンティティというものがはっきりしなきゃいけない。それはどういったアイデンティティが必要かというと、「油そそがれた神の子としてのアイデンティティ、それを持ちなさい。」というメッセージでした。

本当にこの二〇二一年に対して、神さまが私たち一人一人は神の子どもであると、神の子として油そそがれた者であるという、そこに立つべきだなということを本当に主は語ってくださった気がしました。

 

ヨハネの福音書一章十二節に、

 

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』