2024年12月15日(日)新城教会副牧師 滝川充彦
使徒の働き 1章8節
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、 ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、 わたしの証人となります。士師記6章12節
主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士 よ、主があなたとともにおられる。」
今日こうして皆さんとともに神さまに礼拝を捧げられる恵みを心から感謝いたします。
クリスマスの各集会が始まり、神さまが祝福してくださっているクリスマスの良い季節を私たちが過ごせていることを主に感謝します。
今日は「私は主の証人!主の勇士」というタイトルで、神さまからみことば、神さまのみ思いを皆さんとともに受け取っていきたいと思います。
使徒の働き一章八節:
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
そしてまた、使徒の働き二章三十八節:
「そこでペテロは彼らに言った、『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。』」
とあります。
今はイエスさまが十字架にかかられた後、聖霊さまが臨まれた新約の時代、教会の時代です。そしてその時代の中で生かされている私たち一人ひとりは、イエスさまと出会い、バプテスマを受けるならば、私たちは神さまから一方的に無条件で、賜物として、ギフトとして聖霊さまをいただくことができます。教会、私たち一人ひとりは、聖霊さまの住まう宮とされているということが神さまからの約束です。
私たちが何か努力をして聖霊さまをいただく資格を得るのではなく、主イエス・キリストを自分の神さまと信じて、洗礼を受けたならば、神さまから聖霊さまをいただくことができるのです。
使徒の働きの一章八節で「聖霊さまが臨むとき、私たちは力を受けます」。私たち一人ひとりは聖霊さまが臨まれて、力を受けた者であるということ、そして証人とされているということを今日皆さんとともに覚えていきたいと思います。
その「証人」という言葉は、ギリシャ語では「マルトゥース」という言葉が使われています。その意味は目撃者とか、また目や耳で直接目撃した人、そんな意味合いがあります。私たちは、今、聖霊さまの働かれる時代の中にあって、イエスさまを直接この目で見て、またイエスさまの声をこの耳で直接聞いたことがないかもしれませんが、私たちは証人とされているということは、イエスさまご自身のことを直接見たかのような存在、またイエスさまの声を直接聞いたかのような存在とされているのです。
また、この「証人」という言葉の中に、「法廷で証言できる人」という意味合いがあります。法廷で証言をする証人、重要な人物でありますけども、この地において、また天にも法廷がありますが、天の法廷においても、主の証をしていくことができるというわけです。
そして私たちは何を証言していくか、それはイエスさまをこの目で見て、耳で聞いた、まさに生ける真の神さまを証しする存在、それが私たち一人ひとりであるということを、今日覚えていきたいと思います。
イエスさまが十字架に架かられた後、聖霊さまが激しく初代教会に、使徒たちに臨まれました。そして、聖霊さまが弟子たちに働かれて、主から力を受けて、イエスさまが行った同じようなみわざを、新約の使徒たちが、イエスさまの十字架に架かられた直後に行っていきました。癒しや、悪霊を追い出すような、同じみわざを、行うようになっていきました。
代表的な使徒ペテロは、時にイエスさまから叱責を受けるような言動をしたりしました。また、イエスさまと使徒として一緒に生活をして、イエスさまと同じ食事をして、イエスさまの声を聞いて、イエスさまを目撃した証人であったわけですが、ペテロは、イエスさまが十字架にかかる前には、「イエスなんて知らない」と、失敗してしまう、否んでしまう、そんな弱さを持った人物でありました。しかし、聖霊さまが臨まれた後、彼の生き方はどうなったでしょうか?本当に命がけで、イエスさまのことを伝えていった。イエスさまが与えてくださった十字架の救い、勝利、良い知らせ、福音を世界中へ知らせていったことを、聖書の中で私たちは見ることができます。
またパウロもそうです。「キリスト者」と呼ばれるような人物たちを迫害した者でありましたが、神さまに触れられて、聖霊さまが臨まれて、目が開かれて、もう何度も死線をくぐり抜けながら、福音のために、イエスさまのために生きた姿を見ることができます。それはまさに聖霊さまの働きであったということです。
「福音」とは、旧約時代の救いの概念が、「求心的」だと言われます。
ユダヤ主義的な考え方に、「同化していく」、外の人たちを取り込んでいくという、そんな旧約の救いの概念がありました。
神殿に主が臨在されて、神殿で礼拝をしていたということもあって、多くの離散していたユダヤ人たちが、エルサレムの神殿に巡礼しました。求心的なイメージがあるということなのですが、新約聖書は違うのです。
先ほども見ましたけれども、地の果てまで福音が広がっていく。その証人となっていく。遠心的だと言うのです。
水がポチョンと水面に落ちると、円がふわっと広がっていきますよね。そのように福音が全世界へと拡大していく。まさに世界宣教の時代、それが新約聖書の時代の救いの概念であるということです。ユダヤ人の枠を越えて、すべての民族や文化圏に至っていく。その働きの中に召されている一人ひとり、主の証人であるということを覚えていきたいと思います。私たちは生ける真の神さまを証しする存在です。
少しクリスマスの話をしたいと思います。クリスマスの集会が大変祝福されています。先日の日曜日、この場所で「クリスマスは教会で!」という働きがなされました。合計で百三十五名の方々が集い、そのうちイエスさまをまだ知らない四十五名の初めての方々が神さまによって集められ、福音が伝えられました。
また、昨日行われたクリスマスコンサートにも二百六十名ほどの方々が集まりました。その中には多くのイエスさまを知らない方々も含まれており、今、私たちが真の神さまが生きておられることを証しする良い季節が与えられております。このクリスマスの季節を証人として、福音の拡大のために召された私たち一人ひとりの役割を全うしていきたいと、そのように願わされます。
今週もたくさんのクリスマスの集会がありますが、私たちは主の証人として、福音宣教のために神さまから関わりを委ねられた方々(お友達や家族)をお誘いしていきたいと思います。
私たちは自分自身を見つめるとき、弱さや足りなさを感じることがあります。自分が証人だと言われても、私は語っている者ですが、自信を持てないようなところもあります。しかし今日、皆さん一人ひとりは神さまによって創られた存在、そして神さまによって選ばれ、救い出されて、洗礼も主が与えてくださって、今聖霊さまが私たちのうちにおられる証人であるということを覚えていきたいと思います。
少し、私たち一人ひとりの存在ということで、神さまの創造の視点から自分自身を見つめてみたいと思います。
私たちが夜空を見上げると、たくさんの星々がありますよね。私たちの地球は「天の川銀河」という所に存在しています。天の川銀河は、光のスピードで十万五千七百年かかってやっと端から端まで走り抜けることができると言われています。
光のスピードは一秒間で約三十万キロメートル、「いち」と数えたら、地球を七周半回るスピードです。すごい速さですよね。そのスピードで進んでも、天の川銀河の端から端まで到達するのに十万年くらいかかる、というのです。
そして、星々の数を見てみると、天の川銀河には二千億個くらいの星があると言われています。そして、宇宙にある銀河の数は大体一千億個くらいだと言われていますが、実際のところ、正確な数は分からないのですが、たくさんあるというのは確かです。
では、もし銀河一つに二千億個の星があるとしたら、それが千億個の銀河にあると考えると、宇宙空間に漂う星の数はどれだけになるでしょうか? 二千億×一千億……。計算してください!たくさんの星があるということですね。
そして、私たちの地球は太陽系に属しています。地球は太陽に比較的近い位置にあります。太陽の中心部の温度は一千六百万度もあるそうです。そして表面温度は六千度。さらに、太陽フレア(太陽表面での大爆発)で放出されるガスは千万度以上の高音に達することもあるそうです。太陽風などで地球にも悪い影響を及ぼすこともあると言われていますが、すごいエネルギーですね。
そして、太陽と地球との距離は、一億四千九百六十万キロメートル。光の速さで考えると、地球から太陽まで約八分十九秒かかるそうです。光の速さでもそれだけかかるということは、太陽は私たちから割と遠い位置にあるということです。しかし、「ちょうどいい距離」にあるおかげで、地球はこのような気候で保たれているのです。
太陽に近い水星は昼間の温度が四百度を超え、私たちが生きていくのはとても難しいですよね。一方で、太陽から遠い海王星では、昼間の温度がマイナス二百二十度にもなるそうです。これは太陽の光が地球の九百分の一しか届かないためです。
こういった神さまご自身の不思議なちょうどいい創造の中で地球が存在して、「ハビタブルゾーン」と呼ばれる、生命が存在できる絶妙な位置に置かれています。そして、その地球の中で、私たち一人ひとりもまた、神さまの計画に基づいて「ちょうどいいところ」に、「ちょうどいい時代」に存在させられているのです。
今、聖霊さまが働かれる時代、この新約の時代、聖霊の宮として、主の証人として、私たちは神さまご自身によって創造され計画が与えられ存在しているということを自信を持って覚えていきましょう。
そして次に主の証人として生きるために、どのように私たちが生きるように努めていったらいいか。やはり聖霊さまが臨まれて力を受けるとありますので、この聖霊さまによって満たされていく。その生き方というものが、この新約時代に生かされている私たちにとって必要不可欠なことであることを教えられます。
「聖霊」という言葉について少し触れたいと思います。英語では「Holy Spirit」、「Holy」には「聖なる」という意味があります。ギリシャ語では「ハギオス(ἅγιος)」という言葉が使われています。「聖なる」「神聖な」という意味がありますが、その中心的な意味は「異なる」というところが根底にあると言います。
この「ハギオス」という言葉には「分ける」「区別する」という意味合いがあります。ゆえに「異なる」という意味が含まれてくる。「異なった存在」とは、どういうことかということなのですが、クリスチャン一人ひとりは、神さまによって分けられた存在です。聖められて分けられた。聖霊さまが臨まれて聖め分けられた存在。ゆえに異質な存在、異なった存在であるということであります。なぜ異質かと言うと、神さまによって選び分けられて、聖められて、主と性質が似た者とされ、「神を認めない世」とは異なる存在である故です。
特に日本において、クリスチャンという存在はマイノリティであり、ときに肩身の狭い思いをすることがあるかもしれません。そのような状況の中に立つとき、「私は異質だ」「異なった存在だ」と感じるかもしれません。しかし、それはまさに聖霊さまが私たちに臨まれ、私たちに満ち溢れてくださり、私たちが主の証人として歩んでいる証拠なのだということを覚えていきたいと思います。
ただし、「異なった存在」というのは、何か変わり者のような存在になっていきなさい、ということではなくて、聖霊さまに満たされ、主と同じ姿に似せられているがゆえに、私たちは地上にあって、神を認めない世から見れば「異質な存在」である、ということです。それが主の証人として生きるために大切な歩み、聖霊さまで満たされていくということであります。