ハレルヤ!主に新しい歌を歌え!

 

いや~、神さまのご計画というのは私たちの思いとずいぶん違って、これだけのクリスチャンでない方が、その時、三十数名のクリスチャンでない方が、その山間の中から来てくださって、神さまが始めようとされていることというのが、私たちの思いよりも先に行っているなぁということをすごく強く感じました。

 

エゼキエル書の四十七章九節に、

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。』

 

とても有名なみことばの一つですけど、そのど田舎、ど山の中で、「この山間の中に人いるのかな」みたいな所に私たちもレンタカーで駆けつけて行ったら、なんとその施設の前には品川ナンバーの車が二台停まっていて、ちょっと似つかわしくない高級車があて、そして本当にこの村の方々来られるのかなと思ったら来てくださって、福音に接してくださって、神さまがそこに、そこに生きた主の水の川が流れて入ることが、その地域、いくらどんな山の中であろうとも、逆に大都会であろうとも、生ける水の川がそこに流れたら、本当に神さまの生ける祝福が注がれるんだという、そんな姿を間近で見させていただいて、心から感謝します。

 

いよいよリバイバルを待ち望んで、天と地が一つとなって、違う領域における主の働きが始まっているので、そんな中で、いつまでも私たちはやはりいろいろなものに恐れてしまって、また特にこの三年半のうめきの中にとどまってしまうような者ですけど、「歌う季節来ているから歌いなさい!」と、イエスさまがもう一度私たちに語っておられるのではないかなと思います。

 

明牧師が七十年前にこの新城のこの地に来て、そしてそこから始まって、リバイバル、リバイバル、東京の山間に入って、十九歳の少年が森の中で祈っていたら、どうしてか分からないけどリバイバルの主の霊が注がれて、「この国を救ってください!」と泣いて祈っていた。普通ではありえないことだと思います。

 

でもルーツをたどると、父のその故郷の津具村はかつてリバイバルが起こったという、そのリバイバルの原点から主によって押し出された。しかもリバイバルで村の半分の人たちが救われたような中で、滝元家は反対派の中の家庭だったらしいのですが、その津具の、すのこという、前を見ても後ろを見ても、右見ても左見ても、山のど真ん中からイエスさまが救い出してくださった。これはイエスさまの選びというか、イエスさまのご計画を進めようとしていた以外何ものでもないと思うのです。

 

そして今年が七十年が満ちた。本当に七十年、解放の年ですので、いつか立ち上がる時を主は待ち望んで、忍耐を持って頑張ってくれ!と支え続けてくださったかもしれないですけど、一歩前に進む時が来たのかなと思います。

 

そもそもザワメキ、今日も皆さんと共に賛美させていただきましたけど、ザワメキが与えられた原点、どこかなと思うと、やっぱり神さまが「リバイバル」を起こしてくださった中で、その当時、一九八〇年代ですけど、連鎖祈祷というのをよくしていました。なんか大きな集会があると時間つないで連鎖してお祈りしていました。その中である時順先生が、「連鎖で賛美したらどうだ?」というふうに言われて、そしてそこから始まりました。

 

最初七時間くらいでしたが、十二時間ぐらいになり、「賛美の恵みってこんなに大きいんだ。」そうして歌っていく中で、二十四時間になって、それを毎月のように行われるようになって、ある時は四十八時間だったり、七十二時間だったり、甲子園ミッションの前の年は九十二時間歌い続ける。

 

本当に賛美の中の喜びというのを主が与えてくださったのですが、もう一度その喜びと感謝、イエスさまへの愛の告白というものを、イエスさまご自身が帰られる前にもう一度、私たちに求めておられて、「もういいよ!うめかなくていいから歌い始めなさい!」イエスさまご自身がおっしゃっておられるのではないかなと、そんなふうにすごく思います。

 

今、私たちに与えられているリバイバルという思いの中で、原点から引き出されて、賛美が与えられて、ザワメキも、その当時いろいろな歌を歌っていましたけど、「もっと主を賛美したい!」という中で、リバイバルを求めて祈っていく中で、主がある時突然、天から雨のように賛美を降らしてくださる。

 

何度も証しをしていますが、今三十数歳になる息子が、二歳と十一ヶ月の時に朝起きて、突然こう言ったのです。「お父さん僕、作詞作曲した!」と言ったのです。またまたと思って、二歳十一ヶ月ですよ。やたら口だけこしゃまっくれて、べらべらとずっとしゃべっていて、今でもそうなのですが、例えば電話かかってくるじゃないですか。私は「そうだな。うん。そうね。」と言うだけで、その間、ずっと彼がしゃべっていますし、たまに会ったりすると、ずっとお話ししているような男なのですが、彼が二歳十一ヶ月の朝、起きてきて、「僕は作詞作曲した。」歌い出しました。どういった歌だったかというと、「イエスさまを信じれば~天国に行ける!イエスさまを信じないと~地獄に行っちゃうよ!」という、ザワメキ五・五に収録された賛美です。

 

それがきっかけで天からまさしく、天からポンと降ってくるのを私はキャッチするということが始まって、「愛します私たちの救い主」(ザワメキ2収録)だったり、「よみがえられた主イエスに」(ザワメキ1収録)と、主が賛美を降らしてくださって、ぽんぽんと、いつの間にかくださった賛美が、リバイバルという熱い思いを、主からの思いが与えられた思いで、そして連鎖賛美が二十四時間、四十八時間、どんどん続いて、マックスは九十二時間でしたが、今後のマックスは歌い続ける教会で、三百六十五日そうなったら、どんなに素敵なことだろうかと思います。

 

そして、今もう一度、私たち、リバイバルの原点に帰って、イエスさまが帰って来られる、しかもその最後のクライマックスを、神さまが何を通して与えようとされているかと言ったら、私たち、なんか自分たちだけで頑張ってきたような、そんな気がして、先に天に行った聖徒らも祈ってくれているけど、祈ってくれたり、素晴らしいイエスさまを見上げて賛美したり、天国の美味しい果実を取って「天国のものは美味しい!」と言っているのかと思っていましたが、今、寛太が天に帰って、享子さんが天に帰って、この天と地が一つになって戦う時が来ているのかなと、そんなふうにすごく強く感じます。

一つアナウンスしようと思っていたら忘れてしまったので、ちょっと出します。

五月四日の午後二時から、「この地に植えられ七十年!七時間記念賛美集会」というのがあります。ちょうど木曜日なので、木曜賛美集会の最後に終わるという、そういう時間設定になっていますけど、ここでなんと、あの幻のパスタ屋さん「雲の柱」が復活するのです!復活します!ですからぜひ、カウンターに記入用紙があります。しかも今回限定らしいですので、あらかじめ人数必要ですので、今日書いて行っていただくことと、もう一度、主の原点に帰って、イエスさま帰られるにもう一度主を見上げて、天と地が一つになって、主を賛美し、今回七時間、この七十年を記念してということで、主が与えてくださいましたので、ぜひ皆さんも精いっぱい心から賛美していただいて、イエスさまの帰られる道を私たちも喜びを持ってお迎えしたいのです。イエスさまの訪れは喜びですけど、迎える側の私たち、ヘトヘトで「やっと来てくれた!ありがとうイエスさま!」と言ってお迎えするのではなくて、「待ってました!」と喜んでお迎えするために、今、歌の季節が来ていると信じています。

 

今日のテーマのみことば、詩篇百四十九篇一節~九節までお読みいただきましたけど、

 

『ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。』

 

私たち、主への賛美を、今回は今までと違って、五月四日、特に天と地が一つになって賛美する集会だと、そんな思いで、ぜひ賛美していきたいと思います。

 

五月八日にコロナが開けるのが、ですからフライングではないですけど、政府がそう言っているというのは、ある程度の裏付けがあるから言っていると思うのですが、そのことを信じて、主を信じて、主を見上げていきたいと思います。

 

そして二節を見ると、

 

『イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。』

 

「おのれの王にあって楽しめ。」と書かれています。「主は王だ」という賛美が与えられていますが、「主は王だ!まもなく来られる!」その時、私たちは喜んで主をお迎えする者でなかったらいけないと思います。

 

ミカ書一章三~四節に、

 

『見よ。主はみ住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる。山々は主の足もとに溶け去り、谷々は裂ける。ちょうど、火の前の、ろうのように。坂に注がれた水のように。』

 

というみことばがありますが、以前、「主は王だ」という賛美が与えられた後に、このみことばからメッセージをさせていただきましたが、王である主が降りて来られるということは、結局、この地に帰って来られるので、そして、先に天に帰った享子さんたちも、「一緒に待ってますよ!」と本当に喜んでお迎えしたいのです。苦しみの中、「早く来て~」というのではなくて、「喜んで待ってるから!」というふうになっていて欲しいと、主も思っていますし、先に帰った父も母も、皆さんのご親族も、「私せっかく帰ろうとしているのに、何よ嬉しくないの?」と、主をはじめ、先に天に帰られた方々もおっしゃっておられるのではないかなと思います。

 

そして三節に、

 

『踊りをもって、み名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。』

 

と書かれていますので、踊りを持って、喜びを持って、主を賛美していく者でありたいと思います。

 

そして四節に、

 

『主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。』

 

と書かれていますので、主は私たち一人ひとりを飾ってくださるのです。「悲しみの外套で私を迎えなさい」とは、おっしゃっていなくて、「白い衣を来て私を迎えなさい」と、また、喜びと賛美の外套を身にまとって、わたしを迎えなさいと、イエスさまはおっしゃっているのではないかなと思います。

黙示録三章五節、

 

『勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。』

 

と書かれています。もちろん天に帰った先輩の、天国で応援している応援隊も、白い衣で帰って来ますけど、私たちも白い衣を着させていただいて、白い衣を着たものの、結婚式でジャンジャジャジャーンと来た花嫁が泣きじゃくっていたら、「どうして結婚するの?」と大変なことになってしまいますけど、やはり喜びの瞬間であるように、私たちが花婿イエスさまをお迎えする時に、喜びを持って迎える、そのような者にさせていただきたいと思います。

 

そして五節には、

 

『聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。』

 

「床」というのは「家の中で地面より高い所、または他の面より一段高く水平に板を貼り付ける所」とインターネットに書かれていましたけど、一段高い所なのです。ですから主は違う領域の高さに私たちを導こうとされているので、もうすでに天に帰った人たちは床の上、まさしく床の上で一段高い所にいますけど、私たちもそのポジションに立って、イエスさまをお迎えする、そんな者でありたいなと心から思います。

 

そして私たち、主を賛美する者が、どんな者であるかということを、もう一度、本当に主を覚えていかなかったらいけないのかなと思います。六節からの所をお読みしますけれども、

 

『彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。』