門の外へ

2023年12月17日(日)新城教会副牧師 鈴木陽介

ヘブル人への手紙 13章11~14節

“動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。”

ハレルヤ、おはようございます。二〇二三年早いもので、十二月後半に入りました。今年はたくさんのクリスマスの集会が行われています。
十二月二日に、初めの働きとしてヘブンズアイスクリーム&コーヒーのクリスマスキッズパーティーが行われました。九日にはクリスマスコンサートが行われ、十六日はこどもクリスマスとワカモノワーシップウェーブの集会もありました。それぞれの集会が主に用いていただけるように今週も続いていく働きのためにぜひお祈りください。

本題に入る前にもう一点あかしさせていただきます。先月十一月には、私と長男、二人でざわめきのハワイツアーに参加させていただきました。
ハワイの方々もこの数年間とても大きな現実の戦いをしてきたかと思います。ようやく世界が再びまっとうに動き出し、多くの方々が世界中から主の創造した素晴らしい島に訪れています。そのような中で主の働きがなされたことは、本当に大きな意味合いがあったと思います。
ハワイに遣わされている牧師先生方のためにも続けて祈らせていただきたいと思います。一つ感動した話をご紹介させていただきます。今回私たちは16名で日本から行きました。連日冬木先生ご夫妻にお世話になりました。ハワイ滞在の最後の日に冬木先生ご夫妻から私たちにプレゼントをいただいて、そこに手書きでこんなメッセージがありました。「日本からハワイに来てくださって、ハワイのために祈ってくださってありがとうございます。」それを見た時にとても感動しました。むしろ私たちがお世話になり、お礼を言うばかりだったにもかかわらず、その様にしてくださることに私はとても感動しました。
ハワイにも主の回復が必要です。ぜひ皆さんもハワイのためにもお祈りください。自分の身の回りだけでなく、それぞれの苦しみの中で主の働きを担っているすべてのクリスチャンのために祈って行きたいと思います。そのような信仰者になっていきたいと学ばされました。素晴らしいハワイの働きでした。

そして私が前回日曜日にお話しさせていただいたのは九月ですが、この九月と十二月の間の一番の変化といえば、第四子が与えられたことです。「歓」という名前を、主から与えられました。昨年の十二月十八日は享子さんが召されて、私たち家族には深い悲しみがありました。しかし、二〇二三年に入ってすぐ第四子が与えられるという知らせが我が家に届きました。そして九月二十六日に無事に誕生しました。何か主によって、強制的に場面転換させられるような、そんな思いもしております。
私たちが悲しみや現実の苦しみに目を向けるのではなくて、主から与えられている恵みに目を向ける時、その大きさは計り知れないのではないかと思います。

“全イスラエルは歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、琴と竪琴を響かせて、主の契約の箱を運び上げた。”
(歴代誌 第一 十五章二十八節)

「歓ぶ」という漢字、「歓声を上げる」というこのみことばからも取らせていただきました。ただただ喜びの子として与えられたと確信し、すごく感謝しています。とにかくかわいいです。私たち家族が素晴らしい喜びを与えられて、この二〇二三年、新たに進んでいけるように主が励ましてくださったことを心から感謝します。

十一月終わりには有賀先生が来て、「起きよ。輝け!」というみことばを語ってくださいました。二〇二三年の最後となっていますが、皆さんの心に喜びはありますか?光り輝くもの、ありますか?私たちクリスチャンはどのような苦しみの中にあっても、主にある喜び、救いの喜びを、しっかりと握って進んでいきたいと思います。
クリスマスの時期に、イエス・キリストの誕生を記念し、喜ぶその中で、私たち自身にも目を向け、また主ご自身にももう一度目を向けていきたいと思います。主の誕生のその意味をしっかりと握っていきましょう。

そのために、今日ヘブル人への手紙十三勝十一節から十四節を、主題聖句として学んでいきたいと思います。
“動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。”

ここから、「門の外」へというタイトルで学んでいきたいと思います。

門の外、宿営の外とは、私たちにとって何を意味しているか。そのような視点で学んでいきたいと思います。

その始めとして、イエスさまがどのような救い主として、どのような存在として、この地上に来られたかというところから見ていきたいと思います。
イザヤ書六十一章一節〜二節、

“神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。”

ここでどのような描写があるでしょうか。まず一つは、イエスさまは油注がれ、主から遣わされた存在であるということ。2つ目は弱い立場にある者たち、心の傷ついた者や貧しい人、囚われ人、囚人に対する解放者ということです。
最後に、これは案外見落としがちなのかもしれませんが、主の恵みを告げ知らせる者と
同時に、神の復讐を告げる者という描写があります。

実はイエスさまご自身がこのみことばをご自身に当てはめて引用しています。ルカの福音書四章二十節、二十一節を見ると、この二十節の直前で先程のイザヤ書の箇所をご自分が読み、その後の場面がこの四章二十節、二十一節です。

“イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」”

このイザヤ書に預言されている存在が、私なんだと宣言しています。

また、マタイの福音書十二節でも、同様の救い主の描写があります。こちらもイエスさまご自身が引用しています。それはイザヤ書四十二章の話になります。マタイの福音書十二章十八〜二十一節、

“「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。異邦人は彼の名に望みをかける。」”

この箇所は、「言い争わず」とか「叫ばず」、あるいは「傷んだ葦を折ることもない」、「くすぶる灯芯を消すこともない」という表現が印象的で、一見するとイエスさまの柔和さが表現されているようなみことばとして受け取ることが多いのではないかとおもいます。しかし同じこの聖句に、「異邦人に裁きを告げる」や、「裁きを勝利に導く」という、表現が含まれていることを見落としてはいけません。
「イエスさまが柔和な存在として平和をもたらすために来た」という感覚が私たちには、強いかもしれません。しかし実はそうではないという部分をきちんと学んでいかなければならないのではないでしょうか。
イエスさまの誕生と地上の働きは、父なる神の計画であり、その目的も父なる神のみこころを地上に現すためでした。

よく使われる表現で言えば、「神の義」による働きであり、神の国の正義や神の国の原理・原則をこの地上に宣言するもの、そして実際に神の国を拡大するためのものでした。
この世には、あらゆる罪や不義や、不正・不公正また偽り・欺瞞が満ちています。それらに相対するために遣わされたのが、このイザヤ書でも描写されている救い主です。そのことを学んでいきたいと思います。マタイの福音書十章三十四節には、イエスさまご自身がこのように語られている箇所があります。

“わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。”

当然、注意して受け取らなければならない箇所ではありますけども、先ほど述べたように、イエスさまの働きは、常に神の国とこの世の支配との対立構造でした。それが随所に描かれているわけです。
極端に言うならば、その対立構造がなかったら、福音書が「物語」として成り立たないです。どこに行っても、みんなと仲良く平和に過ごして、この地上に何の変化ももたらさない。ただ、いい人でした。という方だったら、そもそも最初から福音書自体が成立しないわけです。神の国の物語としての福音書にあるプロット、物語の流れ、段階というのをしっかり整理し、対立構造があるがゆえに何を学べるか、どのような神のメッセージがあるかということを捉えていく必要があります。

また「平和」というキーワード考えると、イエスさまの時代、イエスさまが活動した地域は、ローマ帝国が支配していました。それは「パクス・ロマーナ」と言い、二百年ほど続いた安定した時代でした。
しかし、それは単純にローマ帝国の武力による支配であり、神の国の平和、主のみこころが地にもたらされる結果としての平和とは比較にもならない偽りの平和だったわけです。このマタイの福音書十章三十四節にも、「平和」というキーワードが使われているのはそのような時代背景も念頭にあると思います。

 当時の状況を確認したいと思います。当時ユダヤの国はヘロデ王朝が政権を握っていました。イエスさまの誕生の時はヘロデ大王の時代でした、イエスさまの活動期は、その次の代のヘロデ・アンティパスの支配になりました。地図上の肌色っぽい色ガリラヤとベレヤを統治していました。
サマリヤとユダヤは、ローマ総督が直接統治していました。
そして実際のユダヤ人の実生活においては、ユダヤ教の指導者たちが民衆に対して権力を持っていました。その最高議会が「サンヘドリン」と呼ばれます。
イエスさまの時代、ローマ帝国、ヘロデ王朝そしてサンヘドリンという三重の支配構造が社会の中に存在していました。ローマ帝国がヘロデ王朝の形ばかりの自治を認め、またユダヤ人の宗教活動を容認していました。しかしすべての事柄に関して、最終的な権威はローマ帝国が握っていました。

イエスさまはこれらすべてと戦いました。
イエスさまは政治的な指導者ではなかったという考え方が一般的です。霊的な解放者という視点が最も強調されるべきであることに異論はありません。
しかし政治的・社会的側面が全く無かったかというと、そうではありません。先述の当時の社会構造を踏まえると、宗教学者たちと神学論争をすることですら、社会的あるいは政治的な意味を持つ行為でした。霊的な領域を扱えば、その当時この地上を支配していた実際の権力とも相対するわけで、イエスさまはそれらとも対決姿勢を持っていました。これを私たちは見落としてはいけないのです。

まず宗教的指導者たちとの対立の場面を、マタイの福音書十二章十節から学びます。
“すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」”(マタイの福音書 十二章十〜十二節)