“私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。”
「はかりごと」という言葉、これが英語だと「thought」という言葉が使われたりしているのですが、新約聖書はギリシャ語で書かれておりますので、この言葉をギリシャ語で見ると、「νόημα(noéma)」という言葉が使われているそうです。それは思い、考え、目的、そういった意味合いがあるそうです。その言葉を分析して見ていくと、私たちの心を使って一生懸いろいろ試行錯誤して、思いを巡らして最終的に出された個人的な判断というのが、「はかりごと」という言葉の意味合いがあるそうです。
ですから神さまご自身のご計画に従っていくために私たちが従わせなければならない、思いという領域が大切であるということが、ここからも受け取ることが出来ます。
そしてコリント人への手紙第二 二章十一節、
“それは、私たちがサタンに乗じられないようにするためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。”
この「サタンの策略」というのも、さっきの「はかりごと」と同じ言葉、「νόημα(noéma)」という言葉が使われているのです。悪魔は狡猾だとあります。私たちを巧みに騙してくるわけです。そしてまた私たちの思いの領域に働きかけるような、そんなサタンの策略、「νόημα(noéma)」という言葉から受け取られます。
そして、みことばをさらに見ていきたいと思いますが、コリント人への手紙第二 四章三節〜四節、
“それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。”
ここでも”思いを”暗くし、同じ「νόημα(noéma)」という言葉が使われています。福音に覆いがかけられている。なぜか。イエスさまをまだ信じていない方々の思いを暗くするということです。様々な行動を引き出していく、その思い。そこに働く悪魔が働きかけて、福音の光を覆ってくるということをここからも見ることができるのではないでしょうか。
そしてコリント人への手紙の第二の十一章三節、
“蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。”
この”思い”、これも同じ言葉が使われています。悪魔が巧みに働き、私たちの心に、思いに、働きかけてくるわけですよね。蛇が巧みにエバを欺ました。誘惑しました。創世記の最初を少し見てみたいと思います。神さまはアダムとエバを造られて、善悪を知る知識の木から取って食べてはいけないと言われたのです。二章十六節・十七節、
“神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」”
神さまはこう言われたのですが、創世記の三章の一節・四節で、ヘビはこのように言います。
“さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」”
“すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」”
このように悪魔・ヘビは、エバを誘惑しました。「本当に言われたのですか?」どうでしょうか。皆さん、小さい頃、お父さんやお母さんに、「おやつは三時になるまで食べちゃ駄目ですよ。」と言われて、我慢できた方おられますか。「本当に食べちゃいけないって言ったかな?」と思って、勝手に食べてしまった方はいませんか?悪魔は巧みに私たちを誘惑してきます。そして「あなたがたは決して死にません。」神さまの言葉を完全に否定していますね。そんな言葉をかけて、私たちの思いに、心に、働きかけてくる悪魔の存在がいるということを覚えていきたいと思います。
そして悪魔はどのような存在かというと、ヨハネの福音書の八章四十四節、
“悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りだからです。”
「偽りの父」であります。この「偽り」というのを見ると、ギリシャ語、「ψεύστης(pseustés)」という言葉が使われているということです。これは「うそつき、欺く人(詐欺師)」また、「改ざん、不当表示(歪曲、誤解を招く)をする人」、そういった意味合いがあるそうです。
ヘビがエバを誘惑したことを見ても、悪魔は私たちの前に偽りを掲げて、そして真理を隠し、また改ざんし、あたかもその偽りが真実かのように見せかけて私たちを騙し、そして私たちの理解、思いをねじ曲げて曲解させ、心を誘惑して罪にいざなっていく。そんな偽りの父の策略があるということを教えられます。
少し「偽り」ということを考えていきたいと思います。話は変わりますが、皆さんの中で「ゴースト・アーミー」って、聞いたことがある方はおられますか?「ゴースト・アーミー」、「お化けの軍隊」、どんな軍隊でしょうか。こんな人たちみたいです。
第二次世界大戦の時にされた編成アメリカ軍の特殊部隊だそうです。その存在というのは長い間秘密にされ、終戦後やっと一九九六年、この機密が解除されたそうです。
皆さんの中で戦車を持ち上げられる方はいますか。この方々はすごいです。
特殊部隊は、戦車を持ち上げているでしょうか、どうでしょうか?ごめんなさい。これは偽りです。
次の写真を見ると、大砲の部分が垂れていますね。これは風船の要領で作られた偽物なのです。遊園地などに行くと大きな人形のバルーンがありますね。それと同じようなもので、ただのハリボテです。膨らませたただのゴム製品です。ですから太陽が強く照りかざした時には破裂してしまったこともあるみたいです。しかし、このゴースト・アーミーが、第二次世界大戦時に活躍したと言うのです。これは戦車でしたが、偽物のトラック、ジープ、大砲、飛行機、また偽物の基地も作ったりしました。また拡声器で兵士の話し声、足音、大砲の音を鳴らして敵を撹乱させたと言うのです。時には敵の酒場に入り込んで、嘘の情報を流したとも言われます。その元隊員の人たちのかつての職業は、芸術家、建築家、俳優、舞台芸術など技術者が多かったということです。こういったものを作るのが仕事だったわけです。
時に千百人の部隊を、なんと三万人に見せかけるのに成功したとも言われているのです。敵がそのハリボテの風船で膨らませた戦車を本物だと勘違いしたわけです。ゴースト・アーミーが作り出した”偽り”を”本物”だと受け取ってしまったために、このゴースト・アーミーの作戦は効果を現したわけです。
この”偽り”ということに対して、偽りが効果をもたらす時はどのような時かということを、ある先生がこのように言っていました。「私たちの思いが同意する時のみ力を発揮する。」と表現していました。
もし私たちの思いが同意しなければ、それを真実と受け取らなければ、その偽りはただの偽りで、効果を発しないわけです。そしてその思いが偽りに同意するということは、偽りの父である悪魔に同意する。そのような意味合いがあるわけです。そして悪魔に同意してしまえば、真理のみことば、神さまの思いを自分の思いとして受け取ることができなくなる。そのような状況に陥ってしまうことがあるのではないかと思います。
少しまた話は変わりますけども、先日、アメリカにおいて皆既日食が見られたということです。この皆既日食はなぜ起こるかというと、地球と太陽の間にちょうど月が入り込んで、ある地点の場所では太陽をすっぽり囲んでしまうからです。そして、その地域は夜のように真っ暗になるということです。
月と地球の大きさについてですが、大体ボールの大きさで例えるとテニスボールとサッカーボールぐらいとなり、地球は月の4倍の大きさになります。サッカーボールからしたら、テニスボールの月は小さな存在ですよね。しかしその小さなボールが目の前にきたら、大きな太陽も見えなくなるわけです。夜のように真っ暗になってしまいます。
真理のみことば、私たちの思いが私たちの目の前にあったとしても、その偽りという小さな影を目の前に持ってきたら真実は見えなくなる。神さまの思いを自分の思いとして受け取ることさえできなくなってしまうということを、皆既日食から教えられます。この偽りに私たちは決して同意してはいけない。それは悪魔に同意することですから、この私たちの思いを決して偽りに対して同意しないように守っていきたいと思います。
時に私たちが弱ってしまうことがあります。そんな時に私たちは弱い、そして悪魔も「おまえは弱いんだ!」と言ってきます。しかし、みことばは違いますよね。ピリピ人への手紙四章十三節、
“私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。”
神さまが私たちを強めてくださる。しかし私たちが弱まって心が塞ぎ込んでしまえば、この真実のみことばを受け取れないのです。また「おまえは本当に取るに足らない価値のない者だ。」そんな風に落ち込む時があるかと思います。しかしみことばは、イザヤ書四十三章四節、
“わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”
しかし、「おまえ価値がない。」という悪魔の誘惑が来たら、真実のみことば、神さまの思い、神さまは私たちを愛してくださっているその思いを受け取れないわけですよね。ですから私たちは偽りに同意することがないように、私たちの心を守っていくことは、とても大切であると思います。
ここまで学んできましたが、私たちの思いと神さまの思いが、いつも同じであるというのはなかなか難しいです。今から、ダビデの人生からどのように私たちの思いと神さまの思いを擦り合わせていったらいいかということを少し学びたいと思います。
サムエル記第一の三十章の場面です。ダビデがサウル王から逃れて、ペリシテ人の地に滞在した時がありました。そして自分の町を三日ぐらい留守にしたのです。そして、戻ってきた時に起こった出来事が、このような状況でした。サムエル記 第一 三十章三節~四節、
“ダビデとその部下が町に着いたとき、なんと、町は火で焼かれていて、彼らの妻も息子も娘も連れ去られていた。ダビデも、彼と一緒にいた兵たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。”
と、町に残しておいた子どもたち、奥さんたちが皆連れ去られ、町は焼かれてしまっていたという状況がダビデの前に広がっていました。絶望的な状況です。ダビデの思いはどうだったでしょうか?声を上げて泣き、ついに泣く力もなくなった。泣く力もないほどに絶望した。疲弊しきっていた状況、思いが伝わってきます。
では、ダビデはそのまま絶望して終わったかというと、このストーリーはそれだけで終わらないのです。サムエル記の第一の三十章六節〜七節、
“ダビデは大変な苦境に立たされた。兵がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したからだった。しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。 ダビデは、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。”
彼は主によって奮い立って、エポデ、祭司の服を着て、神さまのお思いを受け取ろうと神さまの前に出ました。そして八節、
“ダビデは主に伺った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると、お答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」”
と、ダビデは主によって奮い立った。自分の力ではなくて、主にあって立ち上がったのです。