なたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。

2024年6月2日(日)新城教会副牧師 滝川充彦

箴言4章23節
“何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。”

今日は箴言四章二十三節、主題のテーマとなるみことばとしてあげさせていただきました。もう一度お読みします。

“何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。”

心の領域、思いの領域が、とても大切だということをみことばから受け取ることができます。今日は私たちの心・思いというところに焦点を当てて、みことばを受け取っていきたいと思います。

「病は気から」と言われるように、少し気分が落ち込むと、体調を崩したりするような弱さを私たちは持っています。やはり心の領域が、肉体の領域、霊の領域と繋がっていて、影響を及ぼすのだと思います。

二〇二四年、私が新城教会に対して与えられた預言的メッセージとして語らせていただいたみことばが、ヨナ書のストーリーからでした。神さまがこの教会に与えてくださったみことばですので、それをさらに深掘り出来ればと願っている中で、”思い”というテーマをいただいて、今日メッセージが神さまによって備えられておりますので、まずヨナ書を少し見ていきたいと思います。
私自身に与えられたみことばというのが、ヨナ書三章一節〜二節、

“再びヨナに次のような主のことばがあった。「立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。」”

そして、四章十一節、
“ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」”

ヨナが神さまから託された言葉を宣言することによって、ニネベの街の人々、また家畜・被造物にまで、神さまの愛とあわれみが注がれた。そのように私たち一人ひとりが神さまから託された言葉を宣言していくならば、私たちの街の人々、被造物に神さまの愛とあわれみ、救いが現される。そのようなことを神さまから、ヨナ書から教えられています。
そしてその被造物に神さまの愛とあわれみが注がれる姿というのは、終わりの日に現される神の国を示していると覚えさせられています。
私たちが神さまから託された言葉をこの地において宣言していく時に、それは神の国の到来に繋がっていく働きとなる。そのように、この二〇二四年、新城教会に神さまが語ってくださっているということを受け取らせていただいて、お分かちさせていただきました。もう一度、私自身がヨナ書からいただいた神さまの思いをまとめたものをお分かちします。

「二〇二四年、私たちの思いが及ばない、高く広く深い神さまの愛に満たされ、さらに主を愛し、隣人を愛し、一人ひとりに託された神のみことばに従い、福音宣教に出ていくように。そしてその時に主のみ力があらわされ、人々、また被造物までもの心が主に向けられ、街、国に神の国が現される、主の壮大な働きがなされていく。そのために神の国の到来という壮大な青写真から目を離すことのないように。」

このようにまとめさせていただいたのですが、今からヨナ書を概観していきたいと思います。ヨナ書一章一節〜二節、神さまから預言者ヨナに言葉がかけられました。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪が私に上って来たからだ。」ニネベとはどのような場所であったかというと、ニネベの街の由来となったのは、その街に祀られていた女神イシュタルという偶像です。そのニネベの街は、真の神さまを礼拝する街ではなく、偶像礼拝で満ちた街でありました。そんな街にヨナは神さまの言葉を伝えるように言われるのですが、ヨナはどうしたかというと、三節、

“しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、主の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。”

 タルシシュというのはスペインの方だと言われますが、ニネベとは全く反対方向にヨナは神さまのみ顔を避けて、神さまの御顔を避けるというのは、神さまの臨在から逃れる、神さまご自身から離れていくという意味合いがありますが、タルシシュへ逃れていったわけです。
結果はどうなったかというと、結局は神さまのみ心ではないために、神さまによって嵐が引き起こされ、ヨナは海に投げ込まれて、神さまが不思議に用意された大きな魚に飲み込まれて、そしてその魚の中で悔い改めました。もう一度神さまに従う、そのような思いをいだき、祈りを捧げました。そして、その大きな魚から救い出されて、また神さまから言葉がかけられたみことばが、ヨナ書の三章一節〜二節で、また「再びヨナに次のような主のことばがあった。」ということで、ニネベに神さまの言葉を伝えるようにという、そんな命令を受けて、ヨナはそれに従って、ニネベで神さまの言葉を伝えました。
そして、そのことによって、あわれみ深い神さまの愛が注がれて、ニネベの街は、神さまからくだされようとしていたさばきから免れることになりました。これがヨナ書のおおまかなストーリーです。

ヨナ書四章一節〜三節からヨナというのはどのような人物であったかということを伺い知ることができます。

“ところが、このことはヨナを非常に不愉快にした。ヨナは怒って、 主に祈った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。ですから、主よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。」”

神さまがニネベの街をあわれんで救ってくださったその直後、こんな言葉をもらしました。ヨナはどのような思いだったか。どのような人物だったかというと、彼は敵国アッシリア・ニネベに行きたくなかったわけです。彼は間違った愛国心、イスラエルに対しての選民意識が強いような人物、そのような性格の持ち主でなかったかと思われます。もしも、偶像礼拝者で満ちる街ニネベ、敵国アッシリアの首都、敵の真っただ中に行って、神さまの言葉を伝えたら、あわれみ深い神さまがニネベの街をあわれんで救うようなことがあったら、そんなことは絶対に嫌だ!と最初から思っていたのです。ですからニネベには行かずに逃げて行ったということです。三節では、「私は生きているより死んだほうがましです。」なんて言って、買いたい物を買ってくれない子どもが駄々をこねるような、そんな姿が思い浮かぶような頑なな思いのヨナが見えてきます。ヨナはどのような思いであったでしょうか。やはり神さまと同じ思いではありませんでした。
神さまは、ニネベの街をあわれもうとして言葉をかけたかった。しかしヨナはそうではなかったということが、はっきりわかります。神さまの思いとヨナの思いは全く異なっていたということがわかります。
もしもヨナが、タルシシュへ逃げて行って、魚の中でも、頑なに思いを変えなかったらどうなっていたでしょうか。魚の中で消化されてしまったかもしれないですね。もしもそのように神さまに逆らい続けたら、ニネベに託された神さまの言葉を告げる者はなく、神さまご自身のご計画は成し遂げられなかったということも起こりかねないわけですよね。
このことを考える時、私たちの行動を決めていく思いの領域というものは、とても大切であるということ覚えさせられます。

前回私が日曜礼拝でメッセージさせていただいた時に、私たちの物の見方について話をさせていただきました。私たちはいつも「自分」というレンズを持って、物事の対象を見ているということです。アリを虫眼鏡で見たりしたことがありますか。

 このように”自分”というレンズ持って、私たちは物事を見ていると言われます。このレンズというものはどうやって私たちが持つようになるかというと、私たちを取り巻く環境、国や地域の文化や習慣、またその歴史観や社会通念、また各家庭の文化、個人のそれまでの経験だとか、様々なことを通して、私たちの個人の価値観、世界観が構築され、それが私たちが物事を見るレンズというものになる、知らない間に出来上がっていると言われます。私たちがそのレンズを使って物事を見ているということでさえ、私たちは気がつかないようなものであります。そんなレンズを通して私たちは物事を見て、そして心の中で、思いの中で、試行錯誤し、いろいろな思いを巡らし、最終的に判断して、どういう行動をするかということを決めて私たちは生きているわけです。私たちはそういったレンズを持っているということなのです。

少し話は変わりますけが、こんなストーリーがありました。電車にある人が乗っていたのです。そして割と電車の中は混んでいました。そんな中で、ある二人の子どもを連れたお父さんが電車に乗り込んできました。そのお父さんが連れてきた二人の子どもたちは、とても元気の良い子どもたちでした。

子どもは元気ですね。走り回りますね。でも電車の中で走り回ってはいけないですよね。電車の中で走り回ったり騒いだり、つり革に飛び上がったり、乗客の方に迷惑をかけていたそうです。しかし、お父さんはずっとうつむいていて、目をつむったままで、子どもたちが騒いでいるのを気が付かないかのようでした。
さすがに大変な状況だということで、その電車に乗り合わせた一人の方が、お父さんに言われたそうです。「あなたの子どもたちが電車の中で騒いでいてみなさんに迷惑になっているようですよ。少し注意してもらえませんか?」と声をかけたそうです。
そうしたらお父さんが何と言ったかというと、「数時間前に、私の妻が、彼らの母親が病院で亡くなったんです。今その帰りなんです。」という話をしたそうです。そしてお父さんは続けて、「子どもたちは、これからどうしていったらいいかきっとわからなくて、どのように行動をしたらいいかわからなくて、こうやって騒いでいるのかもしれません。」とお父さんが言ったそうです。それを聞いて、注意をして欲しいと求めたある方の思いがガラリと変わりました。その人が持っている意見が変わったのです。「本当にかわいそうだ。何とかしてあげたい。子どもたちを何とかしてあげたい。このお父さんを励ましてあげたい。」かけた言葉は、「私に何かできることはありますか。」ということでした。
私たちを取り巻く環境や状況によって、私たちの思いや意見というのは簡単に変わってしまいます。そしてその思いが変われば、行動も変わっていくわけです。そのようなものが、私たち人間ではないかということを最近覚えさせられるのと同時に、思いの領域がとても大切だということを教えられます。

では私たちクリスチャンは、その思いの領域でどうあるべきでしょうか。私たちは自分自身が何かのいろいろな環境によって作り上げられてしまった物事を見るレンズ、自分が持っているレンズをまず捨て去る必要があるかと思います。そしてどのような時代・環境・社会状況のもとでも変わることのない、みことばというレンズを私たちは持つ必要があるかと思います。そして、神さまが見るように見て、神さまの思いを自分の思いとしていく。そのことが大切であるということを教えられます。そしてその時に私たちの判断が変わっていきます。そして行動が変わっていきます。それは生き方が変わっていくということでないかと思います。それは、主の思いで満たされて、主のご計画に生きることができるようになることを意味します。主ご自身のみ心の中に生き、神さまご自身が用意された素晴らしい祝福のご計画を一〇〇パーセント受け取ることができる、そんな鍵となることがこの「思い」の領域にあることを教えられます。今日、皆様とともに覚えていきたいと思います。

ここまで学ぶ中にあって、この物事の見方という私たちのレンズの中で最終的な行動を決めていくという「思い」という領域、とても重要であるということが教えられています。その思いによっては、神さまのために生きることもできれば、ヨナのように神さまのご計画から逃げるような結果をもたらす要因にもなるということです。
ですから、神さまの計画が成し遂げられるために大切なこの「思い」の領域を敵である悪魔、悪霊は黙っているでしょうか。そうではないですね。巧みに働いてくると思います。私たちの思い、心の領域というのは、激しい霊的戦いの現場、激しい戦場と言ってもいいような場所ではないでしょうか。
「思い」ということで、少しみことばを学びましたので、みことばをさらにお分かちしていきたいと思います。コリント人への手紙の第二の十章五節、