2025年カウントダウン・ワーシップ

私が二〇二四年に与えられたみことばは、イザヤ書三十八章一節から五節のみことばでした。

『そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「【主】はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、【主】に祈って、言った。「ああ、【主】よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。そのとき、イザヤに次のような【主】のことばがあった。「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、【主】は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。』

特別もう一度二節だけお読みしたいと思います。

『そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、』」

ヒゼキヤ王は、預言者イザヤに「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」と言われました。死の宣告を受けたのです。ヒゼキヤ王は、そのことを聞いて大声で泣き、顔を壁に向けて、主に祈り「【主】よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」と主に訴えたのです。
すると五節。

『「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。』

と赦しと癒しを頂きました。
このみことばから、私は「とどまるな、前進しなさい」と教えて頂きました。私たちには現実がどんなにか大変で、「もう駄目だ」と思ってしまう出来事。壁のような問題があります。
特別ヒゼキヤ王は「あなたは死ぬ。直らない。」と預言者イザヤに宣告されました。しかしヒゼキヤ王は主に問題である病に目を向けて、真剣に涙を持って祈りました。すると、病は癒され、寿命を十五年間伸ばして頂きました。
私も家内の病が、次々と変化する中、家内の病のために祈りました。すると、今の家内の状況は、安定して来ており、守られています。
恐ろしいほど、二〇二四年は私に与えられた、みことばどおりの事が、家内の身に起きました。
特別皆さまが、愛をもって家内のために祈って下さり、また家族や親族も真剣に祈ってくれました。

エレミヤ書三十三章三節に、

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

理解を超えた大いなることを神がしてくださる。また、第一コリント二章九節に、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

とあります。

エレミヤ書三十三章三節と第一コリント二章九節のみことばに支えられて、苦しい出来事でしたが、今、守られていることを感謝します。ある兄が私に電話を下さいました。
「先生の奥さんの写真を見ると、私の父が亡くなる寸前の状況にすごく似ている」と話してくれました。私も正直、「家内は、このまま天に召されるかも?」と日々衰えていく姿を目にして、私も考えてしまいました。しかし、「とどまるな、前進しなさい」と主に教えられ、真剣に祈り、今があります。

話は変わりますが今住んでいる場所に引っ越して、もう十五年間が経ちます。ある朝、寝室のカーテンを開けて、カーテンを束ねようとしたとき、両面テープで止めていた「ふさかけ」という部品が経年劣化のため剥がれてしまいました。その為修理しなくてはならなくなり、今度は二度と外れないように両面テープではなく、ねじで止める「ふさかけ」に取り替えました。その「ふさかけ」を直している時、主から一つのみことばを教えて頂きました。このみことばが、二〇二五年に私と新城教会に与えられたみことばです。第ニテモテ一章六節から七節。

『それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。』

ここは、「神の賜物を再び燃え立たせなさい」と、主が語ってくださっています。一人ひとりに主が下さった賜物があります。しかし知らず知らずの内にその賜物を失ってしまう、さび付いてしまっている。というのです。

以前と同じ両面テープの「ふさかけ」を設置するのではなく、今度は二度と取れないようにネジでしっかりと固定するようにしました。それと同じように、私たちも神さまから与えられた賜物を再び燃え立たせる時であると教えられました。それも神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。賜物を「もう一度燃え立たせなさい!」
それも今度は消えることのない賜物を聖霊の力によって頂きなさい。ということを語って頂きました。「力」というのは、語源的に「ダイナマイト」のような爆発的な力だと言われます。そのダイナミックな力によって、みたまが働いてくださるとき、私たち自身にはない強い力によって働くことができるということです。「愛」とは神の犠牲の愛です。そして「慎み」というのは、「自制心」という意味があり、冷静な判断力を指しているそうです。私たちは聖霊の力と愛、聖霊の判断力で主の働きのために働いていかなければならないということを、教えられました。

この新城教会では一九九二年に聖霊が臨まれました。圧倒的な力と業を頂きました。この聖霊によって翌年の「全日本リバイバル甲子園ミッション」の働きをすることができました。
聖霊が望まれ、新城教会に神が与えてくださった力と霊的目が開かれました。そして「霊的戦い」を主が導いて下さいました。当時、私たちにも、子どもたちにも霊的な目が開かれて、多くの賜物が与えられました。その当時を振り返って見ると、すばらしい働きを思す事ができます。ある地域のために私たちとともに少年たちが共に祈っていました。すると、一人の少年に主が語って下さいました。彼はとりなしの祈りの時には必ず聖書を持参してきました。そして「どこどこの何章何節」と主に語られました。彼は今やおじさんであり、一人の子どもの親になっています。彼は当時、聖書を読む子でもなく、「神からエレミヤ書って言われたけどエレミヤ書ってある?」という具合でした。しかし彼が神さまから語られたみことばはそのとりなしに対してとても必要でした。そのみことばで教えられ、励まされ、そのみことばがみことばの剣となりました。戦いの裏付けとしてみことばが与えられたことを思い出します。

また、もう一人の少年。彼にもう一度その賜物を奮い立たせて欲しいと声を大にして言いたいのですが、異言の解き明かしをする少年が現れました。皆さんがよくご存じの少年です。今ではある面でとても有名な人になった方です。当時私たちが異言で祈る時、私たちには何を語っているか全くわかりませんでした。しかし彼は、「今、こういうふうに祈っている」と、その異言を解き明かす賜物を頂きました。その異言の祈りを聞いて、彼は主に語られ解き明かす事ができました。

さあ私たちは主からいただいた賜物を再び燃やして欲しい。力と愛と慎みとの霊で神のみわざを見ることができるように求めて行かなくてはならないと励まされました。先ほども言いましたが、みたまの力というのは、語源的に「ダイナマイト」のような爆発的な力だと言われます。大きな岩の壁も吹き飛ばすことができ、粉々にすることができるダイナミックな力です。強い力によって働くことができるということです。

エペソ三章十六節には、

『どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。』

「内なる人を強くしてくださいますように。」とあります。また、第二テモテ一章六節には、

『それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。』
「再び燃え立たせてください。」今は消えてしまったり、消えそうになっている賜物を、今度は失うことなくしっかり燃え立たせてください。新城教会が各々与えられた賜物によって、二〇二五年は「ダイナマイト」のような力をこの教会に与えて頂きたいと願っています。

また、以前礼拝で語ったみことばマルコ二章十二節に、

『すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。』

「こういうことは、かつて見たことがない」、主の聖霊の力、聖霊のわざを、今年この新城教会に見せて頂きたい。その為神の賜物を、再び燃え立たせてください。そしてダイナマイトの聖霊の力が新城教会に起こされるように求めていきたいと思います。

今、天の教会と地の教会が一つになるようにというみことばが語たられています。天の教会で起きている、神の国がこの地になされるように、期待しましょう。今さまざまな問題や病があっても、苦しみ、立ち止まってしまった所も、神は必ず素晴らしいことをしてくださいます。聖霊によってわざを起こしてくださいます。期待しなさいと神が語ってくださっています。

もう一度私とこの教会に二〇二五年、語ってくださったみことばをお読みしたいと思います。第ニテモテ一章六節から七節。

“それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。”

今まで主のために働くことを拒んで、前進できなかったところを、今年は力と愛と慎みの霊によって、主がわざを起こしてくださることを期待していきたいと思います。昨年は私に与えられたみことばがその通り、私に実現しました。二〇二五年も聖霊の働きが顕著に現されるように期待します。

主のみ名をほめたたえます。ハレルヤ!



≪滝川充彦副牧師≫

ハレルヤ!私に二〇二五年のために与えられたみことばは、第二コリント九章六節です。

“私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。”

この箇所でパウロは農業に従事する文化がある人々に語っています。その人たちは農業の法則をよく理解している人々でした。そしてここで語られていることは、気前よく豊かに蒔くものは豊かに刈り入れるということです。これが、主が私に与えてくださったみことばです。すでに日曜日にインターナショナルの礼拝の方でこのみことばを分かち合いましたが、二〇二五年は豊かな収穫の年になるということです。豊かに蒔き、豊かに収穫するのです。
しかしこの法則を単に財産(お金)の視点だけではなく、全ての人生の領域に当てはめたとしたら、どんなことが起こるでしょうか?あなたの人生の全ての領域に当てはめていったら何が起こるでしょうか?新しい年、この法則を人間関係に当てはめたらどうでしょうか?このみことばを心に堅く信じて、人間関係をもっと深くしたいから、私はもっと努力しよう!と言う人は、必ずもっと収穫すると確信します。
また自分の財産はどうでしょうか?十分の一献金や一般献金に対して、もっと気前よく豊かに献げ、また困っている人を助け、また蓄えられるようにお金の使い方に慎重になることを決心するなら、何が起こるでしょうか?豊かに刈り取ることができます!それがこのみことばが語っていることです。

しかしこの法則について、私がもっとも興味を引かれたことを挙げていきたいと思います。それは、この新しい年、あなたが大きな霊的収穫を望んだとしたらどうなるか?ということです。言ってみれば、あなたと神さまの関係、あなたの霊性を、より優れたレベルへ上げたいとは思いませんか?
もしあなたがこのみ言葉を適応するなら、このみ言葉を通して主は、あなたに何を語られているでしょうか?それはあなたの人生、あなたの霊性に豊かに種を蒔けば、霊的に豊かに収穫することができるということです。あなたがわずかに種を蒔くなら、もちろんあなたの霊的生活にはわずかな収穫があるだけです。
あなたにお聞きします。あなたは霊的な生活にどのくらいの種を蒔いていらっしゃいますか?なぜならあなたも私もただ毎週日曜日に二時間だけ霊的な生活をするだけなら、どうして自分の家庭や家族の中に大きな霊的収穫を望むことができるでしょうか。それはまるで機械の中に百円玉を入れて、そしてその機械から千円札を引き出そうとしているのに似ています。それは難しいことなのです。
あなたが自分の霊的生活に豊かに蒔くなら、豊かに受け取ることになります。良いものに種を蒔くことには価値があるのです。