2025年カウントダウン・ワーシップ

そして、スタジオも東京のジョージさんのスタジオで、世界一と言ってもおかしくないくらい素晴らしい場所です。ご存知の方はご存知だと思いますが、私は昔、二十歳の頃、もう少し前だったか、その前後によく兄たちの影響で聞いていた音楽がありました。
それはアメリカの西海岸の音楽で、ジャクソン・ブラウンという方がいたんですか、今回のアメリカのレコーディングの場所は、その方のスタジオだったんですね。その方が「使ってください」と言ってくださり、アレックスがその方のアルバムで何回か弾いていて、そしてそんな中で主が道を開いてくださった所で、本当に祝福で感謝でした。
そして、その後に行ったジョージさんのスタジオも本当に素晴らしく、規模こそ違いますが、ジョージさんのスタジオはそれ以上だなと感じました。神さまがしてくださったことのゆえに大きな恵みをいただくことができ、心から感謝しています。

先ほどお読みした第一歴代誌二十章二節ですが、

「ダビデが、彼らの王の冠をその頭から取ったとき、それは金一タラントの重さがあり、それには宝石がはめ込まれているのがわかった。その冠はダビデの頭に置かれた。彼はまた、その町から非常に多くの分捕り物を持って来た。」

とあります。この「非常に多くの分捕り物」というところに今回目が留まりました。ザワメキニュースを本当に久しぶりに出させていただき、本当に皆さんが喜んでくださったことを感謝しています。
それに向けて一生懸命立ち上がってくださった方がいらっしゃいました。以前は三つ折り、六つ折りのような形だったのが、大きな形になり、皆さんにお届けできるようになりました。本当に祝福の時であったことを心から感謝します。

もう一ヶ所、聖書をお読みしたいと思います。ヨハネの十二章二十七、二十八節です。

「『今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。み名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

これが今回、特に心に止まったみことばの一つです。「わたしは栄光をすでに現したけど、もう一度栄光を現す!」主がされようとしておられることが、本当に栄光を現す素晴らしいみわざであることを覚えて心から感謝します。非常に大きな主の祝福のために、非常に多くの分捕り物を、私たち一人ひとりの生活の中に主がお与えてくださる。そして本当に大きな主の祝福があふれることを信じて感謝します。

イエスさまが完全な人となってくださったんだなぁということを、このヨハネの十二章二十七、二十八節を読むとき、「今わたしの心は騒いでいる。」と、イエスさまはおっしゃってくださって、『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。み名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

イエスさまはヨハネ十四章十一節で、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」とおっしゃった、その方が完全な人となってくださったがゆえに、「今わたしの心は騒いでいる。」とおっしゃってくださることに、本当に私たち一人ひとりの救いのために大きな犠牲を払ってくださって、主の恵みの中に生かされていることを本当に心から感謝します。
一歩一歩、一つ一つ、ここまで主が導いてくださいましたが、「心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」とおっしゃってくださっている主のみ声に聞いて、歩んでいきたいと思います。

最初にお読みしたみことばを、最後にもう一度お読みします。歴代誌第一 二十章二節です。

「ダビデが、彼らの王の冠をその頭から取ったとき、それは金一タラントの重さがあり、それには宝石がはめ込まれているのがわかった。その冠はダビデの頭に置かれた。彼はまた、その町から非常に多くの分捕り物を持って来た。

今年、本当に「ヤコブの分前はこんなものではない!」と、本当にそのみことば通りに、私たち一人ひとりにも、その主のみことばを信じて歩み続けて、そして主の勝利を受け取っていきたいと思います。一言お祈りします。

ハレルヤ、愛する天のお父さま、感謝します。あなたの大きな恵みの中で、ここまで生かされてきたことを本当に心から感謝します。あなたのしてくださる恵みが私たちの思いをはるかに超えた素晴らしいものであることを覚えて心から感謝します。どうぞ主よ、あなたの恵みのみわざをなしてくださいますように。今からの時間も、後半のみことばも、私たち、主よ、あなたを待ち望みます。あなたが事を成し遂げてくださいますように。感謝します。全ての栄光を主にお返しし、イエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン。



≪鈴木陽介副牧師≫

みことばをお読みさせていただきます。第ニペテロ三章十一節〜十四節。

“このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。”

こちらが、二〇二五年に私自身が示されているみことばです。二日前の日曜日にメッセージさせていただきましたが、その延長上の話になります。日曜日の主題のみことばは第ニペテロ三章八節でした。

“しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。”

そして九節、十節。

“主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。”
“しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。”

と続きます。

日曜日にも学びましたが、この地上には主が備えた自然界の法則があります。私たちはこの地上に生きる限り、その制限の中で生きなければなりません。しかし一方で、私たちが信じる創造主は、それらを設定された方であり、その方ご自身がそのような制限に縛られることはありません。むしろそれらを支配されている方です。そしてそこには「時間」も含まれるということです。そして「主の日」は必ず来きます。私たちは今、主の日が来るまでの間の期間をこの地上で生きているということです。そして、主の日は盗人のようにやって来ます。
私たちはもう一度しっかりと、主ご自身を主権者として認識する必要があるのではないでしょうか。そのためにも、みことばに触れ続けなければなりません。

そして、今日語らせていただくみことば、第ニペテロ三章十一節、十二節。

“このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。”
“そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。”

十一節に「聖なる」や「敬虔」というキーワードが出てきますが、聖なるとは「聖めわかたれた状態」を表す言葉です。聖書が示す「きよさ」とは、神の支配でない領域からわかたれた状態です。時に「清さ」と混同する場合があるかもしれませんが、私たちはこの世と決別した神の国の視点で生きる事が求められています。
十二節には神の日が来るのを待ち望み、その到来を早めなければならないということが書かれています。そしてなんと、主の日の到来に関して、私たちにそれを早めることが委ねられている様です。これまでも祈ってきたように、私たちは主の日の到来を早める使命を果たさなければなりません。

そして十三節〜十四節、

“私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。”

と結ばれています。

今の天地は滅びます。その後新しい地、新しい天が用意されています。私たちはそれを待ち望むべきです。今の地上のことばかりに捕らわれていてはいけません。

そして十四節には、努力しなければならないということが書かれています。神に見出していただくためにです。私たちはいつも、「神のみ心は何か、どこにあるか」と自分からの方向で物事を考えるかもしれません。それももちろん大事です。けれども、聖書の他の箇所にも示されている様に、私たちが神に見出していただくこと、私たちが神に知られていることがより重要です。そのために、努力しなければなりません。そして「努力しなさい」という現在形は継続・習慣を含む表現です。つまり努力し続けなければなりません。

繰り返しになりますが、クリスチャンひとりひとりの「努力」に、主の日の到来を早めることが委ねられています。皆さんはこの様なみことばに対して、どの様に応答されるでしょうか。

「努力」という言葉が嫌いな方ももしかしたら多いのかもしれません。しかし信仰の歩みにおいて、霊的戦いにおいて、私たちが信仰を持ち、主の主権に身を委ねて生きていこうと決めた時点から、クリスチャンがその道において努力し続けることは当然ではないでしょうか。そしてそれは私たちの命ある限り、あるいは主の日を迎えるそのときまで継続されるべきものです。
「努力」というときに、他者と比較する必要はありません。それぞれがそれぞれにとって、今よりも前に、今よりも上に、今よりも天に属するものとしてという方向に進もうとする事が重要です。それぞれにとって、その一歩は違います。しかし、主の促しに従い、それぞれが困難に立ち向かう時、そこに差はありません。

二〇二五年、私たちは地上の全ての価値観や、地上で今実際に起こっている出来事も含め、主の主権に委ねること、一方で私たちに託されている領域に全力で取り組んで行くことが示されています。学問の領域も主の主権、主の栄光がますます表されるためです。
ぜひ皆さん、何か示されている領域があれば、この二〇二五年は、努力するということを意識してみてください。もしかしたらそうすることで、主の日の到来が早められるかもしれません。この第ニペテロ三章のみことばを希望とともに受け取って一年間主に仕えていきましょう。

主に栄光をお返しして、終わりにさせていただきます。



≪上條実牧師≫

ハレルヤ!主の聖なる名を心から賛美いたします。いつも私や家内のためにお祈りしていただき感謝します。二〇二四年も守られ、勝利のうちに終えることができます事を心から感謝いたします。しかし家内にとってはこの一年間大変試練のときを通りました。

家内は二〇二三年の十二月三日に、今の施設に入居しました。しかし、翌年一月十八日から栄養が口から摂れていないということで、まず鼻から管を入れて、栄養剤を入れるようになりました。その後薬の調整をしようということで、二月二十日から入院しました。しかし二日後の二十二日に突然呼吸が調子悪くなり、気管を切開しなければなりませんでした。家族にとってすごく大きな試練と決断でした。もう彼女の声を聞くことができない。医師もこの状況からすると再度話す出すことするできないだろうと言われました。しかし感謝なことにスピーチカニューレという器具を使うことで声が出るようになりました。素晴らしい慰めでした。本当に感謝でした。その後四月四日に今度は、首からの胃ろうの手術をしました。短期間で大きな変化があり、私自身気持ちの整理がつかないほどでした。今では体重も増えて来たことを主に心から感謝し。皆さまがお祈り下さり、支えられております事を感謝いたします。