想像してみてください。もし、この社会から女性や子どもがいなくなり、男性だけになったと。男性だけの社会、男性だけの国、男性だけの街…。そんな社会は、どうしても殺伐としてしまい、白黒写真のように彩りのない世界になってしまうのではないでしょうか。愛すべき女性や子どもが存在することで、私たちの社会には、いたわり、喜び、奉仕、自己犠牲というものがもたらされるのではないでしょうか。
男性だけの社会があったとしたら、もしかすると、そのうちに誰が最も強いか?と言い出して、最後の一人になるまで戦い続けるということが起きてしまうかもしれない、なんて思ったりします。そんな社会には住みたくないですし、そんな社会は存続できないわけであります。
この法則を自分自身に適応すると、こうなるのではないかと思います。
“自分が抱えている弱さは掛け替えのないものである。弱さがあるからこそ、愛することができる、やさしくなれる、喜びがある、人生が色づく。”
と言うこともできるのではないでしょうか。
私たち夫婦には四人の子どもが与えられました。一番下の息子は、もうすぐ成人を迎えます。写真を見ていただきたいと思います。これは、その息子が生まれたときの写真です。
ちょうど二十年前です。みんな若かったですね。私もその頃はまだ髪の毛がフサフサしていましたし、順先生にも髪の毛がありました。当時の順先生の髪型は、今の私くらいです。 私と順先生は四捨五入すると二十歳くらい違います。なので今の順先生は二十年後の私の姿なのかもしれません。私の髪の毛の未来はもう定まっているみたいです(笑)。私は順先生の後追いをしているみたいです。
一昨日は原田真・亜弥子ご夫妻の子「詩美」ちゃんの献児式がありました。心温まるひとときでした。夫であり、父親である真さんは、妻や子を愛し、自分を犠牲にします。また、母親の亜弥子さんは、子どものために自分を犠牲にします。
主の救いを受けた私たちは、人の価値には上下がないことを知っています。それは男性か女性か、知識や力があるかないか、体が五体満足か障害があるか、年齢が上か下か、そういったものによって測れるものではないということも神さまの知恵によって、ただの人間的なヒューマニズム的な感覚ではなく、主にあって知ることができます。先ほど賜物の話がありましたが、すべての人が必要であり、欠かせない存在です。
話が変わりますが、毎週土曜日に早天祈祷会があります。私も参加したりしなかったりしていますが、本当に恵まれる時間です。この早天祈祷会では、兄姉の名前が書かれたり、日本中の教会や牧師先生などの名が記された祈りのカードを使って毎回祈ります。最近は、参加者が十二~三人程度で、祈りのカードも体七十枚ぐらいあります。毎回カードを一つ一つ挙げながら、主の前に祈ります。恵まれる時です。多くの兄弟姉妹の顔や、多くの教会を思い浮かべながら祈るのは、本当に素晴らしい時間です。
先日十二月十四日の早天祈祷会のとき、これは自分の思いではなく主から与えられたものではないかと思うのですが、祈りながらある方の名前を読み上げるうちに、「この兄弟は元気にしているかな」「今、教会に来ていないのは残念だな」と思うことがありました。その中で特に、私がこれまで関わらせていただいた方々、直接交わりを持ち、お話をした方々の名前が次々と出てきました。「この方は、私があのときとった行動でつまずいてしまったかもしれない」と思い当たる方もいました。そのようなことを考えていると、本当に心が締め付けられるような、悲しい気持ちになりました。私は多くの人につまずきを与えたかもしれない。そして、教会から去っていった人に対して声をかけることもできなかった、そんな自分に気づかされました。
マルコの福音書九章四十二節にはこう書かれています。
“また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。”
祈りの中で、みことばを思い出して私は本当に罪深い者だと思わされました。
教会には牧師や兄弟姉妹、また多くの方々がいます。牧師であってもそれぞれに弱さもあるし、欠けたところもあるということを、皆さんもよくご存知のことだと思います。
私は「シャローム」でウィークデーに働きをさせていただいています。牧会という意味では、他のスタッフの先生方と比べて一歩下がった立場におりますので、あえてこう言いたいと思うのですが、先生方はいつでも教会のことや皆さんのことを祈り、牧会者としての働きを全うしたい、皆さんにとって良き牧会者でありたいと願って、心を砕いて祈り励んでおられます。どうかそのことを忘れずに、先生方のためにも祈っていただきたいと思います。
教会とは、人々の集まりであると同時に、神さまの愛があるところです。命を犠牲にしてあなたや私を愛された神さまがともにおられる。そういう場所であります。その愛を受けたものが、今度は自分を犠牲にし、他の人のために仕えていくところに、教会という交わりの素晴らしさがあるのではないかと思います。
第二コリントの手紙十二章九節から十節には、このようにあります:
“しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。”
パウロは、「弱さが私の誇りです」と語っています。このみことばは、私自身、よく自分を慰め、励まし、奮い立たせるために用います。例えば、メッセージを語る前や何か発表をする場面で、緊張して自分を鼓舞しなければならないときに、このみことばを自分に言い聞かせるのです。「弱い中に主が働かれるんだ」と。
しかし、自分が強いと感じているときや、自分の弱さを感じないときには、このみことばを思い出すことがないのです。私たちは、普段の生活の中で、この言葉を意識し、語ることができているかどうか、自分自身を振り返り、チェックすることが大切だと思います。
私たちは強い時に、神さまをどこか隅っこに追いいやってしまうことがあるかもしれません。私たちは強い時に、失敗したり、罪を犯してしまう可能性も高くなるのです。そうではなくて、イエスさまが私たちを愛してくださったように、お互いに愛を持って仕え合っていく必要があります。
もう時間が過ぎておりますので、最後に、この二〇二五年に向けて、私自身が心に受け取ったみことばをご紹介して終わりにしたいと思います。この教会全体に与えられたものかどうか、まだ自分でも確信が持てない部分もありますが、私はこのみことばに従って歩みたいと願っています。第一コリント人への手紙八章九節。
“ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。”
神さまが私に与えてくださった役割や仕事において、個人として、このみことばを心に据えて、一年間励んでいきたいと思っていますが、お互いに神の愛によって建て上げられた者として仕え合い、この教会がさらに祝福されていくように祈りつつ、共に前進していきたいと願います。
≪滝元開牧師≫
ハレルヤ!イエスさまのすばらしい名前を心から賛美いたします。そして、今日は、こうして新たな年に向けて、主がくださったみことばを取り次げる恵みを心から感謝します。まずみことばをお読みします。
第一歴代誌二十章二節、
ダビデが、彼らの王の冠をその頭から取ったとき、それは金一タラントの重さがあり、それには宝石がはめ込まれているのがわかった。その冠はダビデの頭に置かれた。彼はまた、その町から非常に多くの分捕り物を持って来た。
今日はこうして二〇二四年を振り返りつつ、主がお与えくださったこの一年間の恵みを思い、心から感謝しています。本当に神さまが大きな働きを進めておられることを見させていただき、そして新しい魂もいろいろな形で教会に送られ、そして救いの実も結ばれていることを覚え、心から感謝します。また、皆さんの祈りに支えられ、健康が守られていることも心から感謝しています。ただただ主の恵みと憐れみの中で生かされていることを覚えます。
まずは、心から本当に感謝したいのは、ザワメキも独立させていただき、そして本当に皆さんが一生懸命祈ってくださり、一生懸命支えてくださったゆえに、ザワメキの新しいCD「Zawameki14」が与えられたことを本当に心から感謝します。すべての領域で独立したザワメキにとって、これは主のなされた奇跡です。そして、みなさまの祈りのゆえであること、強く強く覚えております。ありがとうございました。
我が家の娘の麗歌が、アメリカの方と結婚をしましたが、その方は、ザワメキの十からレコーディングのサポートに加わってくださったアレックス・アルさんです。彼と結婚したことによって、彼は本当に一流中の一流の方で、彼が引き寄せる人たちも皆、本当に素晴らしい人ばかりです。しっかりとそれぞれが、私はあまり名前のことがわからなかったですけど、ジョージさんはもちろん、うちのドラムの奉仕をしてくださっている方々も「ああ、知ってるよ、その方が好きだ!」と言ってくださって、本当に真っ直ぐなドラムを叩いてくださり、素晴らしいものが出来上がったことを感謝します。
また、四曲だったかな。パーカッションも入ってくださいました。アレックスがいろんな人の名前を挙げるのですが、超ビックネームばかりです。私には全くわからないんですね。「ちょっとこの人に電話してみる」と言って、電話をすると本当に楽しい方で、素晴らしいクリスチャンの方でした。一旦演奏が始まると、なんだか燃えるとひたすら燃え続けるんですね。それでどんどんいろんなものを引き出してくださり、彩りをつけてくださって、本当に素晴らしかったです。
こんなレコーディングになるなんて夢にも思わないことだったので、アレックスと麗歌が結婚したことの中で、本当に神さまがしようとしておられることというのが、どんなに大きなことなのかと感謝しています。
麗歌が「Reika Al」になったわけですが、アレックスとは私達がザワメキ十の時なので、二〇〇六年から手伝っていただいていて世界一のベーシストだと思っていたので、その人と結婚するって聞いたとき、「私たちの関係者だから結婚したのかな」と何となく思っていたのですが、アレックスに聞いたら「全く違う。」と言うのです。「別に知らなかった」と言うのです。それでアレックスと麗歌が結婚して、本当に神さまの恵みの中で素晴らしい家庭を築いている仲良しな二人の姿を目の当たりにして、本当に嬉しかったです。
彼はレコーディングの中日にわざわざパーカッションを呼ぼうと言い出して、それで先ほども言ったんですけどもビッグネームをいくつも挙げるのです。どうかな、どうかなと言っていたら、今回、ジャクソンさんという名前の方が来てくださり、本当に楽しく美しい彩りをつけてくださいました。感謝でした。
彼もやはり一流の中で生きているので、その世界に入り込むと、とことん入るのです。彼がレコーディングに来てくださった次の日からはスティービー・ワンダーのツアーで時間が取れないとのことでした。でもその前に少し時間があったので、最初のレコーディングの日にわざわざスタジオに見に来てくださり、どんな感じで進めているのかをご覧になって、いろんな助けをしてくださって、本当に感謝でした。私たちの思いを超えた主の働きが、イエスさまのみ手の中でなされたことを感謝します。
出発前に「久しぶりに麗歌ちゃんに会えますね!」と幾人かの方に言っていただき本当に嬉しかったです。もう三年近くぶりだったので、彼女がどんなにたくましくやっているのかと思いながら会いました。前にも少しお話しした部分もありますが、高速道路をものすごいスピードで、約百四十キロでみんなが走っている中、彼女もその流れに乗るしかないので、その流れに乗って、スタジオまで一緒に行ってくれて、本当に祝福でした。