“私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。”
ここから、二〇二五年に対するみことばを語らせていただきます。
我が家の玄関には大きな鏡があって、朝、出かける時にその前に立ち、身だしなみを整えるのですが(いつもではありませんが…)、鏡に映る自分を見て、「年をくったなぁ。おじいさんになったなぁ」とつくづく感じています。
人は皆、年をとります。年々、体力は衰えて、今までできていたことができなくなり、忘れ物が多くなったり、耳が遠くなったりして、いろいろな不都合が出てくるものです。そうなると、もう年だからという理由をつけて、もうこのくらいでいいかとあきらめてしまい、新しいことに挑戦するのをやめてしまうことがあると思います。皆さんはいかがですか?
主は、コリント人への手紙 第二 四章十六節で、このように語っています。
“ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。”
皆さんのよく知っているみことばだと思いますが、このみことばは、クリスチャンしか言えない言葉ではないかと思います。世の中の人はだんだん年をとり衰えていくと、将来に夢も希望もない、あとは死を待つだけというような状況になることが多いと思います。先日、友人に農園経営を始めた話をしたところ、「いい年なんだから、いい加減にしときなさいよ」と、笑いながらたしなめられました。しかし、私たちクリスチャンは、私たちを強くしてくださる神さまがいるので、勇気を失うことはないと言えるのです。
私は、今までいろいろな事業を手掛けてきましたが、正直、印刷が好きだからプレイズ出版を始めたわけではありません。以前にもお話ししたように、この働きは、亡き滝元先生のビジョンだったのです。また、介護や福祉の働きは、将来的に、クリスチャンが入れる老人施設があるといいなぁと漠然と思ってはいましたが、特別に知識があったわけでもありませんでした。
ただ、私が献身者として手掛けるビジネスが、主の働きの前進のために役に立つか否か、それが私が経営する上で、大切にしていることです。プレイズの働きをとおして、クリスチャンの雇用を生み出し、伝道の働きをサポートし、お年寄りや障がい者の方に寄り添う、そういったことを目指しています。
「あなたにはビジネスの賜物がある」と言ってくださる方がいますが、自分ではそうなのかなぁ?と半信半疑です。私は頭が悪く、財力もなく、何の取り柄のない者ですが、クリスチャンホームに生まれて教会生活の中で楽しく過ごさせてもらい、幼い時から、「将来、主のために献身をしたい」というビジョンを持っていました。
若い頃は、実家のスーパーを手伝いながら、商売は面白いという体験をしました。商売で主の働きの一端を担うことができればなぁと思うこともありましたが、教会に献身した時に、商売への思いを一度は捨てました。しかし不思議なことに、いくつかの事業を手掛けるようになった今、ここまで導いてくださったのは神さまのご計画であり、「ビジネスは、神さまが私に託してくださった賜物の一つなのかな?」と思っています。
話は少し変わりますが、女性の多くの人が興味を持つ宝石といえば「ダイヤモンド」ではないでしょうか。私も家内と婚約した時、今からもう四十六年も前のことですが、小さな安いダイヤモンドがついている指輪を贈った覚えがあります。
ダイヤモンドについては諸説ありますが、最初のダイヤモンドは、紀元前七、八世紀ごろにインドで発見されたそうです。原石はあまりに硬いため、研磨することができず、美しい輝きを秘めていることは知られていませんでした。ただ、無敵ともいえる硬さを誇る石として、用いられていたとも言われています。
しかし、一四七五年にダイヤモンドをダイヤモンドで磨くという方法を発明したことにより、一気にダイヤモンドが輝きを持つ希少な宝石と認められるようになったのです。今では、レーザーやイオンビームなどの技術よって美しく磨き上げられたダイヤモンドが出回わり、女性の注目の的となっているのです。ちなみに、近年、人工ダイヤモンドの開発も進められ、本物のダイヤモンドと遜色のない輝きのものがずいぶん安価に買えるようになってきているようです。
みことばに戻りますが、パウロは、「あなたに賜物を分け与えたい」と語っています。それは、神さまが皆さんに賜物という、ある意味ではダイヤモンドの原石を預けているようなものではないかと思います。
皆さんもメッセージで、「あたなにも賜物が与えられていますよ」と聞かれたことがあるかと思います。 しかしそれを聞いても多くの人が、「いやいや、私には何もないです。そんなすごい賜物なんか持ち合わせていないですよ」と謙遜します。しかし、それは大きな間違いです。
パウロは、コリント人への手紙 第一 十二~十四章において、多くの賜物について語っています。今日は全部を読むことはできませんが、いくつかを挙げると、知恵、知識、信仰、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力、などです。 しかし、これらの賜物も、ほんの一例です。人は、十人十色で、顔形、年齢、性格などが違うように、賜物も、召された人の数だけあると言っても過言ではないと思います。
コリント人への手紙 第一 十二章十一節にはこうあります。
“同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。”
「宝の持ち腐れ」ということわざのように、どんなに素晴らしい才能や特技があっても、使わなければ何にもなりません。ダイヤモンドも、発掘された原石のままではただの硬い石にすぎないですが、それを磨く技術によって、その美しい輝きのゆえに高価な宝石として注目されるようになりました。
私たちも、たとえ素晴らしい賜物を神さまから預かっていても、それを使わなければ何の意味もありません。神さまから与えられている賜物を磨く時、それは輝きを増し、さらに神さまに用いられるようになるのです。
パウロは、賜物の目的は、「一人ひとりが器官で、それぞれの働きをして組み合わさり、キリストのからだを建てあげるため」だと語っています。ローマ人への手紙十二章三~五節をお読みします。
“私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。”
私も、キリストのからだを建て上げるための器官として、神さまに与えられた賜物を忠実に用いて、その役割を果たしていきたいと切に願います。
パウロについては、皆さんもよく知っていらっしゃると思いますが、イエスさまの昇天後、異邦人への伝道者として選ばれ、多くの素晴らしい働きをした人物です。彼はたくさんの賜物を持っていて、その賜物を遺憾なく使った偉大な人物であったと思います。
しかしそんなパウロは、「私があなたがたに賜物を分けてあげるよ。教えてあげるよ」と言っているのではなく、『あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです』(ローマ人への手紙一章十二節)と語っています。
皆さん、特に若い人たち。皆さんにはいろいろな可能性があると思います。ぜひ夢を持ってください。その中で、もし、神さまのためにビジネスをしたいと願う人がいるなら、私は相談にも乗りたいですし、心から応援したいと思います。
新しい年を迎えるに当たって、あなたにも賜物が与えられていることを覚え、与えられている賜物について探り、見つけ、磨き、用いてください。まずは、どんな些細なことであってもできることを見つけ、「私はこれを使って主に仕えたい」と主に祈り、使うことから始まるのではないかと思います。また、まったく自分では不得意の分野であっても、自分では気づいていなくても、周りの人から教えられるような場合もあると思います。いずれにしても、賜物は、そのままにしておくならただの石のままで終わってしまいます。使って、磨いてみてください。そうしたら、どんなに輝きのあるダイヤモンドに変身することかと思います。
賜物を、自分を喜ばせるためではなく、また先ほどみことばで読んだローマ人への手紙の十二章にあるように、一つの器官としてお互いのために、そしてキリストのからだである教会を建て上げるために使って行くなら、その輝きがさらに増していくと私は信じています。
来たる二〇二五年、すでに皆さん一人ひとりに与えられている賜物をしっかりと見極め、使い、磨き続け、主の働きに役立つ者とさせていただきたいと切に願ます。ハレルヤ!
≪四元雅也牧師≫
ハレルヤ!こんばんは。今日、二〇二四年最後の聖会に皆で集い、恵みを分かち合うことができることを感謝します。二〇二五年に向けたメッセージをお届けしますが、一つの話をして、このメッセージに入っていきたいと思います。
何の話かというと…コバエの話です。台所や生ゴミの周りなどに現れて、ブンブン飛び回る、夏の暑い時期によく見かける虫です。皆さん、コバエが好きな人いますか?おそらくいませんよね。ゴミの周りに沸くように出現して、ご飯を食べようとすると近寄ってきたり、一人で静かに過ごしていると顔の周りをぐるぐる回ったり、追い払おうとしても全然効き目がなくて、本当に嫌な存在ですよね。
そんな嫌われ者のコバエですが人間の役に立っているのです。ご存知の方も多いかもしれませんが、科学の領域ではとても役立っています。実験のサンプルとして利用されています。コバエにとっては迷惑な話かもしれませんが、人間の生活や病気の研究、遺伝的な研究のために貢献しているのです。
その中で一つ、あまり耳障りの良い言葉ではないのですが、優性遺伝の実験があります。日本で「優性遺伝」という言葉は損害賠償に発展する社会問題となっているケースがありますが、ここではショウジョウバエで優性遺伝の実験をしたという話です。
どういう実験かというと、ショウジョウバエを繁殖させ、その過程でたくさん生まれてくるハエがいるわけですが、その中から弱そうな個体や何か欠けのあるのを見つけて群れから引き離す作業を繰り返すのです。強そうな個体だけを残し、それらの個体で繁殖を続けていく。そういう作業をずっと続けるのです。そうすると、遺伝的に強い個体のみで群れが繁殖されていくわけです。
するとどうなっていったか。強い個体のみで構成されたいわゆる「スーパーコバエ集団」が生まれるかと思いきや…そうはならないんです。いくら弱い個体を引き離し、強い個体だけで繁殖させて、何百回繰り返しても、一定の割合で弱い個体が必ず存在し続ける、という結果が得られたそうなんです。
その研究者は、こういう結論を導き出しました。「コバエの社会には何らかの理由で弱い存在が必要なのだ」と。これは、コバエに限らず、すべての「生きもの」に共通する法則ではないかと考えさせられます。
聖書を見ると、神さまは「人がひとりでいるのはよくない」と仰せられ、女を創造されたと書かれています。そして、神さまは女性を男性よりも弱い存在として創造されました。歴史を振り返ると、女性が男性に支配されてきた時代が長く、男性よりも優位に立った女性社会というものは私の知る限り聞いたことがありません。
それでも、女性から人は生まれてきます。そして、人間の赤ちゃんもまた、他の動物類と比べて非常に弱い存在です。生まれたばかりの赤ちゃんは、母親や誰かの世話なしには生きていくことができません。他の生き物たちは、生まれるとすぐに哺乳類だったら自分で歩き始めます。お母さんのおっぱいを飲むという意味ではお母さんのお世話になっているわけですが、自分でおっぱいを探し自分で飲むのです。昆虫や魚でも、すぐに泳ぎ出したりすぐ自分で餌を探し始めるものが多いです。人間ほど長い期間、親や誰かの世話を必要とする生き物は他にはいないと言われています。人間だけが長い間、母親や周囲の人々に抱かれ、育まれなければ死んでしまう。そういうものであります。
そういった「弱い存在」が、この人間社会に多くいる。というか、男性を除けば、大半が弱い存在によって私たち人間の社会が形成されているわけです。弱い存在は、人間の社会にとって必要である、大切であると見ることができるのではないかと思います。