2024年12月31日(火)
≪滝川充彦副牧師≫
ハレルヤ!こうしてカウントダウン・ワーシップ、この日を皆さんと共に迎えることができたことを心から感謝いたします。この二〇二四年も皆様の祈りに支えられて、そして主に支えられて、教会で主に奉仕することができたことを心から感謝いたします。
それでは早速ですが、二〇二五年に向けて私自身が新城教会に神さまから与えられているみことばを分かち合っていきたいと思います。マタイの福音書十四章二十二節から三十三節にある、ペテロがイエスさまのもとへ水の上を歩いて行った記事からみことばが与えられております。
中心的に取り上げていきたいのは、マタイ福音書十四章二十九節から三十二節です。
“イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。”
このマタイの福音書の場面の前には、イエスさまが五つのパンと二匹の魚で、男だけで五千人の人々を養った奇蹟がありました。イエスさまが自然法則を超越した方法で奇蹟を行われた出来事を経験した群衆たちは、イエスさまをローマ政府からの解放者「メシア」として期待するようになり、イエスさまを政治的な地上の国の王にしようと動き始めました。
そのような群衆の興奮と熱狂の渦の中からイエスさまは弟子たちを守るため、また人々を守るためにも、弟子たちを舟に乗せてガリラヤ湖の向こう岸に行かせました。そしてイエスさまご自身は祈るために山に退かれました。
そのような背景の中、弟子たちはガリラヤ湖を横断する途中、激しい突風に遭い、荒波の中で翻弄されることとなりました。元漁師であるペテロたちがいたにもかかわらず、この荒波に悩まされてしまうわけです。
そして夜明けが近づいたころ、イエスさまは再び自然法則を超越した方法で湖の上を歩き、弟子たちの乗る船に近づいて来られました。
しかし、その姿を見た弟子たちは、イエスさまを幽霊だと見間違え、恐ろしさのあまり叫んだとあります。
そんな弟子たちに対し、イエスさまは何と言ったかと言うと、「私だ」と言ったのです。それはギリシャ語で「エゴ・エイミー」という言葉ですが、それは出エジプト記で神さまがモーセに自分自身のことを「わたしはある」と表した言葉と重なる表現を使われています。イエスさまは、ご自分を万物の創造者、支配者、そして王であること、神の臨在そのものであることを弟子たちに示しました。「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない。」と言われたのです。
そして、そんなイエスさまがおられるところにペテロは近づきたいと思い、「主よ、あなたでしたら、私に命じて水の上を歩いて、あなたのところに行かせてください」と言ったのです。この「あなたでしたら」という言葉の字義的な意味は、「主よ。あなたなのですから」と、ペテロはイエスさまご自身の存在を確信して、イエスさまに語りかけました。
そしてイエスさまはペテロに、「来なさい」と言われました。ペテロはイエスさまのもとへと水の上を一歩歩み出して行きました。
ペテロは、荒波から命を守ってくれる安全な場所だと思っていた舟から飛び出し、荒波の中へと向かったのです。ペテロはイエスさまを、万物の創造者、支配者、王として信じ、信頼し、イエスさまのもとへ近づきたいと願い、「来なさい」というイエスさまの声に従って、イエスさまのもとへと歩み出して行きました。
二〇二五年、私たちが今まで当然に安全だ、大丈夫だ、命を守ってくれると思っていた領域について、もう一度そこに主がおられるかどうかを点検しなさいと主が語られている思いが与えられています。
私たちが立っている、今までの経験によって達成し得られてきた世界観や価値観や、常識や文化、習慣などに対して、もう一度、そこに主がおられるかどうかを点検しなさいと言われているような、そんな思いが、このみことばから与えられてきました。
そしてもし、そこに主がおられず、「そこから離れなさい」と主が言われるならば、私たちは勇気を持ってそこから飛び出し、イエスさまがおられる領域へと出て行く、信仰の歩みを主から求められている、そんな思いが、このみことばから私自身に、この二〇二五年に向けて与えられています。
そして、ペテロはイエスさまを見つめ、湖の上を歩くという、また自然法則を超越したイエスさまと同じ歩みを始めました。しかし、現実の風を見て恐れてしまい、湖に沈みかけました。ペテロは主に助けを求め、イエスさまはすぐに手を伸ばして彼を掴み、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。
ここで「信仰の薄い者よ」と、ペテロの衝動的な行動として、イエスさまが叱責されているように捉えられるのですが、この言葉の意味を深く見ていくと「信仰の薄い者よ」というのは字義的な意味では「信仰が少ない」というニュアンスがあるそうです。それは全き信仰ではない。信仰が足りない状態を表します。
当時、一般的に日常の会話で使われていたアラム語で「信仰の薄い」という言葉の「薄い」は「Zeora」、「少し」という意味があります。その使い方としては、「若くて経験の浅い人」や「一般的に、まだ特定の技術を習得していない見習いに使用する言葉」だと言うのです。
ですから、イエスさまがペテロに対して「信仰の薄い者よ」と言われたのは、ペテロの信仰がまだ若く、経験が浅く、完全に成熟していないという意味合いがあったということです。
そして「なぜ疑ったのか」という、「疑う」という言葉ですが、この言葉の語源には「二つに分かれる」という意味があるそうです。また「二つの方向に進む」「立場を切り替えること」「二重の立場をとること」という意味があります。また、「二つの意見の間で立ち止まること」も含まれます。それゆえ、二つの意見や立場を取ろうとして、どちらを取るべきかわからなくなり、岐路に立つわけですから動揺してしまう、そういった状態を表すということです。
またギリシャ語の時制を見ると、「疑いの状態に入り、その状態から抜け出せない」という意味合いも持つ時制が使われているとのことです。
二〇二五年、私たちの大胆な信仰の歩みをイエスさまが求めておられると感じます。その大胆な信仰の歩みというものは、ペテロがその一歩を踏み出していった時に経験したような激しい風のただ中にさらされることがあるかもしれません。あると思います。
しかし、そのような中でペテロの視点がイエスさまから風に移ってしまった時に、イエスさまと同じ歩みを続けることができなくなりました。イエスさまと同じ信仰の歩みをするためには、「疑う」という二心、「二つの立場」という意味合いがありましたが、二心になることなく、純粋に一つの心でイエスさまを見つめ続けることが鍵となるよ!ということを教えられます。
そして吹き付けてくる私たちを恐れさせる激しい風によってイエスさまから目を離すことがないようにと語られているような思いが与えられております。
そしてペテロに向かってイエスさまが「信仰の薄い者よ」と言われた言葉には、イエスさまはペテロの信仰が未熟であることを分かっておられました。イエスさまは未熟な信仰の私たちもご存じであるということです。
それでも私たちが求めるなら、イエスさまの元へ近づきたい!と一歩踏み出して行こうという思いがあるならば、私たちに「来なさい」と招いていてくださいます。
そしてそれは私たちがどのような存在であっても、私たちが踏み出していく、イエスさまについていく準備ができているか、信仰が成熟しているかは関係ありません。主のみ声に従うかどうかということが鍵となってくるわけです。主のみ声に私たちは従って、勇気を持って一歩を踏み出して行きたいということを覚えさせられます。
そしてペテロが湖に沈みかけたときに助けを求めると、すぐに助けてくださったとあります。幽霊と見間違えるほど遠くにおられたと思われるイエスさまでしたが、「すぐに」という言葉がありました。
私たちの信仰の歩み、時にペテロのように恐れてしまうことがあるかもしれないです。しかしそのような時でも、イエスさまは私たちが思っているほど遠くにはおられない、すぐに助けてくださるほどに近くにいてくださる。二〇二五年も私たちが失敗をするような時もあれば、イエスさまから目を離すような時もあれば、助けを求めるような時があったとしても、イエスさまはすぐに私たちを助けてくださる。側にいてくださる主がおられるということを覚えて、大胆に私たちが神さまのみ声に聞いて、信仰の一歩一歩を、主を見つめながら、歩み続けて行くようにと語られていることを覚えます。
そして神さまご自身は、そのような信仰の未熟な者に対して、二〇二五年、更に私が与えた信仰を成長させなさいと励ましてくださっていると信じます。
そして、この記事の最後に、舟の中にイエスさまとペテロが乗り込むと、ギリシャ語の時制から「乗り込んだちょうどそのときから風が止む」という意味合いがあるそうですが、風が止んで、皆がイエスさまを「まことにあなたは神の子です」と礼拝しましたとあります。
この二〇二五年、終わりの時代、激しい風が吹き荒れるような信仰の戦いの中にあっても、私たちの信仰の歩みが、神のみ子イエスさまを私たちのところにお迎えし、荒波が凪となり、神の国の全き平和の中で、王の王、主の主であるみ子イエスさまを面前で礼拝することへと繋がっていく、神の国の到来と繋がっていくと覚えさせられています。
これが二〇二五年に向けて私が新城教会に対して与えられている神さまの約束のみことばであり、また思いです。最後にまとめたものをお読みして、終わりにします。
『二〇二五年、あなた方の立ち位置を点検しなさい。もしみ声を聞いたならば、主がともにおられない領域から勇気をもって踏み出しなさい。そして、主である私とともに歩み続けるために、万物の創造者であり支配者であるわたしに純粋に一心に目を留め続けなさい。その中で与えられた信仰をさらに育み続けなさい。あなた方の信仰の戦いは、激しい風が吹き付けてくる終わりの時代のただ中にあるのだから。しかし、私は全き平和をもたらすために、必ずあなたのもとに帰ってくる。しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』
二〇二五年に向けて、皆さんと共にこの約束のみことば、神さまのみ思いを受け取っていきたいと願います。
≪岡本信弘牧師≫
ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。こうして二〇二四年の最後の日に、健康でこの場所に立ち、共に主を賛美できることを心から感謝します。
今年は、ようやくコロナが開けて、新たな希望を持って始まりましたが、一月一日に大きな地震があり、出鼻をくじかれた不安の幕開けでもありました。
そのような中で、皆さんのお祈りによって、この教会が守られ、私たち家族も支えられ、今日を迎えることができたことを心より感謝いたします。
しかし、先日は、孫のひとりが風邪をひいて、熱が四十一度三分あると聞いて、心配して祈ったのですが、次の日には熱が下がって安心しました。インフルエンザでもコロナでもなかったのですが、今、かなりインフルエンザが流行していますので、皆さんも気をつけてください。
私が印刷・出版会社のプレイズを始めて三十四年、福祉・飲食部門の経営に参入して九年が経ちました。このためにも皆さんに祈っていただき、主に守られここまでやってこられたことを、心より感謝しています。また今年からは、ハーブ農園のお手伝いを始め、二〇二五年一月からは、正式に『ベテルファーム』という名前でスタートします。
『ベテル』とは、イスラエルの地名の一つですが、『神の家』という意味があります。是非、この働きのためにもお祈りいただけたら感謝です。
そんな、様々な働きで忙しくしている中、二〇二五年に向けてのみことばを求め祈っていた時、ふと、「あなたは私の与えた賜物を使っているか?」と主に語られたような気がしました。そこで与えられたみことばが、ローマ人への手紙一章十一〜十二節でした。