これらを一つにまとめるならば、私たちの人生の王座に主がついてくださるということであります。「私たちの人生の中に神さまの支配と神さまの主権が現される」ということであります。そのために私たちはまず神さまと出会い、そして神さまを知るわけなんですね。目が見えるようにならなければならないのです。
言い換えますと、人間的な知恵や努力によっては、私たちの目は、今申し上げた十八節・十九節の三つの恵みについて理解することができません。私たちは自己中心の罪を悔い改めて、神を知るための知恵と啓示の聖霊の満たしを祈る、祈り求めることによって、神の知恵は私たちのうちに現され増していくことができます。
そして、私たちが、自分が正しいとか、自分の持っているこの見解は正しい見解だと思っている部分にこそ、もしかしたら神さまから霊的な語りかけ、霊的な悟りを受ける必要がある部分であるかもしれません。
第一コリントの手紙一章三十節を見ますと、
『しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。』
ここに書かれていることは、実はイエスさまを神のみ子として信じることが神からの知恵である。これがなければ、これまで申し上げてきた聖霊による知恵と啓示もない、ということであります。なぜならば聖霊さまは、父なる神さまが、み子イエスの名によって遣わされるからだと、書いてあるわけです。
ヨハネの福音書十四章二十六節にはこう書いてあります。
『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』
四元雅也の知恵や努力ではなくて、またゴータマ・ブッダの名前ではなく、マホメッドの名でもなく、他のいかなる名前、手法、知恵によっても、私たちの主イエス・キリストの名の他に、私たちが聖霊に満たされることはできない。
そして私たちが神を知るということは、聖霊によらなければできない。こう聖書は私たちに語っているわけです。だから、私たちが神さまを求めるということは、神さまを知るということは、三位一体なる神さまの全位格の働き・助けによらなければならない、ということであります。
だから私たちはこの神さまを求めていかねければなりません。神さまと出会うために、教会に来なければなりません。教会という所は、神さまについて、父・子・聖霊について、みことばから、聖霊によって深く教える、そういった場所であります。
私たちは二〇二二年に向けて、今まで語られたメッセージが本当に主にあって、新城教会の上に、私たち一人ひとりの人生の中に、実として結ばれていくことを信じ、期待していきたいわけですけど、そのために、私たちは三位一体なる神さま、私たちと共におられ、教会と共におられ、臨在される聖霊さまご自身を求めて、聖霊さまによって探られ、照らされ、満たされることを求め続けていきたいと思います。
私たちを助け励まし導いてくださる方をお迎えして、この神さまの深みをさらに知ることができますように、心から飢え乾いて、主を探し求めていきたいと思います。