2022年11月27(日)新城教会副牧師 滝川充彦
ヨハネの福音書 4章49節〜50節
『その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。』
皆さん、おはようございます。今日こうして皆様とともにみことばを受け取っていく機会が与えられていることを心から感謝したいと思います。
いつも私、また私の家族のためにお祈りいただき心から感謝致します。教会において、健康が守られて、喜んで主に仕えることができています。
早速ですが、みことばに移っていきたいと思います。今日は「主への信頼から信仰へ、そして前進」というタイトルでみことばを学んでいくように導かれております。先ほども読んでいただいた聖書箇所の前後を少しお読みして、どのような内容かをまず見ていきたいと思います。
ヨハネの福音書四章四十六節〜五十三節まで、一度お読みします。
『イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。』
カペナウムという町に、王室に仕える役人がいました。その息子が病気になった、死にかかっていた、非常事態だったわけです。そんな中、彼はイエスさまのところに行って、イエスさまに「来てください。息子をどうか何とかしてください!癒してください!」と頼みに言ったわけです。そしてイエスさまは「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」と、ただ言葉だけをくれたわけです。彼はその言葉を信じて帰って行きました。そして帰って行った時に何を目撃したかというと、息子が癒されていた。それもいつ癒やされたかというと、イエスさまがその役人に言葉を与えられたちょうどその時に、癒されたというわけです。イエスさまが言葉を与えられた、もうその時に神さまのみわざは成就していたわけです。
私たちが、神さまご自身のみわざを目の当たりにするのには、時々時間差があることをここから思わされます。しかし、私たちの思いを超えて、神さまご自身のみこころならば必ずその時になされていく!ということを今日覚えていきたいと思います。
この王室の役人の息子は病気だったわけですが、父親としてとても心配したと思います。我が家の子どもたちも時々風邪をひいたりして高熱で苦しむ時があります。真夜中に「暑い〜」とか、ある息子は「ぱぱぁ〜」とか言って助けを求めてくるのですが、その苦しんでいる子どもを見て、私は本当に何とかしてあげたい!、汗だくの服を着替えさせたり、飲み物を与えたりするわけです。その病気の渦中には、本当にこれからどうなるのか、いつ良くなるのか、全く展望も見えないような状況があるわけです。
そんな状況に直面する中、イエスさまならなんとかしてくれる!イエスさまはこれからめざましく良くしてくださるんだ!そんな信仰を持っているか?と言うと、そんな自分がいないことをよく覚えさせられます。
またイエスさまに信仰を持って祈れるか?というと、その苦しみ、問題の渦中にある時は、私たちはなかなか祈ることもできないような者ではないか?私自身がそのような者であることを覚えさせられております。
その王室の役人は目の前に死にかかっている息子を目の前にして、今起こっている現実にしか目を止めることができずに、辛い、苦しい、心配、不安、そんな思いだったと思います。
そんな中、ガリラヤのカナにイエスさまが再び戻って来られたわけです。ガリラヤのカナでは、水をぶどう酒に変えられた、信じられないような奇跡が行われていました。その噂はその地域一帯に広まっていたと思います。「素晴らしい奇跡を行う方がおられる!」そんな噂を聞いたその王室の役人は、「この方なら何とかしてくれるかもしれない!」そんな必死な思いで、イエスさまがまたガリラヤのカナに来られたときに、イエスさまの所に向かって行ったわけです。
そのような危機的な状況においてイエスさまが息子の所に来て、手を置いて癒してくれたか?というと、そうではなかったのです。この王室の役人にイエスさまは「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」そんな言葉を与えられました。彼は懇願して願い「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」必死に訴えました。そんな中でも、イエスさまがくれたのは、ただ言葉だけでありました。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」実は、その言葉が発せられた時に、神さまご自身のみわざ、癒やしは成就していたのであります。
私たち、主ご自身のみこころを祈っておりますが、その応えを受け取る時には時間差があるということもあるのではないでしょうか。しかし神さまの言葉が一度発せられたら、神さまのみこころは必ず成就されていく。その応えは決して遅れることはないんだということを、今日は皆さんとともに覚えていきたいと思います。
皆様が祈り、願い、求めていることも、多くあるのではないかと思います。祈りがなかなか応えられないという方も多くおられるのではないかと思いますが、神さまご自身は、そのような中においても、私たちがわからない領域において、もうすでに働いていて、みわざを完成してくださっている。そのこと覚えていていきたいと思います。
祈りが応えられなければ、私たちは簡単に失望したり、落胆したり、また神さまご自身を見上げることもできない、信仰を持つことができない、そのような者であります。しかし、私たちはまだその結果を目撃していないだけで、主ご自身のみわざは必ずなされる。決して失望することはないんだよ!と神さまから励ましの言葉を、私自身いただいておりますので、皆様とともにそのみことば、神さまのみこころを受け取っていきたいと思います。
神さまのみこころならば、もうすでに奇跡は、みわざは起こっています。皆様のただ中に、新城教会のただ中に現されている。そのことを信じていきたいと思います。
ここで「時間」というものを、皆様とともに考えていきたいと思います。神さまの時間の概念とは、どのようなものか。神さまは天地万物を造られた方、またその天地創造の前からおられた方です。アルファであり、オメガです。初めであり、終わりです。この地上にやがて神のみ国を建て上げてくださる、過去から現在から未来に至るまでずっと存在される方であります。そしてすべての時を支配しておられる方であります。過去も現在も未来も、今を扱うかのように、私たちが今を扱うかのように扱うことができる方です。
私たちは十字架の贖いによって罪赦された者です。過去の罪が赦されたのは、イエスさまが私たちの過去を取り扱うことができる、贖いを成し遂げることができる方である故、今私たちは救われているということです。過去を取り扱うことができる方です。また未来においても、神さまは将来と希望を与えておられ、私たちの救いを取り除くことは、神さまに従っていく中ではありませんし、約束を必ず成就してくださる、未来も取り扱うことができる方であります。
しかし人はそうではないのです。人はどうしても、「今」という瞬間でしか生きることができない弱い者であると思います。あの王室の役人も、病気の子どもを目の前にして、現状を見て、「今どうしようか。何をしたらいいか。」必死になるわけです。「今」という現実しか見ることができなかったわけですが、人はそのようなものであるかと思います。人は一秒前にも生きることはできないですし、一秒先にも生きることはできないのです。今にしか生きることができない者であるということであります。
四世紀の哲学者・神学者のアウグスティヌスという方が、人間の時間の意識をこのように表していました。“過去は現在の記憶である。現在は現在の私たちが直接的に捉える直覚である。そして未来は現在に対する期待だ。”というのです。人は過去も未来も、「今」という現在に集約して捉えることしかできない。と説いていたのですが、なるほどなぁと思いました。
未来に対して、私たちが良いものを期待できるならばいいですが、どうしても私たちはまだ見ぬ未来に対して、過去の経験に頼って、そして目の前にある、もしもそれが厳しい現実であれば、そこに目を留めてしまって、未来に対してどうしても不安や心配や恐れを抱いてしまう、そのような者が人間ではないかなと思います。
この図形の中に、何が見えてきますか?見方によって異なった図形が現れると思います。三角形が見えてきたり、線のない逆三角形と三角形が結ばれて星型が見えてきたりします。見える図形を通して、ないものがあるように見えてきます。
同様に私たちは、未来に対して起こってもいないようなことが、もうすでに起こっているかのように感じてしまう。そして現実の厳しい状況を見て私たちは起こってもいないようなことを、すでに起こっているかのように捉えてしまい、失望落胆したり、心配したり、恐れたりする。そのような者であるかと思います。
話は変わりますが、先日のワールドカップ・サッカー日本代表の試合を見られた方、おられますか?たくさんの方が見られたのではないかと思いますが、私も見ました。本当にすごかったですね。前評判はドイツが優勢で、日本が勝てるのは数パーセントなんて評価されていたりして、やはり戦う前は、前の実績に頼るわけです。過去の経験を頼るわけですね。過去を通して今を見るしかないわけです。しかし結果はどうでしょうか。二対一。すごかったですね。私も一人で手を叩いて喜んでしまいました。全日本が今、すごくサッカーで喜びに満たされて沸き上がっています。勝利をした瞬間に、「勝利」という事しか私たちは見えなくなり、そして次の試合、未来に対しても、何か日本はとても強くなったチームで、優勝も夢ではないのではないか、そんなふうに思ってしまう。勝利という現実を受け止めた時に、未来に対してすごく期待が生まれてきますし、今までの思いとは全く違う思いになりますよね。日本のサッカー選手たちも、何か自分たちが強くなってしまった。勝った時は興奮して、ある選手は「ブラボー!ブラボー!ブラボー!」なんて叫んでいました。ニュースで見られた方もおられるかもしれませんが。我が家の息子のひとりもその流れに乗って、いつもブラボーと叫んで、ブラボーが止まらないのですが、そのようなものが私たち人間ではないかなということを覚えさせられます。
現実を、現状を見てしまう。そして私たちは「今」という時をあまりにも見すぎて、本来の本質を見失ってしまうということも多くあるかと思います。本来の神さまご自身を見失ってしまうということが多くあるかと思います。
科学の子どもの雑誌を読んで、一つ面白いことが教えられました。眼鏡をかけておられる方も多くおられますが、遠くのものがよく見えないですね。メガネを取ったら私は遠くがぼやけて見えないのですが、小さい筒状の丸を手で作ってあげて、目の前に当てて、ぼやけているところを覗いてみてください。ぼやけているところが、像がしっかりと結ばれて見えるようになるのですね。それは目の中に光を通して目の前にあるものの情報が入り、目が見えるという事なのですが、その情報量を最大限に少なくしてあげると、処理する情報が少なくなるので、ぼやけている像がくっきり見えてくるという現象らしいです。