そして今からは、二人の汚れた者について話したいと思います。またもう一度言いますが、私が先にフィルターを紹介したのは、そのフィルターによって私たちが聖書を理解する必要があるからです。なぜなら、「神はそのような人たちを用いない!神さまはそう言う汚れた人たちは用いない!」と言う人が出てくるからです。
主が汚れた者に触れる時、ただ触れるだけでなく、さらに踏み込んで、彼らに務め(ミニストリー)を与えます!聖書を見ると、神さまが油を注ぎ、働きを委託したその人は、十二弟子の中にいません。パウロが働き始める前に、この伝道者はすでに働きに従事していました。イエスさまはどこに行って、その最初に油注がれた者に働きを委託されたのでしょうか?それは墓場でした。そこはユダヤ人にとっては汚れた場所です。最初に福音の大使として遣わされたのは誰だったでしょう?狂った人でした。イエスの最初の油注ぎを受けたのは、伝道者となったこの頭の狂った人でした。
この話はマルコ五章に書かれています。イエスさまが舟から降りられると、墓の中から汚れた霊を持った男が迎えに来るのをご覧になりました。この人は墓場で暮らしていました。鎖によってもこの男をつないで置くことができず、いつも叫んでいました。誰も墓場に近づくことができませんでした。なぜならこの狂った男がそこにいて、自分の体を傷つけており、また裸でいたからです。
しかしイエスさまと弟子たちはその異邦人のところに来て、またその墓場に入っていきました。イエスが舟から降りられると、この男が洞穴から出てきました。イエスは彼に言われました。「汚れた霊よ、この男から出て行け!」すると霊は緊張して、「イエスよ、私に何をしようとするのですか」と言いました。そして彼らは、その地域から追い出さないでくれと懇願しました。そして豚の中に入ることで安心を得ようとしました。イエスはそれを許し、二千匹の豚が崖から湖に落ちました。悪魔に取り憑かれた豚たちは自殺し、その代わりその墓場に、誰も思いつかなかった油注がれた弟子が生まれたのです。
その時のイエスさまの弟子たちの表情を想像してみてください。「イエスさま、彼を悪魔から解放するのはいいけど、ミニストリーをお任せになるのですか?人々は彼を受け入れないでしょう」と言ったかもしれません。
その町の人々は、噂されていることが本当か確認するためにその場所に来ました。彼らはイエスのところに来て、悪魔に苦しめられていた人を見ました。誰もが頭が狂っている人だと思っていた人が、今は服を着て、正気に戻って座っているのを見ました。その姿を見て、彼らは恐れました。そして、イエスさまに自分たちの中から去るように求めました。人々は感謝するどころか、イエスさまを追い出したのです!人々はなぜ、神の臨在より豚や悪魔につかれた者を好むのでしょうか。
その答えは?いつもと同じです!自分よりも状態の悪い人に油を注いだり、ミニストリーを委託したりすることに私たちには我慢できないのです。ゲラサの人々はイエスを追い出し、イエスは舟に乗って去って行かれました。そして、イエスさまが立ち去ろうとしたとき、悪霊につかれていた者は、「どうか私も一緒に行かせてください」とお願いしましたが、イエスはそうさせませんでした。
このところはいつも、「なぜイエスは彼を連れて行こうとしなかったのか」と、いつも不思議に思います。あるときイエスさまは金持ちの青年をお呼びになりましたが、その金持ちの青年は一緒に行きたがりませんでした。そして今、この男はイエスさまについて行きたいのに、なぜ連れて行かなかったのでしょうか?なぜなら、彼にはもっと大きな計画があったからです。マルコ五章十九〜二十節、
“しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。”
それは宣教の使命です。誰もが考えつかなかった、油注がれた者だったのです!彼は訓練も受けず、教えられもしませんでした。ではその男が知っていたことは何だったでしょう?それはイエスさまには地獄の軍勢を恐怖に陥れることができる力があることでした。イエスさまを見た悪霊たちはイエスさまを恐れ、豚に入るほうがましだと考えました。教義を教えるためでもなく、家庭集会を開くためでもなく、彼にこう言わせるために送ったのです。「私が唯一知っていることは、私は悪魔に取り憑かれていたが、今は自由になったことです!」と。
それは私たちが本来宣べ伝えるべき福音であり、私たちが歩みの途中で失ってしまったものではないでしょうか?「私は何をすればいいのでしょうか?」とその頭の狂っていた人は聞きました。「あなたは狂っていたが、今はいやされました!他には何が言えるでしょうか?あなたは悪魔に取り憑かれていたが、今は自由になったのです!その証しを携えて出て行きなさい!」
あなたにお聞きします。もし私たちが今日解放を行って、悪霊を追い出した人にミニストリーを依頼することがあるでしょうか?例えばその入り口から悪霊につかれた人がやって来て、あばれて、汚物を吐き、私たちはその解放のために祈り、その人が自由になったとします。
では私たちはその人に、「今あなたは解放されたから伝道者です。あなたは副牧師になります」と言うでしょうか?言いません!少なくとも、彼が変わったことを示さなければならないと考えます。
しかし新しい目で聖書を見ると、いつも説教で聞いていたことや、教えられたこととイエスさまは違うことに気づきます!
もう一つの例は、ヨハネの福音書四章に出てくるサマリヤの女です。不道徳に関して言うならば、この女性はその道のプロです。多くの、神のみ子(イエスさま)に出会った人の中で、誰よりも神さまから遠い存在であったのはこの女でした。
そしてしきたりを破るのが好きなイエスさまは、彼女と会話を始めます。尊敬すべき立派なユダヤ人男性を想像してみてください。そういう立派なユダヤ人は、このような女性と会話する必要がありませんでした。彼女は五回も離婚しており、今はまた違う男と一緒にいるのです。彼女は男を知っていましたが、目の前にいるような男性には会ったことがありませんでした。そしてこの男性は、敬意をもって、紳士的な振る舞いをもって彼女に接し、彼女の話を聞き、話し、尊厳をもって彼女を扱いました。
この女は、「あぁよかった。この人は私がどんな女であるか知らないだろう」と考えましたが、イエスは彼女がどんな女であるかを知っていました。
そして、イエスさまは彼女の前に立ち、彼女が生涯、間違ったところに愛を求めて過ごしてきたことを見て、自分がメシアであることを明かしました。それで、女が水がめを置いて、走って町へ行き、イエスさまの事を言い広めたのは不思議なことではありません。「見に来てください!私のしたことを何もかも言い当てた人がいます!」彼女は自分の過去を恥じてはいなかったのでしょうか?もうその時は恥じていませんでした!この時彼女が考えたのは、悪い過去のことではなく、自分の未来だったのです!常に悪い過去によって人生が決められていたこの女性は、今起こったことによって良い人生を決められたのです。彼女の汚れた、罪に満ちた過去が、彼女を他の誰とも違うイエスさまに導きました。そして彼女は全ての人にこのイエスさまの事を知って欲しいと思いました。
この井戸にいた女性は、真逆の生活をしていました。彼女の人生を見ると、誰もが彼女は贖いを受けない人だと、救われない人だと、良い道を教えられない人だと、汚れた人だと考えるでしょう。そう思いませんか?
もしこんな教会があれば教えてください。教会に入ってきたこのような女性を説教者に任命する教会があるでしょうか?その人は五回も離婚を経験した人で、今は愛人と一緒にいる女性です。その人がメッセージの後、前に出て来て、悔い改め、その後に牧師先生がその人に言います。例えば順先生が「あなたは今から説教者になります。宣教者になります。預言者になります。」という、そのような教会があるでしょうか。そんなことがもしあったら、みんなが疑問に思うと思います。「神さまがあなたを赦したかもしれないけど、私たちはあなたが説教者になることを許さない!」と思わないでしょうか。ただ一つの罪を犯したのではなく、罪だらけの人生を送ってきた女性なのですから。
しかしイエスさまは人が見るようにはこの女性を見てはいませんでした。イエスさまにとってこの女性は救われるべき人、教えられる人、贖われる存在であり、ミニストリーを委ねられる存在なのです。彼女は誰も思いつかなかった、油注がれた者となりました。この彼女の罪という長い鎖はまさに切り落とされようとしていました。そして彼女は批判を受ける代わりに、イエスさまから憐れみと好意、優しさを受けました。
このイエスさまとの出会いの後、これを注意して聞いて欲しいのですが、彼女はまだ何度も離婚を繰り返した人として変わりなく、また愛人もいる人なのです。あなたはおそらく、彼女がそこから出て愛人と別れたのだと考えると思いますが、どうなったかについて、聖書は明らかにしていません。私たちはそう考えますが、彼女の評判がまだそういう悪いままであったと考えることにしましょう!
何度かイエスさまは人々に、「自分と出会ったことについて人に話してはいけない」と言われましたが、この女性の場合はそうではありませんでした。彼女の信仰が生まれてまだ数分しか経っていないのに、彼女はすぐにこのような伝道師となりました。地域社会で大きな影響力を持ちました。
では、彼女は何を語るのでしょう?あまりたくさん語ることがありません。あのゲラサの男と同じです。ヨハネの福音書四章二十九節、
“「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」”
彼女のメッセージはそれだけです。この街の人は誰もが彼女がしてきたことを知っていました。彼女の言葉は少なく、取るに足らないものでしたが、彼女が語るこの言葉は非常に重要なことでした。そして、彼女の話を聞いた人々はイエスさまのもとに来たのです!
そして、このゲラサの男と、またサマリヤの女という、誰もが思いつかなかった、この油注がれた二人を見るときに、私たちへの影響は非常に大きいと思います。私たちの中で過去の事実から離れたいと願う人は、今すぐにでも新しい人生を始めることができるのです。たとえまだ何も変わっていないとしても。
それで私は最初にいくつかのフィルターの例を紹介したのです。誰もこの二人が宣教のために送り出されるとは考えつかなかったでしょう。
第一のフィルターを思い出してください。それは「神から出たものなのか?」ということです。そこで第二フィルターである常識では、考えにくいことかもしれませんが、このように神が許されたならそうなのです。あなたも霊的に成熟するのを待つ必要がありません。例えば二年続けて十分の一献金を捧げる実績を作る必要ではありません。また家庭集会のリーダーになる必要もありません。やり直すために他の町に行く必要もありません。実を結ぶのを待つ必要もありません。
ただ道を歩き始めればいいのです。不安定でも霊的生活というのを始めていきましょう。たとえきちんとできない時があったとしても。例えば赤ちゃんはどのように歩きますか?モデルのように歩くでしょうか?ふらふらしながら歩いても、私たちは手をたたいて褒めるではありませんか。赤ちゃんが二歩進んで転んだとしても私たちはそれをお祝いするではありませんか。
そして主は、この二人の油注がれた者のことを喜んでおられます。一人はゲラサの湖畔にいる男、もう一人はサマリヤにいる女です。主は彼らのために喜び叫びます!彼らは、誰も考えつかなかった、油注がれた者たちであり、福音の最初の宣教師となりました。
そして、私が心から信じていることは、あなたの過去がどうであれ、神はあなたを立たせてくださり、誰も思いつかなかった、油注がれた者の一人としてくださるということです!神さまの祝福がありますように。ハレルヤ!