誰も知らない油注がれた者

2025年1月26日(日)新城教会牧師 公畑フェルナンド

マルコの福音書 5章18~20節
“それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。”

ハレルヤ!感謝します。いつも私たちのため、インターナショナル部会のため、祈ってくださって、本当に心から感謝します。今日は一月最後の礼拝に入り、本当に早くこの一月が終わりました。今日はすぐメッセージに入っていきたいと思います。

二〇二五年のために私が受け取ったみことばは、二〇二五年は豊かな収穫の年になるというもので、第二コリント九章六節に基づいたものでした。
しかし、カウントダウンの時に行ったメッセージで、その要点に触れましたので、今日はそのことを詳しくは説明しません。それについては配布された、教会の牧師たちのメッセージが載っている印刷物を読んでいただきたいと思います。

私はメッセージを繰り返すのは好きではないので、今日は別のみことばを用意してきました。今日のメッセージのタイトルは『誰も思いつかない、考えつかない油注がれた者』です。

数年前、私の友人が、「神さまからフルタイムのミニストリーに召された」と報告を受けました。そして「神さまが私を呼んでいる。そして神さまは私に仕事を辞めなさいと言っている」と言いました。人が『神が私にこう言った』と言う時、誰も反論することはできません。神がその人にそう言ったとしたら、私がそう思わないからと言って反対できるでしょうか?また神と争おうとする人がいるでしょうか?
そしてまた彼は私にこうも言いました。「私は四人の子どもがいて養わなくてはならないのだが、仕事を辞めるよう神さまに言われた。他に収入源がないけれど、私は信仰によって生きるつもりです」と。そしてその後しばらく彼がどうなったか私は知りませんでした。本当のところは、私は彼に、「子どもが四人もいて他に収入源もないのに、仕事を辞めるのですか?」と言いたかったのですが、言えませんでした。

数年後、私はこの兄弟に会うことができました。彼は挫折し、離婚し、経済的に破産していました。彼は神が養ってくれると期待していましたが、結局は『神が彼に告げた』のではなかったことがわかったのです。この『神が私に告げた』というフレーズのために、何らかの影響を受けた人はいったい、どれだけいるでしょうか。
問題は人間のほうにあります。なぜなら人というのは往々にして自分の聞きたいように物事を聞くからです。悪い動機から出てはいないとは思いますが、時に神さまに言ってもらいたいことを、自分の中で「神さまのみ心だ」と言ってしまうのです。
だからこそ、このフレーズを使う前に、自分がやろうとしていることや引き受けようとしていることを、まずいくつかのフィルターに通す必要があります。
そのフィルターをご紹介していきます。

第一目のフィルターが、「それは本当に神から来ているのか?」というフィルターです。それは神のご性質と、神が私に求めておられると信じているものは一致するだろうか?と自分に聞くことです。
しかし多くの場合、実は肉の欲望であるのに、神さまがそう言われたのだと思ってしまうことがあります。そしてまたこの言葉は他の人たちを操るために使われます。

第二番目のフィルターが、「これは常識に耐えるものか?」ということです。なぜならこれは分別するための検査方法です。信仰を持つということは、自分が見積もったよりもはるかに高いものを買うことではありません。また愛情なしで結婚することでもありません。例えば、「もしある女性が緑のドレスを着て教会に来るなら、その人と私は結婚すると神さまが言われました」というようなものではないのです。また自分に能力がないのに取り掛かることが信仰ではないのです。常識で判断するべきです。

そして第三番目のフィルターです。「それは私に合っているものか?」
第一コリント六章十二節前半をお読みします。

“すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。”

「私に合う」というギリシャ語は、「私に有利になる」という意味です。もしそれが私の霊的な生活において有利にならないなら、それは私に合わないということです。「この決断をすることで、私の霊的生活は強められるだろうか?」「この決断は、神への誠実をさらに高めるものだろうか?」「私の成長のため、私の聖さのためになるだろうか?」と考えなくてはなりません。

そして四番目のフィルターです。「私を築き上げるものだろうか?」
第一コリント十章二十三節後半をお読みします。

“..すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。”

この「高める」というギリシャ語は「家を建てる」という意味です。「これをすることによって、私の霊性はさらに安定するだろうか?」「より成熟し、より堅固になるだろうか?」このみことばを自分で理解するのはとても簡単なことだと思います。ただ牧師先生の所に行って、「私は何ができますか?」と聞く必要はありません。「パチンコをしてもいいですか?」とか、「どれだけ酔っ払っていいですか?」とか、そういう何をしていいか、何をしてはいけないか、ということではありません。それは常識で判断すべきです。常識がフィルターなのです!

五番目のフィルターです。「この決断によって私は競争から遅れるか?」ということです。この使徒が言ったように、私が賞を得るために走っているなら、この決断が私を後退させるものか考えましょう。ヘブル人への手紙十二章一節後半〜二節前半までをお読みします。

“..私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。”

そして、「あらゆる重荷と罪を捨てなさい」と書いてあります。一つは重荷で、もう一つは罪です。罪を捨てることは簡単なことです。しかしその次に重荷を捨てなければなりません。その重荷とは不必要な物のことです。時々私たちはそういう不必要なものを持って生きています。

六番目のフィルターです。「私を支配するものだろうか?」ということです。
第一コリント六章十二節後半をお読みします。

“..私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。”

私は物に支配されている人に驚かされます。携帯電話から片時も離れられない人がいます。例えば教会のメッセージの途中で電話に出たり、「今教会にいるので、後で電話します」とメールを書く人がいます。待てないのだろうか?と思います。そういう人は、スイッチを切る、繋がりを切るということができないのです。
私はコーヒーを飲むのが好きですが、もしコーヒーがなかったらどうでしょうか?パニックになるでしょうか?性格が変わるでしょうか?それとも飲まなくても大丈夫と言えるでしょうか。私は何者にも支配されないと言うことができるでしょうか。

七番目のフィルターです。「私は罪を行う許可を求めているのだろうか?」という疑問です。私が恵みについて説教すると、ある人々はこう言い始めます。「恵みがあるなら、何でもしていいのですか?」と。私たちは罪を行う許可を求めているのでしょうか?
第一ペテロ二章十六節前半をお読みします。

“あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、..”

とあります。あなたはいつも、自分がしたいことを見つけるための言い訳を探します。もしあなたが聖書を読むとき聖霊さまがともにいないなら、聖書はあなたに殺人を犯す許可や自殺する許可を与えるかもしれません。「聖書に『イスカリオテのユダが首を吊った』と書いてあるから首を吊ろう」と。聖霊さまの分別のない聖書は、罪を犯す許可を与えます!「ソロモンは九百人の妻がいたから、私もたくさんの妻を集めよう!」と言うのです。それがフィルターなのです。

そして八番目のフィルターです。「これは人の模範となるだろうか?」という疑問です。もし誰かが、あなたが食べようとしている肉が偶像に捧げられたものだと告げるなら、それを食べてはいけません。それは良心のためです。あなたの良心のためではなく、ほかの人の良心のためです。神殿に来る人たちは偶像の神々のために食べ物を携えて来ました。そしてそれらは祭司たちだけが食べていたのですが、たくさんあって食べ物が余るので、神殿の裏に肉屋のようなものを開いていました。安い肉が欲しければ、人々は神殿で買ったのです。そこで使徒はこう言わなければならなかったのです。「偶像に捧げられた肉を食べることが、ほかの人にとって悪いことなら、食べてはいけない!」と。
第一コリント八章十三節をお読みします。

“ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。”

さてそれでは、このようなフィルターの基本を踏まえた上で、今からメッセージの核心に入っていきましょう。

レビ記の律法は、さまざまな動物の肉を食べることを禁じていました。それは聖くない動物をリストアップすることでそうしていました。
ある日、ペテロが幻を見たとき、彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなりました。(使徒十章)
しかし食事が準備されている間に、幻が彼に現れ、天が開かれ、シーツのような大きな敷布が地面に下ろされるのを見ました。それを見ると、その中に四つ足の動物、這うもの、空の鳥がいました。
そして天から声がして、「ペテロよ、起きて、ほふって食べなさい!」と言われました。ペテロは「いいえ、それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません!」と答えました。彼はその律法を厳格に守っていました。
するとまたペテロに声がして、「神がきよめたものを汚れたものと呼んではならない!」と言われました。このようなことが三回ありました。すべてのユダヤ人と同じようにペテロにとっては、これらの食べ物はタブーであり、忌むべきものでした。
ペテロが幻のことで思いを巡らせながら階段を下りていくと、異教徒の一団がそこにいました。それはイエスに従う人々に加わりたいと思っている人たちでした。
こういうことをお話しすると、「なぜ神はそういう矛盾をされるのか」と言う人がいると思います。しかし矛盾してはいないのです。神はレビ記の律法を与えた方であり、「今私はこれをきよめた!」と言っておられるのです。神は神なのです!

ペテロがローマの百人隊長の家を訪問することを聖霊さまから強いられたとき、彼はこう自分のことを紹介しました。「ユダヤ人の男が異邦人と交わることは忌み嫌われることであることをあなたがたは、ご存じだと思います。」
そしてペテロはこう言いました。「しかし神は私に、どんな人のことでもきよくないとかや汚れた者と言ってはならないことを示されました。」と言いました。ペテロはこの幻のたとえを理解しました。それは恵みの革命が起こっていたのです。ペテロがかろうじて理解したことでした。
パリサイ人たちは身を聖く保つために必要な規則を設けていました。例えば「異邦人の家には絶対に入らない」とか、「罪人とは一緒に食事をしない」「安息日には仕事をしない」「食事の前には七回手を洗う」などです。
そして、イエスがメシアかもしれないという噂が広がり始めると、ユダヤ人たちは騒ぎ出しました。なぜならイエスさまはわざわざ異邦人の領域に入って行かれて、ローマの百人隊長がイスラエルのすべてのユダヤ人よりも信仰を持っていることをほめたたえたり、百人隊長の家に入ってそのしもべを癒すことを申し出ました。
その後、十二年の長血をわずらった女に触れられました。彼女は神を礼拝し神殿へ行くことを禁じられていました。それは彼女にとっては非常な恥でありましたが、パリサイ人たちはその女性特有の病は、彼女の罪が原因であると教えていました。しかしイエスさまは彼らに真っ向から反論されました。
イエスさまはそこから、会堂管理者の家に行かれました。その娘さんが亡くなったばかりでした。つまり、ユダヤ人にとって、長血をわずらっていた女に触れたことで、イエスはすでに汚れているのです。そして今、その汚れたままで、部屋に入り死体に触れました。
レビ記の律法はいろいろな伝染病から民を守っていました。例えば、病人、異邦人、死体、ある種の動物、さらには菌類、そのようなものとの接触は病気に感染する可能性がありました。しかしイエスさまはそのプロセスを逆転させました。触って自分が悪いものに感染する代わりに、その相手に良い影響を与えたのです。
イエスさまはさらに進んで、その汚れた者とされる人たちにもミニストリーを与えられたのです!誰も思いもつかなかった人に油を注ぎ使命を与えられたのです!