もっと激しい風が吹いて来る!

その賛美が与えられたのは家内でしたが、「風に助けられて」というメッセージソングのCDが出ましたが、その最中でした。本当にすごくゆったりとした素晴らしいCDが与えられている、その最中に彼女に与えられました。夜明けに、私たちがまだ寝ている時に、彼女がバスルームでこっそり録音していたのですが、「一振りの剣」が与えられているので、これからもっともっと本当に激しい風が吹いてくるために戦いなさい!とイエスさまがおっしゃっておられるので、そのための歩みをし続けていきたいと思います。

この前後の文脈ももう少し見てみたいと思いますが、エレミヤ書四章十一節からです。

その時、この民とエルサレムにこう告げられる。荒野にある裸の丘の熱風が、わたしの民の娘のほうに吹いて来る。--吹き分けるためでもなく、清めるためでもない。これよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今、わたしは彼らにさばきを下そう。

と書かれています。つまり、神さまの風というのは、あちらこちらを分けるためや清めるためではなく、「わたしのために」と書かれているので、主ご自身のために新しい風がこれから吹いてくるというのが主のみことばです。

そして、十三節には、

見よ。それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう、その馬は鷲よりも速い。ああ。私たちは荒らされる。

と書かれています。本当に私たち一人ひとりがもう一度その新しい主からの風を受け取り、祝福をいただいていきたいと思います。

先ほど少し話が逸れましたが、一振りの剣、エゼキエル書のみことばの賛美ですが、二十一章九節に、

「人の子よ。預言して言え。主はこう仰せられると言え。剣、一振りの剣が研がれ、みがかれている。

本当にもっと激しい風の中で、その激しい剣をもって、皆さんを通してサタンの力が打ち破られる働きがなされるのです。十一節には、

その剣はみがかれて手に握られ、それは、研がれて、みがかれ、殺す者の手に渡される。

激しい言葉です。そしてさらに見ていくと、こんなふうに書かれています。十六節、

あなたの顔の向くところ、右に向け、左に向けて切りまくれ。

「切って切って切りまくれ」というのが主からのみことばですので、私たちに与えられたみことばの剣を持って、皆さんの職場や地域で切って切って切りまくる。別に流血事件が起こるわけではなく、みことばにある力を皆さんを通して解き放つということがどれだけ大きなことかを実感し、皆さんが遣わされていった会社だったり、職場だったり、学校だったり、地域だったり、本当に切って切って切りまくる時に主のわざが起こされていくので、主の計画を信じていきたいと思います。

主が声を出してくださり、水のざわめきが起こったがゆえの出来事で、最近もよく語られていることですが、主がみ声を発しておられるのです。
ですから、主が声を出した声というのは一回だけではないのです。実はあの「主が声を出すと♪」のみことばが、エレミヤ書十章十三節にあるのですが、同じみことばが、同じエレミヤ書にあるのです。五十一章十六~十九節、

主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。そのみ名は万軍の主である。

「ヤコブの分け前はこんなものではない。」新しいザワメキニュースの一行目に書かせていただいたみことばですが、それが再び出てきているのです。

そして、その五十一章の前後を見ると、またまた何かワクワクするみことばがあるので、そこにも目を留めていきたいと思うのですが、五十一章十四節、

万軍の主はご自分をさして誓って言われた。「必ず、わたしはばったのような大群の人をあなたに満たす。彼らはあなたに向かって叫び声をあげる。」

バッタのような大群の人々。日本でバッタのような大群はなかなか見ないですが、時々テレビでバッタが大量発生して、真っ黒な群れが空を覆っている姿を見ることがあるかもしれませんが、あのような、本当にもう真っ黒な群れがぐわーっと全地を覆うようなバッタの大群をあなたに満たすというのが、神さまのみことばなのです。すごいですね。ちょこっと増えてよかったな、今日は良かったと、そういうところに主は止まっていなくて、もっと激しい風を私は吹かすから信じて前に進むんだ!そして私に向かって叫び声を上げ続けなさい!と、イエスさまはおっしゃってくださっているのではないかなぁと思います。

エレミヤ書五十一章を読み進めていくと、さらにこう書かれています。

「あなたはわたしの鉄槌、戦いの道具だ。わたしはあなたを使って国々を砕き、あなたを使って諸王国を滅ぼす。

私たち一人ひとりがそのように主の戦いの道具となるように。このみことば、うちの娘も与えられたみたいで、戦いは鉄槌だ!と言って頑張っていますが、さらに進み続けるように主は語ってくださっていると思うので、主の戦いの道具としての働きをし続けていきたいと思います。

詩篇百三十五篇六節~七節をお読みします。

主は望むところをことごとく行われる。天で、地で、海で、またすべての淵で。主は地の果てから、雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。

「主は望むところをことごとく行われる」と書かれています。主が望んでおられる。主がもっと激しい風を吹かせることを望んでおられるのです。本当にそのことを信じてもっと心を主に向けてワクワクさせていかなかったらいけないなと思っています。

「ヤコブの分け前はこんなものではない!」というみことばをいただいてから、とても「ヤコブ」という言葉に反応してしまうのです。詩篇百三十五篇四節には、

まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。

と書かれていますので、皆さんお一人お一人が主の宝であり、主にとって大切な存在であることを信じて、歩み続けていきたいと思います。主はこれから大きな新しい祝福を持って臨んでくださるので、主のもっと激しい風が吹くときを待ち望み、主の激しい暴風雨みたいなものが吹くとみことばにあります。

エレミヤ書三十章二十三節には、

見よ。主の暴風、--憤り--吹きつける暴風が起こり、悪者の頭上にうずを巻く。

と書かれています。激しいみことばばかりですが、ここで言う「悪者」というのは、単に私たちが嫌いな人を指すのではなく、サタン、悪霊どもの頭上にうすを巻くほどの主の憤りが、主の怒りが、暴風のように吹き付けるというのが主のみことばですので、そのことを信じてみてください。

イエスさまがガリラヤ湖で弟子たちと一緒におられたとき、ゲラサ地方に行こうとされましたが、舟の中で眠っておられました。その時、激しい嵐が起こり、舟が沈みそうになったのですが、イエスさまは、そんな中でもぐっすりとお休みになっていました。マタイ八章二十四節には、

すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。

イエスさまにとっては、全てのものがイエスさまの支配の中にあるので、そんな中でも眠ることができるのです。しかし、私たちは時々「イエスさま、寝てしまわれたのかな? 大丈夫かな?」と弟子たち以上に心を騒がしてしまいますが、マタイ八章二十六節、

イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

イエスさまのみ名によって、風も湖も「黙れしずまれ!」と叫んだ時に大なぎになるということがなされていったので、主の働きが前進していくと信じて、主の大暴風が起こると信じて、私たちはもっと激しい風を信じきって歩んでいきたいと思います。

詩篇百三十五篇八節~九節、

主はエジプトの初子を人から獣に至るまで打たれた。エジプトよ。おまえの真っただ中に、主はしるしと奇蹟を送られた。パロとそのすべてのしもべらに。主は多くの国々を打ち、力ある王たちを殺された。

すごくはっきりされたメッセージを主は語っておられますが、暗闇の力と呼ばれる悪霊どもの力に対して、主が力強く戦ってくださるお方であるので、本当にそのことを信じて、イエスさまが弟子たちに、「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」と言われましたが、私たちが信仰を持って、「怖い!これからどうなるのか。」『もっと激しい風が来るよ!』

え?もうちょっと穏やかに過ごさせてください!と思ったところがあるかもしれませんが、どんな風が吹いても主の風であるならば、私たちは主のみ名によって進み続けなければなりません。主のもっと激しい風の主のみ業のために歩み続けていきたいと思います。
しかし主の風ではない悪しき風に対しては、イエスさまのみ名の権威を使い続けていきたいと思います。マタイの福音書八章二十六節には、

イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

と書かれているのは、主の力です。波を「黙れ!鎮まれ!」と言っただけではなくて、湖までも叱りつけるというのはすごいことだなぁと思います。

湖はただそこに存在しているだけですが、そこに水が入って、風が吹いたゆえの出来事であるのにも関わらず、湖にしたら、「え?俺まで叱られちゃうわけ?」と思うかもしれませんが、でも私たちの存在というのは、本当に主ご自身を宿しているので、私たち本当に主ご自身を宿すというのはある意味で湖のような存在かもしれませんが、そんな私たちに「黙れ!鎮まれ!」と語られるのではなくて、主に喜んでいただける、そんな歩みをさせていただき続けていきたいなと思います。

今日のみことばにもう一度戻ります。エレミヤ書四章十二節、

これよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今、わたしは彼らにさばきを下そう。

「彼ら」というのは悪霊どもですので、そこに対して、主は裁きを下してくださって、そして本当に主のわざがなさると信じていきたいと思います。二〇一七年版でもこのように書かれています。

「それよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今や、わたしが彼らにさばきを下す。」

「今や、わたしが彼らにさばきを下す。」主の宣言なのです。もっと激しい風を吹かせて、今や「わたしが彼らに裁きを下す!」と叫ばれているので、私たちもイエスさまと同じ気持ちで、彼らに裁きを下す!という権威を主が私たちに与えてくださっているので、主が与えようとしておられる新しい、日々新しいので、日々新しい主の働きが成し遂げられる!という、その信仰を持って、皆さん今週も一週間、遣わされていっていただきたいなぁと思います。主に本当に心から期待して、今週は「もっと激しい強い風が吹く!」

この日本では盆という時期で、暗闇が死者礼拝というか、祖先崇拝という、本当にその暗闇がこの地を覆うような、そんな時だからこそ、「もっと激しい風がわたしのために吹きつける!」という、その信仰を持って今週一週間を歩んでください。

「もっと激しい風が吹いてくる」は、ザワメキ二に入っています。昔、一九九三年、今から三十年以上前に与えられたCDの賛美なので、本当にある意味懐メロですが、今回このみことばに出会って、すごいなぁ!と、ブワァ!と、何か吹き付けるようなものをすごく感じます。今もすごいなぁと思います。
最近、聖書の学びがここでいつも行われていて、朝からすごく恵まれています。彼らがみことばに圧倒されている姿を見ると、みことばの力はすごいなぁと感じます。「みことばに圧倒されていますか?」皆さんも毎日聖書を読んでいるかもしれませんが、「あぁそういうこともあったのね」とただ読むだけでなく、みことばに圧倒される、そのような歩みをしていただけたら、もっと激しい風が吹いてくることを感じ、本当に新しい風が吹いてくる!という主のみことばですので、主のみことばに期待して、今週も一週間、皆さんそれぞれの場所に遣わされて、そしてこの暗闇が深い時だからこそ吹き分けるためではなく、「もっと激しい風がわたしのために吹いてくる」というのがみことばですので、今週それぞれの地に遣わされて、激しい風が現れることを期待しながら進んでいただきたいと思います。