もっと激しい風が吹いて来る!

2024年8月11日(日)新城教会牧師 滝元開

エレミヤ書 4章12節

”これよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今、わたしは彼らにさばきを下そう。”

ハレルヤ!感謝します。こうして皆さんと共に神さまを賛美し礼拝できる大きな恵みを心から感謝していきたいと思います。今日もイエスさまが私たちの賛美を受け取ってくださっていることを、本当に心から感謝します。賛美の中で主が大きな働きを進めてくださると信じています。

早速、今日のテーマのみことばをお読みしたいと思います。先ほど司会者の方にもお読みいただきましたが、エレミヤ書四章十二節です。

これよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今、わたしは彼らにさばきを下そう。

「もっと激しい風が吹いてくる」というみことばがエレミヤ書にありますが、今、本当に主が私たちのところに激しい風を本当に吹かせようとしてくださっていると信じて、心から感謝します。

リバイバルの大きな働きがここまで進められ、本当に聖霊さまの風に乗って導かれたように導いてくださったような毎日というか、日々であると覚え、心から感謝しています。しかし、これからは、「もっと激しい風」が主のみ手の中で吹いてくるというのが、このみことばなのです。

この前後の文脈も少し見てみたいと思います。エレミヤ書四章十一節~十三節、

そのとき、この民とエルサレムに告げられる。「荒野にある裸の丘から、熱風は、娘であるわたしの民の方に吹く。ふるい分けるためでも、より分けるためでもない。それよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今や、わたしが彼らにさばきを下す。」見よ、それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう。その馬は鷲よりも速い。ああ、私たちは荒らされる。

と書かれています。聖書に親しんでいない人にとっては、何のことかよく分からないみことばかもしれませんが、神さまの風というのは、人を生かす風なのです。この世の風、つまり神さまでないものの風というのは、私たちを失わせる風ですが、もっと激しい主の新しい風が吹いてくるというのが、みことばの約束ですので、そのことを信じて、私たちは歩み続けていきたいと思います。

こうして今日、皆さんの前で賛美礼拝でみことばを取り次がせていただくのは、実は五月五日、ちょうど私たちの結婚記念日でしたが、その日以来です。本当にそこからまた日々の歩みの中で、主が祝福を与えてくださり、ここまで導かれていることを心から感謝しています。その間にいろんなことがありました。

一つは、有賀喜一先生がこの教会にお越しくださり、メッセージをしてくださいました。昨年も同じようにメッセージをしてくださり、本当にお変わりなく、激しいメッセージでした。「もう一度燃えよう!もう一度、リバイバルのために私たちも戦い続けなければならない!」と強く思わされました。
あの聖会が終わった後に、先生が記念会というか、有賀喜一先生をお祝いする会があるから、そこに来て歌ってほしいと言ってくださったので、私たちは喜んで伺うことにしました。

大阪の本当に立派なホテルで、三百五十人くらいの方が集まりました。そして、私たちが企画してその働きを進めなければならないところを、なんか違うのです。関西の先生方がしてくださって、しかも実行委員や運営に携わる方々の存在が全く見えない集会でした。「有賀先生の集会を進める会」としか書いてなくて、実態が見えないのですが、本当にこれは主の働きだとすごく思わされました。

この秋には、今度は奥山実先生に感謝する、そんな会が開かれるそうです。リバイバルのバトンが確実に手渡されて、「リバイバル!」と皆さんが思っておられる姿に本当に感動しました。

有賀先生は、来られていた三百五十人の中で、誰よりもお元気で、「ハレルヤ!」と大声で叫んでおられ、そして、先生がおっしゃっていたのは、もう九十歳で、その会があってすぐに九十一歳になられたので、「自分はどのように美しく消えようかと思っていた」と言うのです。美しく消えるとはどういうことか、よく分かりませんが、でも「美しく消えようと思っていた。でもイエスさまはそうおっしゃらなかった。」と言うのです。「最後まで燃え続けなさい!」と。その会の中でも誰よりも燃えている姿に、本当に励まされました。
私たち一人ひとりも、イエスさまを愛し、そして誰よりも主のために励む、そのような者であり続けたいと本当に心から思っています。

有賀先生が一九九三年に甲子園球場で行われた全日本リバイバル甲子園ミッションという大きな大会の実行委員長をしてくださったのですが、その会が始まる何年か前、確か二・三年前だったと思いますが、「リバイバルのために働きます!」ということを、あるクリスチャンの新聞の中に書かれていました。そこに本当に小さな広告があり、その中に「遅くなってもそれを待て。必ず起こる!」という言葉を書かれていました。「遅くなってもそれを待て。それは必ず来る!」そのみことば、ハバクク書二章三節です。

この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。

これが先生がその見出しに書いてくださったみことばだったのです。本当に「遅くなっても」、リバイバルという私たちの望みが絶たれてしまいそうな時でも、「遅くなってもそれを待て!」と先生がおっしゃっておられたので、本当にそのことを信じて戦い続けようと思いました。
そのみことばを聞いてすぐに与えられた賛美が、「必ず起こる!遅れることはない!」という歌詞の内容の「祈りは聞かれる」という賛美です。神さまが私たちに対してのメッセージとして今も語ってくださっているので、本当に「大変な時代だなぁ」と思いつつも、それを嘆くのではなく、主に期待して前へ進んで、一歩一歩進み続けていきたいと本当に心から願っています。

詩篇百三十篇六節には、

私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。

と書かれています。夜回りって何だろうって、ちょっと疑問に思うかもしれませんが、このみことばの原語を調べると、夜回りというのは見張り人のことで護衛の意味があるそうです。だから本当に見張り人の、皆さんに与えられた今のこの時代をしっかりと見極めて、主にあって「遅くなってもそれを待て!」と言う、九十一歳の叫びが激しく響き渡っていましたので、私たちもそのような歩みを続けていきたいと思います。

そしてその後、この教会ではサンデーミュージックスクールのコンサートが行われました。本当に祝福されて、神さまの恵みでした。その時の写真、まだご紹介していなかったと思いますが、ちょっとご覧いただきたいと思います。

サンデーミュージックスクールの兄弟姉妹が一生懸命一緒に賛美してくれました。そしてまた、皆さんと一緒にお食事をいただきました。この時は、「雲の柱」、朏兄弟の雲の柱が再び燃え上がったというか、立ち上がったという集会で、本当に祝福されました。とも君夫妻が一生懸命準備してくださって、いやぁ、すごいなぁと本当に思いました。
その集会にも、たくさんの人が来てくださり、大きな祝福の時となり、本当に主の恵みの時であったことを心から感謝しています。神さまは今も生きておられ、「遅くなってもそれを待て!そして主の臨在である雲の柱は今もここに立っている!」と常に主は私たちに示し続けてくださっているので、そのことを信じ、本当に心から感謝していきたいと思います。

昨日は東京で、ザワメキの集会があり、本当に大きな恵みの時でした。毎月毎月、二十一世紀キリスト宣教会という安藤忠雄という建築家が建てた教会で、広尾という場所は、教会が立っている場所だけではよく分からないですが、周りには大使館がたくさんあるのです。だから本当に外国人の方がすごく多いところなのですけど、そこでクリスチャンではないですが安藤忠雄が建てた教会ということで、「世界の建築家」と言われるだけのことはあるなと本当に思いました。
今回ザワメキのニュースのために、プロのカメラマンが撮影をしてくださり、いろんな部屋に案内されながら写真を撮ったのですが、「うわぁ、すごいな!」と本当に思いました。
昨日も増山先生が「自由に見てください」と言ってくださり、元は大企業の社長だった方が牧師になられたのですが、いつそういう社長風が吹いてくるのかなと思ったら全くそんなことはなく、到着するとすぐに荷物をご一緒に運んでくださるような先生なのですが、昨日は先生がメッセージしてくださって、本当に祝福でした。そして昨日、先生が語ってくださったみことばは、マルコの福音書十章四六節から四十七節です。

彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。

目が見えず、ただ主のみ前に叫ぶその姿というのは、もう今しかない!とバルテマイは思いたち、きっと叫んだのだと思います。ですからその盲人のように、私たちも「ダビデの子イエスさま!助けてください!」と、日本のリバイバルのために、またイエスさまがいつ帰って来られるか分からないこの時代に、「主よ!助けてください!」と叫び続ける、そんな者でありたいと本当に心から願います。神さまはその叫ぶ声に聞き遂げてくださるお方です。
そして、マルコの福音書十章五十一節から五十二節にはこう書かれています。

そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

イエスさまは私たち一人ひとりにも「何をしてほしいのか」とおっしゃっていると思います。イエスさまを信じて、イエスさまと共に歩む。また教会に、まだクリスチャンではない方でも、「来よう!」と来始めて、そんな中で、「どうしていいかわからないけど、何か光があるし、温かさがあるし、なんか喜びがあるし来よう!」と感じてここに来てくださっている方もいらっしゃるかと思いますが、でもイエスさまは「何をしてほしいのか」と聞いてくださっていますので、私たちはそれに応答しなければならないと思います。「はい、リバイバルを起こしてほしいです!」と、本当に心からそのような叫びをし続けていきたいと思います。

使徒の働き十八章九節から十節には、

ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。

とパウロに向かって主が励ましの言葉を語ったというのが、この聖書の言葉です。本当に主のみ声に聞いて、恐れないで語り続け、叫び続け、そんな歩みで、これからの歩み、主に期待して、「そうだ!私を通して私の遣わされているその場所に主の栄光は現される!」と信じ切って歩んでいただきたいと本当に心から思います。

エレミヤ書四章十二節を開きたいと思います。

これよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今、わたしは彼らにさばきを下そう。

この「彼ら」というのは、神さまではない神々、悪霊どもです。私たちの人生、また私たちの国や世界を暗闇に陥れる存在のことです。その存在に裁きを下すために、主がもっと激しい風を吹かせようとされているので、そのために、私たちはイエスさまから新しい剣をいただかなければなりません。もっと激しい風が吹いてきて、もっと主の働きが本当に始まるわけですから、もう一度剣を手にしなければなりません。「一振りの剣」という賛美歌がありますが、ここでも歌いましたし、ミュージックスクールでも歌いましたし、家庭集会ではそれを歌うと、子どもたちが作った踊りまであって一緒に歌ってくれるという、そういう歌ですが、ひと振りの剣が磨かれ、主の手によって渡されているというのです。