ちょっと試してみましょうか。「イエスは主です!」と高らかに宣言できたら、あなたとともに聖霊さまがおられます。「イエスは主です!」と心からリアルに告白できることは、聖霊さまの働き以外のなにものでもありません。

では宣言してみましょう。「イエスは主です!」もう一度、宣言しましょうか。「イエスは主です!」インターネットで礼拝に参加されている方々も一緒に声を合わせて、「イエスは主です!」

 

聖霊さまが今、ここにおられます。ということは、二千年前の聖書の記録が現代にも適用されるはずです。

聖霊さまに支配されるためには、満たしを求めなければなりません。神さまは、ご自分の働きを制限されていますから、我々自ら、求めなければならないのです。

しかし求める者には、必ず、訪れてくださいます。

 

新城教会の七十年の歴史を見てみても、そのことがわかります。初め、私の父と母は、津具村で困難な中、真剣に聖霊さまを求めて祈ったそうです。当時彼らは、椎茸の乾燥小屋の、ボロ屋に住んでいたらしいのですが、ある夜祈っていると、ゴーッという響きがして、家が揺れて、彼らは異言を語り、預言をし、やがて実現するであろうリバイバルについて教えられたというのです。そんなところから、この教会は始まりました。

続いて初代に救われたクリスチャンたちが祈り始めました。この辺は製材所だったのですが、丸太の間に若者たちが入り込んで、休憩時間に真剣に祈っていると、彼らにも聖霊が注がれました。

先日、「百円玉に誘われて」という田中政男先生のドラマが放映されましたが、当時、ある人に預言が与えられて、「政男、浦川に伝道に行け!」と告げられたそうです。浦川なんて、どこにあるのか知らなかったそうですが、調べてみると、飯田線沿線に浦川という駅があることに気づいて、なんと、結婚した翌週に彼らは、宣教に出て行ったのです。

その時に働いた霊は、新約聖書の時代に働かれた、同じ神の聖霊であったはずです。

その後も、私たちの中に聖霊さまは繰り返し、訪れてくださいました。50年近く前、子どもたちの祈祷会に聖霊が訪れられました。その結果、彼らは大人になってから献身し、主に仕えるようになりました。

 

そして一九九二年二月十三日、甲子園ミッションを目の前にして、愛知県民の森で祈っていた時、激しく聖霊さまが私たちに訪れてくださいました。私はその様子を「主が立ち上がられた日」という本の中に記録しました。あの夜も、ゴーッという音がして、県民の森の広場にある小屋が揺れました。続いて聖霊さまが風のように来られて、そこで祈っていた人たちは突然、硬いコンクリートの床の上に倒されてしまいました。私は初め、何が起こったのか分からなくて、びっくりして祈祷会を中止したほどです。

しかしそれは聖霊さまの訪れでした。それに引き続き、新約聖書に記録されている、霊的戦いが起こり、暗闇の力が打ち砕かれ始めたのです。

これらの体験は、何を意味するのでしょうか。聖書に書かれている事柄は、事実であることを示しています。イエスさまは歴史上実在したメシア・救い主であることを証明しています。現代においても、同じ聖霊の働きがあるという事は、二千年前の記録が事実であり、現代にも、聖霊の働きは継続していることを現しています。

教会は聖霊さまを真剣に求め、真剣に祈らなければいけないのです。

 

さて、聖霊さまと共に歩む秘訣は何でしょうか。それは「悔い改め」です。「聖霊」とは、「聖い霊」と表記します。聖さの中に住んでおられる霊です。汚い所でも構わず住むことができる霊を、「悪霊」と言います。悪霊に支配されたかったら、罪を犯し続けて歩めばいいのです。そうしたら悪霊は地獄に導いてくれます。

しかし聖霊さまと付き合うためには、日々、悔い改めが必要です。

今日は九月二十六日ですが、聖書暦では「第七の月の二十日」にあたります。
 明日は、二十一日です。二十一日にはハガイを通して、ゼルバベル、ヨシヤに主の言葉が告げられた日です。ハガイ書の預言をまた読んでいただきたいと思います。

しかし第七の月に行われる最も重要で、中心的な祭りが、第七の月十日に行われる「ヨムキプール」です。

 ヨムキプールには、二頭のヤギを用意して、一頭は主のため、もう一頭はアザゼルのために生け贄として捧げます。それは、民族的な悔い改めの日です。日本語では、「大贖罪の日」と呼びます。

 二頭の山羊の意味は、悔い改めには二つの領域が存在することを表しています。二つの方向の条件を満たすことによって、悔い改めは成立します。

 多くの場合、悔い改めとは、「神に対するもの」と理解されますが、そうではないことを表しています。なぜ、アザゼルのために生贄が必要なのか。アザゼルとは、荒野に住む悪魔を意味します。悪魔にも生贄を差し出さないと、旧約時代、罪の赦しは成立しないとイスラエルは理解していたのです。

罪とは、神の前に罪人とされるだけでなく、サタンと結ばれる契約という領域があることを示しています。罪はサタンとの間に契約書が交わされる行為なのです。

それゆえに、契約書を破棄する為の生贄が必要であったたわけです。イスラエルの民はそのことを神から教えられて、ヨムキプールの日に実行したのです。

この旧約的悔い改め、ヨムキプールは、主イエスの十字架と復活の影となっています。

コロサイ人への手紙二章を見ますと、二章十四節、

 

『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。』

 

とあります。新約時代の私たちは、二頭の山羊を必要としません。なぜなら、イエスさま自らが、神への生け贄と、アザゼルの山羊となってくださったからです。人類最後の生贄となってくださいました。ゆえに、十字架と復活によって、悪魔と結ばれた不利な債務証書は破棄されたのです。

私たちが十字架の贖いを信じて、イエスは主であると告白するならば、神の前だけでなく、悪魔と結ばれた契約書も全て、破棄されるのです。

このような理解の元に悔い改めるならば、聖霊さまは必ず、来てくださいます。

 

テサロニケ人への手紙第一、五章二十三節、

 

『来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』

 

悪魔は人が「霊と魂と肉体」の三つの領域によって構成される生物であることをよく知っています。ゆえに、霊・魂・肉体を通して契約を結び、人を奴隷としようとしています。奴隷とされる、最たる霊的原因は「偶像礼拝」です。偶像礼拝は、悪魔との最も強い契約行為となります。

モーセの律法によれば、偶像礼拝は、三代・四代の呪いが発生する罪であると告げています。三代目と四代目の上に偶像礼拝の結果が現れるという意味です。

 しかしイスラエルにおいては、一代目は、息子の世代となり、自分はゼロ世代となります。ということは、偶像礼拝の結果は、ひ孫と玄孫に現れるという事になります。

 偶像礼拝は、世代を飛び越えて結果が現れる契約です。私は偶像礼拝の契約を「世代間弾道ミサイル」と名付けました。どこからミサイルが飛んでくるのかわからないのが、偶像礼拝の恐ろしさです。

しかし私たちがイエスさまをキリストとして信じることにより、契約を無効にできるのは素晴らしい事です。

 

続いて魂においては、「憎しみ」が悪魔との契約になります。

エペソ四章二十六節、

 

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。』

 

怒りの賞味期限は二十四時間です。人間関係にトラブルがあったとしても、憎しみを持ち越さないことが大切です。その日のうちに解決し、許しの宣言をする事が重要です。

 

また、肉体を使って悪魔はうまく契約を結びます。それが不品行とか姦淫、すなわち、性的な罪です。性的な罪がはびこっている時代です。パウロはこう語っています。

第一コリント六章十六〜十七節、

 

『遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。・・・しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。 』

 

結婚とはどういうものか。二人が一つになる契約です。聖書の奥義は結婚にあります。聖く正しく結婚生活を送る時に、イエスさまと教会とが一体として結びつく、大きな祝福をもたらします。

 しかしその構図を悪魔は逆利用して、複数の契約を結ばせます。その結果、キリストと教会は夫婦に対応しなくなります。悪魔は人を、どこからでも攻撃を仕掛けることができるネットワークを手に入れることになります。性的罪は悪魔と結ばれる契約行為なのです。

しかし主イエスの贖いの故に、過去の契約を解くことができる事は、素晴らしいです。

 

悪魔は天の法廷で訴える存在です。しかし天でいくら悪魔が訴えたとしても、私たちはそれに対して「異議あり!」と申し立てるができるのです。
その結果、天で私たちは勝訴するのです。私たちが聖霊によって歩む時、悪魔に奪われたものが、二倍になって戻ってくると聖書は約束しています。

イザヤ書六十一章七節、

 

『あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。』

 

今まで失ったものも、二倍にして取り戻してあげます、という約束です。

 

今週は、聖霊さまを求めていただきたいのです。家で主の前にひれ伏して、主を礼拝してみてください。

家内の病気が発覚した時に、「毎日、会堂に行ってひれ伏し、涙を流してわたしに叫べ」と語られたような気がしたので、実行してみました。そうしたら、奇跡が起こり始めました。

聖霊さまの働きは、現実の世界に起こるものです。悪魔はなんとかクリスチャンが集まるのを止めさせたいのです。

「教会に行かなくたって、インターネットだけで礼拝できるよ。」と誘惑します。

しかしそれではいけないのです。それを習慣化させないで下さい。時には勇気を出して、教会という特殊空間に足を踏み入れて下さい。教会が礼拝の日常を取り戻すならば、結果として、社会も日常を取り戻すと信じます。なぜならば、私たちクリスチャンに、神は地の統治権を与えておられるからです。ですから主は、「勇気を出しなさい」と語っておられるのではないでしょうか。

 

先ほども少し触れましたが、今日は、第七の月の二十日です。明日は聖書暦においては、第七の月の二十一日です。この季節に語られた主のことばです。

ハガイ書二章四節、

 

『しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。‐‐主の御告げ‐‐エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。‐‐主の御告げ‐‐仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。‐‐万軍の主の御告げ‐‐ 』

 

『わたしがあなたがたとともにいるからだ。』これはイスラエルの民に語られたことばですが、聖霊さまと共に歩む者にはどうでしょうか。 ヨハネ十四章十七節、

 

『・・・その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。』

 

旧約聖書の出来事が、なんと、今の時代に、聖霊によって適応するのです。そのためには聖霊さまが必要です。

 

今週、勇気を出して、聖霊さまを真剣に求めましょう。その時、もう一度、新城教会に天が開かれ、主が訪れてくださるに違いありません。

七十年の間に、様々な領域を悪魔に奪われているかもしれません。しかし二倍にして主は戻してくださるはずです。回復と再建が起こされるはずです。

出エジプト記二十二章七節、

 

『金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。』

 

これはモーセの律法の中で、盗人が特定されたら、盗人は、盗んだものを、二倍にして戻さなければならないという規定です。

人生の中で、様々なものが盗まれています。真の泥棒とは誰ですか。それは、悪魔と子分たち、悪霊どもです。人生の良きものを盗んでいる存在を特定して、聖霊に満たされて悪魔に立ち向かうならば、奪われたものを二倍にして取り戻すことができるのです。