「70年の満ちた2021 〜回復と再建の年〜 今日は父の日・神の家族」

2021年6月20日(日)新城教会主任牧師 滝元順

エペソ人への手紙3章14〜16節

『こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。』

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!

第一部に続き、第二部の礼拝を持つことができ、感謝しています。まだまだ感染拡大が続いておりますけれども、少しは収まってきているようにも見えます。しかしオリンピック開催が決定されたとたん、感染者数が落ちていますので、不思議な感じがするのは私だけでしょうか。

神の家族に属することができて、私は本当に感謝しています。なぜならば一昨年、家内が病になりまして、やはり一人ではなかなか持ちこたえられないところがあるのですが、神の家族の祈りによって毎日支えられていることを実感しています。

教会は、何もない時はあってもなくてもいいような感じかもしれませんが、何か問題が起こると、「クリスチャンで良かった!」と実感します。なぜならば、キリストのからだ全体の恵みを体験できるからです。

先週も語られていましたが、早天祈祷会が最近始まりまして、土曜日に集まって祈っています。そこには「祈りのカード」がありまして、カードに書かれていることを祈っています。

このカードには新城教会に属する、すべての兄弟姉妹の名前が記されています。今、新城教会に登録されている方々は、海外も含めて、七百名以上の方々が登録されているのですが、一週間に一度は、あなたのことが祈られています。私のことも祈られています。毎週、それらを手に取って、責任を持ってお祈りさせていただいています。神の家族は素晴らしいです。

 

私も、家内が病気になって、今までできていたことができなくなりました。教会には私以外、五名の牧師たちがいますが、彼らが自主的に、この教会の未来のために、いろいろ話し合って提案もしてくださっています。最近は、二名の男性スタッフも含めて、八名体制で礼拝メッセージが語られています。毎週、様々な視点と角度からみことばが語られます。それはたいへん大切だと思います。私一人だけなら、偏りますけれど、キリストのからだの中で、それぞれ語ることによって、豊かなみことばの説き明かしがあります。

そんな中に、瀧川充彦スタッフと鈴木陽介スタッフも加わっているのですが、彼らを、「副牧師」に任命したらいかがですか?という提案がありました。それは良いアイディアだと思って、そうさせていただきたいと思います。コロナが収まったら、任命式みたいな事ができたらと思います。それからインターナショナルのほうで働いてくださっているイレーネさんも、今までタイトルがなかったので、これから「伝道師」というタイトルで頑張ってもらうことになりました。新城教会のからだが、さらに豊かになっていることを、心から感謝します。

 

今も祈りの中にありましたが、七月九日に「ヘブンズ・アイスクリーム&コーヒー」が再オープン致します。ネットで参加されている方々、こんなに新城教会は変わりました。店内はこのようになりました。

これは、かなり手作りの部分もありまして、知恵を出し合いここまで完成しました。大変すばらしい施設になっています。やがて皆が集まって、主を礼拝できる日をめざして、準備しています。神の家族が一つとなって礼拝できたら嬉しいです。

でもこうして、インターネットを通したり、様々な方法を駆使して、主をほめたたえることができ、心から感謝しています。

 

先ほど読んでいただきました聖書の箇所は、エペソ人への手紙です。これはパウロが語った言葉ですが、パウロは、独身を貫いた人物であったと言われます。「彼は結婚していたのでは・・・」と言う説もありますけれど、「独身の賜物がある」と彼自身が言いましたから、多分、独身であったと思われます。ある意味、天涯孤独と言いますか、寂しさも体験したのではないかと推測します。彼には家族はなかったかもしれないけれど、彼の持っていた家族観は、一般とは違い、幅広いものでした。私たちもパウロと同じ家族観を持てたら、どんな境遇でも、幸せに過ごせるのではと思います。

振り返ってみれば、私も一般的な家族を体験しましたけれど、あっという間に、過ぎ去ってしまいました。この世の家族は素晴らしいですが、いつか変わります。皆様の中でも、すでに「主人は亡くなりました」、「家内は亡くなりました」という方もおられると思いますし、「私は独身で過ごしています」とか、「私は離婚をして、寂しさの中にあります」という方もおられるかも知れません。地上の家族には、様々な形態があります。

パウロも孤独な生活であったかもしれませんが、彼は家族に関して、大きな理解を持っていました。どんな理解を持っていたのかというと、エペソ人への手紙三章十四〜十五節、

 

『こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。』

 

と語りました。彼の家族観は、天を貫く大きなものでした。彼は、家族の本元は天にある、と理解していました。

今日は父の日ですが、父親とは「家長」です。天に家長がいて、地上の家族とつながっている事を理解していました。天の家族に繋がりながら、宇宙規模の家族を形成していると、彼は理解していたのです。

この世の家族は、どんどん移り変わりますが、永遠に変わることのない天上の家族、神の家族に繋がっている事実を知る時に、心は暖かくなります。どんな状況の中にあっても、私たちを見守って下さっている、家長である父なる神さまがおられるのです。

 

同時に、パウロはこんな言葉も語っています。同じエペソ人への手紙六章で、

エペソ六章一〜三節(新改訳2017)、

 

『子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。』

 

ここで「父と母を敬う」ことに関して述べています。もしもご両親が健在ならば、今日は特に父の日ですから、お父さんに労いの言葉とか、何かプレゼントを差し上げたらいいんじゃないでしょうか。とか言って、私も子どもたちに要求しているのかもしれませんが。

父と母を敬う事は、大切な聖書の戒めです。しかし東洋一般、日本人がこの言葉に出会う時、儒教的な枠組みで理解してしまう危険性があります。「やっぱり、先祖を敬わないとね・・。」と考えます。しかしこれは間違いです。

聖書の世界観は、生きている両親を敬いなさいという教えです。亡くなったご両親などに関して、尊敬心を持つことは大切です。しかし礼拝してはいけないのです。彼らは神ではないからです。神が死者の魂をしっかりと管理してくださっています。

聖書の世界観で父と母を敬うという戒めを守るならば、幸せになり、人生の日々が長く続くのです。

 

しかしここに不思議なことが書かれています。「これは約束を伴った、第一の戒め」とパウロは語っています。戒めとは、モーセの十戒を指しているのですが、「父と母を敬え」は、十戒の第五戒にあたります。「わたしのほかに、何ものをも神としてはならない。」が第一戒です。にも変わらず、パウロはこれが第一の戒めであると語っているからです。

どういう意味かと言いますと、十戒の一から四戒までは、神との関係、五から十戒は人との関係です。ゆえに、人との関係という枠組みの中では、父と母を敬うは、第一の戒めになるからです。

しかし同時にパウロは、父と母を敬うとは、「天上の家族」を意識して語っていると思われます。

家族とは、通常、父がいて母がいて、子どもたちがいるのが一般の家族構成です。

ところでクリスチャンになって、少し違和感を感じるところに、例えば『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』という、有名なみことばですが、ここから「父なる神さま」と「子なるイエスさま」のイメージはありますが、「お母さんってどこにいるの?」という印象があります。私たちは、「父なる神さま」と呼びかけることはできるけれど、「母なる神さま」と呼びかけることができるかというと、何となく、違和感を感じるわけです。天の神さまは離婚したのか?と、クリスチャンではない人たちは言います。

 

二十世紀の後半に、ウーマン・リブという運動が始まり、フェミニストという人たちが現れました。彼らはキリスト教を男性優位の宗教として批判しました。そんな中から、左寄りのリベラルな神学者も現れて、一般のキリスト教に対して批判的な書物を著しました。メアリー・デイリーという女性の神学者は、「父なる神を超えて」という本を著して、「神が男性であるなら、男性が神である」と皮肉的な言葉を語っています。「男性によって支配される世界。お前らが神か!」と批判を込めているわけです。キリスト教って案外、父と子は強調されますが、母不在な感があります。なぜ母親が強調されないのでしょうか。そこには歴史的な理由があります。

しかしながら聖書をよく読んでいきますと、聖書は母性的な領域、女性的な部分を大変重要視している事がわかります。唯一の神には、男性的な部分も、女性的な部分も、家族としても、父親としても、母親としても、子どもとしても、「完璧な要素」がその中に備わっているのです。

男・女として、家族としての完璧な姿と要素は、天にあるという事です。それは唯一にして、三位一体の神の中に見出すことができるのです。

 

創世記一章を見ますと、神が人間を創造された経緯が記されています。ここを読んでみますと、不思議なことが書かれています。創世記一章二十六〜二十七節(新改訳2017)、

 

『神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。』

 

神さまは唯一であると聖書は告げていますが、ここでは「われわれ」と複数形が使われています。『我々の似姿に』これはどうしてかと言いますと、「三位一体なる神」を表していると言われます。ヘブル語の用法としては、主語が複数でも、動詞が単数だと言うのです。そこで三位一体なる神を表し、ご自分に似た姿として、人を創造されたというのです。そこで創造された存在も複数であり、一体の存在である「男と女」でした。これは何を意味するのかと言うと、三位一体の神の中に、男性的完璧さと、女性的完璧さ、家族としての完璧さ、子どもとしての完璧さが備わっている事を意味します。それが「天の家族」です。

パウロはそのことを理解し、掴んでいました。「父と母を敬え。」とは、もちろん地上の父・母も意識していますけれど、究極的には、天のファミリー、天の家族を指し示していたのです。彼は独身であったのですが、天の家族に属しているという安心感のゆえに、一人ぼっちではなく、豊かな人生を歩むことができたと言えます。

またパウロは、ガラテヤ人への手紙四章二十六節で、

 

『しかし、天にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。』

 

と語っています。天のエルサレムとは、「神の国」を表します。神の国の中に、母性的な概念は全て含まれ、完璧な自由度をもっているというのです。

もちろん神には性別はありません。性別を創造された方です。神は、性別はなくとも、最高の男性像、女性像、家族像、子どもの姿をお持ちです。その完全さが天の家族を形成しており、私たちはその家族の一員なのです。

三位一体なる神の中に、母性的な、女性的にも完璧な領域があるのです。