「70年が満ちた2021 回復と再建の年 伝道礼拝 永遠のいのちを得るために パート3」

2021年8月15日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ルカの福音書9章25節

『人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。』

皆さん、おはようございます!

今も懐かしい映像を見させていただきました。ロンさんも、うちの息子も、本当に若かったですね。月日はどんどんと過ぎ去っていきます。また、最近は雨も降るし、新型コロナも急拡大して社会に大きな不安があります。しかしこんな時にこそ、救い主イエスさまに目を留めて歩んでいきたいです。

 

息子の挨拶の中にもありましたけれど、家内のためにお祈りいただき、心から感謝致します。元気にしているのですが、特に今週は、ちょっとした山場ですので、お祈りいただきたいと思います。先週、CTを撮りまして、今週の水曜日にその結果が出て、それを元にして、外科のほうで手術するということで動き始めます。それが今の医学のゴールみたいで、今のところ、その路線にあります。是非とも、祈っていただきたいと思います。

 

今日読んでいただきました聖書の箇所は、大変有名な箇所です。『人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。』とあります。全ての生物は、常に命をかけて生きています。

今日は八月十五日で、ある意味、日本においては重苦しい日でもあります。なぜなら、一九四五年八月十五日、太平洋戦争が終結し、八月十五日はその記念日だからです。

正午に行われた玉音放送という、天皇の放送をもって、全ての戦闘が終了しました。天皇の命令で戦争が始まり、天皇の命令で戦争が終わったという、おかしな国です。

三百十万人が四年ほどの戦いで命を落としました。全体では、アジア諸国や米軍を含めると、一千万から二千万人、多く見積もる学者によると三千万とも言われます。そして今、アメリカと日本は最大の友好国と言うのですから、信じられない話です。

八月十五日は、各地で慰霊祭などが行われており、戦争で死んだ人たちに対する追悼の日でもあります。

同時に、八月十五日は多くの地域で「盆」の期間です。先に亡くなった先祖たちに思いを馳せ、日本においては先祖を神として拝む日でもあります。先祖に感謝の思いを持ったり、尊敬心を持つことは大事だと思います。先祖なくして、私たちはいませんから。

しかし先祖は決して、神ではないのです。ですから、先祖を神として拝んではいけないというのが、聖書の教えです。

盆行事とは、仏教と儒教のハイブリッドな習慣です。先週のクリスチャン・リバイバルチャンネルで、盆について詳しくセミナーをさせていただきました。そちらのほうも、ご覧頂きたいと思います。

仏教の基本的世界観は輪廻転生です。仏教は本来、墓は必要ありませんし、先祖の霊もいないことになります。なぜなら、死者の霊は全て輪廻し、生まれ変わるからです。

一方、儒教の基本的世界観である祖先崇拝は、墓を大切にし、先祖の霊が人間界に共に住んでいるという前提です。この二つを足し算することは、根本的に無理です。しかし矛盾があっても、それらを曖昧にするのが日本人の特徴です。

 

死後どうなるのか?生けるものは、すべて死を避けることは出来ません。しかし、日本人は死後に関する回答を持っていません。

以前にもお話しさせていただきましたが、人は死後、どうなるのか。一般的に日本人は、この三つの考えではないでしょうか。

 

「①死んだら全てが終わり、消えてしまう。」

「②輪廻転生して生まれ変わる。」

「③先祖の霊たちに加わって憑依する。」

一つを選んだら、他は選べない概念です。しかし日本人は、三つをごちゃまぜにして、わざと答えを出さないでいるかのようです。本来、最も大切な死後について、正しい結論を出さなければならないはずです。

 

クリスチャンは、死後に関して、どのような考え方なのか。それは、「④永遠のいのちに生きる。」です。

クリスチャンとか、クリスチャンではないに関わらず、何の前情報もなく、四つの死後の世界を提示され、「どれか一つを選んでください。」と言われたら、誰でも間違いなく、④番目の「永遠のいのちに生きる。」を選ぶはずです。

しかしこの素晴らしい、永遠のいのちに、日本人は見向きもしないのは、悲しい現実です。私たちクリスチャンは、永遠のいのちに生きることを、堅く信じる者であります。

 

人は何か善行をしたり、功徳を積んだら、死後の世界もなんとかなるのでは・・・というような淡い期待も持っています。それで行われる行事が、「盆行事」でもあります。現代人にとって「善行と功徳」とは、「先祖崇拝」であると考えています。

先ほども語りましたが、先祖を敬う気持ちは悪いことではありません。しかし日本で「善行、功徳」と考えられている、墓参りや仏壇を拝む行為とは、はたして何なのかを、知らなければいけません。

 

祖先崇拝は、仏教の儀礼ではありません、儒教の儀礼です。儒教は孔子が創始者ですが、彼はどのような人物であったのか、それは、先祖の霊と称する存在を呼び出す霊能者の一員でした。そして日本の祖先崇拝とは、儒教が編み出した、先祖のふりをした、暗闇の勢力を呼び出す手法であり、単純化された降霊術です。

墓に行って手を合わせるのはなぜでしょう。それは人の魂は陰・陽によって構成されていて、死ぬと魂の陰・陽が分離し、陽は雲、陰は骨の中に、それぞれ分れて住むというのが儒教の考えです。先祖崇拝では、分離した霊魂を墓石に呼んで合体させ、合体した魂に対して礼拝するのです。魂を合体させる呪術とアイテムが「線香と水」です。韓国では、水ではなく酒が使われます。墓場で先祖の霊に手を合わせる習慣は、「霊よ、降りて来い!出て来い!」いう、降霊術と共にあるのです。

そこには誰が降りてくるのか、聖書によれば、先祖ではなく、先祖のふりをした悪霊です。聖書の情報がなくても、人々はそのことを、何となく感じ取っています。

 

カナンの地に入る前、イスラエルに対して、神は次のように忠告されました。申命記十八章十一〜十二節、

 

『呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行う者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。』

 

イスラエルがカナンの地に入った事により、先住民であったカナン人たちは追い払われたのですが、なぜ、カナン人たちは追い払われたのでしょうか。そこには理由があります。彼らが、「呪文を唱えたり、霊媒をしたり、口寄せをしたり、死人に伺いを立てる」という行為を行っていたからだと神は言われました。

これを日本に適用するならば、良かれと思ってなされている祖先崇拝が、私たちに幸せをもたらすどころか、不幸を招く行為であるということです。

 

イスラエルの初代の王、サウルは初めは唯一の神に仕えていました。しかしだんだんと神から離れて、最終的には神の声が聞こえなくなったのです。その時、彼は何をしたのかと言うと、第一歴代誌十章十三〜十四節、

 

『このように、サウルは主の信頼を裏切った不信の罪のゆえに死んだ。彼は主のことばを守らず、霊媒に伺いを立てることまでして、主に尋ねることをしなかった。そのため、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。

 

偉大なイスラエルの王、サウルが王位を追われ、殺された理由は、霊媒によって自分の恩師サムエルを呼び出したことにありました。聖書を読みますと、霊媒師により、まさしく死んだはずのサムエルが呼び出されたのです。

しかし、それをよく分析すると、サムエルではないように思われます。この箇所には、二つの解釈説があります。本物のサムエル説と、偽サムエル説です。私は偽サムエルであると理解しています。しかし仮に、本物のサムエルが出てきたとしても、初めに神が「死人に伺いをたててはならない。」とはっきり、告げられていますから、死人を呼び出す行為は、やってはいけないのです。

いずれにしても、それを行ったゆえに、サウルは王位を追われ、殺されてしまいました。ですから、祖先崇拝は、決して先祖を敬う行為にはならないのです。先祖のふりをした、死の霊どもを呼ぶ行為です。儒教が編み出した「降霊術」であることを、知らないといけないのです。

 

人は、人生の時間軸の延長線上に、地上から出て行く日が来ます。私も今年七十歳で、太陽の周りを、七十周もしたのか・・と感動しています。家内の病気のことなどで、死に関して真剣に考えなければならないことが、数多く起こっています。

人が死ぬ瞬間って、どんな感じなのか・・と、時々考えます。死ぬ瞬間について私は、海外旅行に行く出国の列につくようなものではないかと考えています。最近は海外旅行に行けませんが、出国したら、必ず、次に入国する国は決っています。「アメリカに行きます。」「韓国に行きます。」「ペルーに行きます。」と、ある国を目標にして出国します。

しかし多くの人たちが、地球から出国するという、重大な出来事に関して、目標と答えを持っていないのは、大きな問題です。

けれどもクリスチャンは回答を持っています。聖書は、はっきりと、具体的に、事実を語っています。誰が語ったのかと言うと、預言者ではなく、「イエスさまご自身」によって語られています。

 

新約聖書に有名な「ラザロと金持ち」というストーリーが出てきますが、そこでイエスさまが、はっきりと死後の世界について語っておられます。ですから、これは確実な情報です。やがて地球から出る時、誰でも、その事実を確認することでしょう。

ルカの福音書十六章十九節、

 

『ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。』

 

イエスさまはよく、たとえ話を話されました。しかし、これはたとえ話ではありません。実際に起こった出来事です。なぜならば、『ある金持ちがいた。』と断言されているからです。また、「ラザロ」という、個人名が出ています。ということは、いつの時点かは分かりませんが、この二人の人物は実在したと言うことです。イエスさまは神の子ですから、二人の死後についても、ご存知だったわけです。

このストーリーは誰に語られたのかと言うと、『ある金持ちがいた。』と語られているように、金持ちに代表されるグループに語られたストーリーです。

 

このストーリーをどのように理解したら良いのでしょうか。よくありがちな、「金持ちは悪だ!」みたいに考えがちですが、そうではありません。

イエスさまの時代、すでに経済的格差が社会に生じていたのです。富裕層と貧困層の格差はエルサレムでは特に深刻でした。

貧困層のラザロは、ただ単なる貧困ではなく、身体に障害があったみたいです。なぜなら、金持ちの家の前に「寝ていた」と訳されていますが、「置かれていた」とも訳すことができると言うのです。彼は身体に障害があったゆえに、毎日、誰かに運んでもらい、金持ちの門前に置かれていたのです。それで時折、金持ちがくれる食物で命を繋いでいたと考えられます。

同時に彼は、病も持っていました。重い皮膚病で、皮膚は膿でただれていて、犬が舐めていたと記されています。最悪の人生です。これで人生が終わり、全てが消えたのならば、人生ほど不公平なものはありません。

 

現代も同様で、富裕層と貧困層の色合いが、くっきりと見える社会になりました。今回もコロナ禍の中で、その色合いが、さらに深まった気がします。

二年前まで私は海外に行く機会がよくありました。そこで、とてつもない金持ちと、貧困層を時々目にしました。

数年前、リバイバルミッションで、インドのナガランドという場所で、集会を行いました。それで何回か、私は準備の為にナガランドに行かなければなりませんでした。

ある時、友人のインド人の方と一緒に、ニューデリー経由でコヒマという、ナガランドの州都に行きました。往路でニューデリーに一泊することになりました。