すると、驚くべき不思議なことが起こりました。
「恐れないで、語り続けなさい」という主の言葉は、単にパウロ個人を励まして終わったわけではありませんでした。この言葉に従った結果、コリントの教会の誕生と成長がもたらされ、さらには新約聖書全体の年代を確定させるという、世界史的な出来事へと繋がっていったのです。
聖書には、様々な歴史的な背景が詳細に記されていますが、中には「クリスチャンたちが自分たちに都合よく書き残したおとぎ話ではないか」と疑う人もいるかもしれません。しかし、聖書に書かれている環境や年代が、後世の考古学的な発見と見事に一致したならば、それは単なる作り話などではなく、紛れもない「歴史的事実」であることが証明されます。
そもそも、かつてキリスト教を激しく迫害していたパウロ自身が、回心して命がけでイエス・キリストを擁護する立場に変わったこと自体が奇跡のような出来事です。それに加えて、彼の取った行動が歴史学や考古学の観点からも裏付けられたとすれば、それは聖書全体の信憑性と歴史性を強固に担保することになるのです。
この出来事の続きは、このように記されています。
使徒の働き 18章12節から13節
ところが、ガリオがアカイアの地方総督であったとき、ユダヤ人たちは一斉にパウロに反抗して立ち上がり、彼を法廷に引いて行って、「この人は、律法に反するやり方で神を拝むよう、人々をそそのかしています」と言った。
パウロが幻による励ましを受け、1年6ヶ月間しっかりと腰を据えて福音を伝えている間に、彼が以前から恐れていた事態が現実のものとなりました。ユダヤ人たちが一斉に反抗して立ち上がり、パウロを法廷へと引きずり出し、彼は絶体絶命の危機的状況に直面したのです。
聖書は、それがいつの出来事であったかを、「ガリオがアカイアの地方総督であった時」とはっきりと記録しています。これが、新約聖書が私たちに伝える具体的な歴史的背景です。
実は、それからずっと後になった1905年頃のことです。フランスの考古学チームがギリシャのデルフォイという場所にある神殿を発掘していた時、9つの大理石の破片からなる碑文を発見しました。
驚くべきことに、そこにはローマ皇帝クラウディウスがデルフォイの市民に向けて書いた書簡の写しが刻まれていたのです。そこには、「私の友人でありアカイアの総督であるガリオから最近報告がありましたが・・」とはっきりと記されていました。
この碑文を他のローマの歴史資料と突き合わせて調査した結果、ガリオという人物がアカイア地方の総督を務めていた期間は、「紀元51年から52年」の、わずか1年間だけであったことが判明したのです。
つまり、このたった1年という短い期間の間に、聖書に記されているユダヤ人たちの騒動が起きたということです。
もしあの時、パウロが恐れをなしてコリントの町から逃げ出していたら、どうなっていたでしょうか。この騒動自体が起きず、ガリオが裁判官としてパウロを裁くこともありませんでした。さらには、1900年ほどの時を経て、聖書に記されている記録が紛れもない歴史的事実であったと証明されることもなかったのです。
あの夜、もしパウロが逃げていたら、私たちが今日手にしている聖書の信憑性は、ここまで確かなものとして担保されていなかったかもしれません。彼が踏みとどまってくれたおかげで、今や私たちは聖書を正しい歴史の記録として受け取ることができるようになりました。神様は、悠久の時を超えて、ご自身の計画のために働かれる方だということです。
さて、私たちの新城教会も今年で創立76年を迎え、新城の地で伝道が始まってから70年という長い歴史があります。
最初に私の父がこの地に教会を建てようとした時、神様から与えられた御言葉が、まさにこの「恐れないで、語り続けなさい」という言葉でした。この地域は本当に古くからのしきたりが強い場所で、最初は反対者ばかりでした。当時のこの地域でクリスチャンになるというのは、まさに至難の業だったのです。
最初にクリスチャンになった数人の男性たちは、村人たちから無理やり外へ引っ張り出され、宴会の席で床に押さえつけられて、口をこじ開けられて酒を流し込まれるという、ひどい迫害事件まで起きました。それでも彼らは、流し込まれた酒を吐き出し、「俺はイエスを信じて生きていく!」と命がけで戦い抜いてくれました。もし、彼らがあの激しい反対の中で信仰を諦めていたら、今の新城教会は存在していません。
私たちの人生には、本当に色々な戦いがあります。しかし、どんな困難の中にあっても、決して諦めてはいけません。たとえ今すぐには実を結ばず、花が咲かないように見えたとしても、神様はご自身の時の中で、必ず最善の機会を備えておられるからです。聖書にはこんな御言葉があります。
コリント第二 6章2節
神は言われます。恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助ける。見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
昨日の7時間にわたる祈祷会と賛美の中でもお話ししたのですが、皆さんは「神様が一番最初に創造されたもの」は何だと思いますか。「初めに神は天と地を創造した」と創世記に書かれていますから、皆さんに質問したところ、「天です」「地です」と色々な意見が出ました。
しかし、神様が一番最初に作られたのは、目に見える被造物や空間ではないのです。
古代の偉大な神学者であるアウグスティヌスは、その著書『告白』の中で、「時間そのものが神の被造物である」と明確に定義しています。すなわち、神様がこの世界をお造りになる前には「時間」というものは存在しておらず、世界と時間は同時に始まったのだと主張しているのです。「初めに神が」という言葉の通り、すべてには始まりがありました。
神様ご自身は、時間の外側、つまり永遠の中に生きておられる方です。その神様が一番最初に作られた枠組みこそが「時間」なのです。
時間を作ると、そこに「空間」が生まれます。「光あれ」と神は言われましたが、光は1秒間に30万キロという猛スピードで走ります。光が走るためには、果てしない空間が必要ですし、走るための「1秒」という時間も必要です。ということは、神様は天でも地でもなく、何よりも先に「時間」をお造りになったということになります。
そして私たち人間は、この「時間とセット」で作られた存在です。人間は時間の中で創造され、時間は人間の存在の枠組みそのものであり、決して切り離すことのできないセットなのです。ゆえに、私たちが救いを受け取ることができるのは、「時間の中に生きている間に限られる」ということです。
人は皆、必ず歳をとっていきます。その理由は、私たちが時間とセットで作られているからです。アインシュタインは、時間は決して不変のものではなく、物理的な法則の支配下にあることを発見しました。時間も空間も、すべては神様が作られた素晴らしい作品です。人間はこの時間とセットで作られているため、10年、20年と時が経てば肉体はどんどん変化していき、老化を止めることは誰にもできません。
しかし、この「時間とセットで作られている」ということこそが、私たちが救いを得られる最大の理由なのです。
悪魔や悪霊どもは元々は天使でしたが、彼らは罪を犯したその瞬間に、永遠に地獄へ行くことが決定されてしまいました。人間も同じ被造物ですが、人間は罪を犯しても悔い改めれば赦されます。すると「悪魔も同じ被造物なのだから、救いに含まれる余地があるのでは?」と疑問に思う人もいるかもしれません。
しかし、悪魔や悪霊は「時間が始まる前」の永遠の世界で罪を犯したため、罪を犯したその瞬間が、同時に裁きの瞬間であり、判決の瞬間になってしまったのです。
しかし、時間の中にいる私たちには、今、「救いを受け取るための猶予の時間」が与えられています。それこそが私たちの「人生」です。この与えられた時間内に決断をすれば、私たちは救いを得ることができるのです。
だからこそ神様は、「恵みの時に、わたしはあなたに応え、救いの日にあなたを助ける。見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」と語りかけておられます。
ここで言う「時」というのは、ギリシャ語で「カイロス」、つまり特別な意味を持つ特定の瞬間を表しています。一方「救いの日」というのは、24時間流れていくような日常の時間です。私たちの人生が何十年続くかは誰にも分かりませんが、その流れる時間の中で、特定のカイロス、つまり「神の時」に出会い、その瞬間に福音を受け取ることができたなら、人は救われるのです。
人間が時間とセットで作られたがゆえに老化していくのは避けられない事実ですが、見方を変えれば、それは大いなる恵みでもあります。命ある限り、神様に立ち返るための猶予が残されているからです。もし、まだ主イエス・キリストを信じる決断をしていない方がいらっしゃるなら、まさに今が救いの時であり、カイロスです。決断を先延ばしにしてはいけません。
時間も被造物の一つであり、神様は天地を創造された時、同時に、人間の救済と回復のための舞台として「時間」を設けられました。
「死」を迎えるということは、この時間という舞台の外に出ることを意味します。この肉体を脱ぎ捨てた瞬間、私たちは時間という枠組みの外側へと出ていくのです。そこは永遠の世界ですから、すべてが「即決」です。死んだ後に救いを受け取ろうとしても、そこにはもう決断するための「時間」が存在しないのです。
中には「死後にも救いのチャンスがある」と主張する教会もあるようですが、聖書の教えから見ても、また物理学的な時間の概念から考えても、それはあり得ないことです。
かつて悪魔が罪を犯した時に即決であったのと同じように、死後の世界は即決の世界です。亡くなった後で、残された者が先祖をいくら拝んでも、状況を変えることはできません。
だからこそ、「今、命があり、チャンスがある時間内に福音を伝えてください」というのが、聖書が私たちに語りかける切実な叫びなのです。そしてそれは、私たち自身の心からの叫び声としても、人々に伝えていかなければならないものです。
一方、人間はこの世界を管理する者として立てられました。サタンによって損なわれてしまった被造世界を、私たちの信仰によって奪還し、再び神の支配の下へと回復させていくという尊い使命が与えられているのです。
人類の歴史というのは、単なる文明の発展の歩みではありません。それは、被造世界の回復をめぐる壮大な霊的戦いそのものです。主を信じる者たちが霊的な戦いを全うし、この世界の時間と空間が終わりを迎えた時、同時に数え切れないほどの被造物もまた、主の御手の中へと勝ち取られるに違いありません。
先ほど申し上げたように、日本は長く「徳川空間」という見えない力によって支配されてきた国です。江戸時代に培われた共同体文化が脈々と受け継がれているがゆえに、人々は空気を読み、周囲を恐れて、なかなかクリスチャンになることができません。しかし、だからこそ私たち伝える者は、あのパウロのように決して恐れることなく、しっかりと腰を据えて、忍耐強く福音を伝え続けなければならないのです。
徳川幕府はおよそ260年もの間続きましたが、これは世界的に見ても極めて稀に見る長さでした。世界の歴史を見れば、王位継承をめぐる内乱や争いが絶え間なく繰り返されるのが常ですが、徳川幕府は大きな内戦を起こすことなく、長く平和で安定した社会を実現しました。
しかしその裏で、五人組や寺請制度といった徹底したシステムを使ってキリシタンを激しく迫害し、「日本に絶対にクリスチャンを発生させない」ための国づくりが200年以上にわたって続けられたのです。
そのような、キリスト教に対して極めて特殊な環境にある国に生まれながら、皆さんはクリスチャンになりました。これは、皆さんが非常に特殊で、選ばれた存在であるという証拠です。皆さんは、分厚い徳川空間が打ち破られた結果として、今日ここに座っておられるのです。
普通に生きているだけなら、日本人の9割9分以上が今も徳川空間に支配されています。そんな中で、皆さんが主を信じることができたのはなぜでしょうか。それは、過去の誰かの熱心な祈りがあり、命がけの霊的戦いがあり、賛美の力によってその暗闇が打ち破られた結果に他なりません。皆さんは、特別に選ばれた神の勇士なのです。