2026年7月26日(日)新城教会主任牧師 滝元順
イザヤ書 40章 6節~8節
6 「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
7 【主】の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
8 草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
ペテロの手紙 第一 1章24・25節
「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。
皆様、おはようございます。ハレルヤ。
また、皆様に心からお祈りいただき、中部地方の「GoToミッション」を無事に終えることができました。どこへ参りましても、本当に素晴らしい集会となりました。現在、日本の教会の中では、このような伝道集会がなかなか開催されなくなってしまいましたが、どの場所においても素晴らしい働きができまし
皆さん、おはようございます。今朝もこうして、皆さんと共に主を礼拝できる恵みを心から感謝しております。
昨日は、7時間にも及ぶ連鎖祈祷会と賛美の時を持ちました。本当に素晴らしい恵みの時でしたね。祈りと賛美は、間違いなく私たちの時間と空間を変える力を持っています。これからも、賛美と祈りに満ちあふれた教会として、共に成長していきたいと心から願っています。
さて今週は、教会の若者たちが韓国へと旅立ちます。皆さんにおささげいただいたおかげで、彼らを韓国へと送り出すことができます。
なぜ、彼らを送り出すのでしょうか。それは他でもありません、日本の、そしてこの教会の未来のためです。私たちの新城教会も、あと10年、20年と経てば、今とは全く違った景色になっているはずです。その時、教会の歩みは今の若者たちの手に委ねられます。もし彼らが祝福されなければ、この教会が存続していくことは難しいでしょう。ですから私たちは、若者たちのために祈り、彼らを支え続けなければならないのです。彼らが韓国の地で祈り、聖霊の油注ぎを豊かに受けて帰ってきてくれれば、私たちの教会はさらに大きく前進できると信じています。
今日お読みした聖書の箇所には、「人は皆、草のよう。その栄えは皆、野の花のようである」と記されています。本当に、人生というのは一瞬です。あっという間に過ぎ去ってしまいます。
私事ですが、この8月5日を迎えますと、私は75歳になります。先日、市役所から「後期高齢者医療制度の保険料」のお知らせという手紙が届きました。その保険料の高さを見たとき、思わず唖然としてしまいました。まるで「75歳を過ぎたら、早く死んでくれ」と言わんばかりの金額です。もう少し国も、お年寄りたちに優しくしてくれても良いのではないか、と思ってしまいます。
しかし、これが「人生」というものなのだと実感させられました。私自身の花もすでに散り、今はもう草も枯れていく段階に入っているのだなと、ひしひしと感じています。
けれども、聖書は私たちに素晴らしい約束を与えてくれています。人は草花のように儚い存在であっても、「主の言葉は永遠に立つ」と宣言しているからです。「これが、あなた方に福音として宣べ伝えられた言葉です」とあるように、私たちが信頼する神の言葉は、永遠に変わることがありません。私たちには「永遠の世界」があるのだと、確かな約束が与えられているのです。
もし、この福音を受け取ることができなければ、人は皆、草のように、花のようにただ枯れ果てていくしかありません。けれども、主を信じる者たちには「永遠」がはっきりと保証されています。
だからこそ、教会は声を大にして「叫ばなければ」ならないのです。何を叫ぶべきでしょうか。それは、「人間の儚さという現実」と、それに対する「永遠の福音」です。この二つを力強く叫び、人々に伝えていく必要があります。そして同時に、それを受け継ぐ次世代をしっかりと育てていかなければならないのです。
今日の午後からは「数えてみよ主の恵み」の集会が持たれます。今回で7回目を迎えます。単なる思い出話の会のように感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではありません。過去に主が、この教会で一体何をしてくださったのか。その大いなる御業を忘れずに、心から感謝を捧げるための大切な働きです。ぜひ、お一人でも多くの方に参加していただきたいと願っています。今日はフルーツが食べ放題だという噂も聞いております。
また、今日は長年にわたりカンボジアでご奉仕されてきた宣教師、服部ご夫妻が素晴らしい証しをしてくださいます。岡本正広さんが、何ヶ月も前からこの日のために祈り、備えてくださっていた賜物だと思います。
さて、いつも申し上げていますが、日本の教会が置かれている状況は、世界的に見ても大変厳しいものです。アジアの主要国におけるキリスト教の受容率を調べてみますと、日本は最低レベルの「1%弱」に留まっています。これは本当に考えられない数字です。フィリピンなどはカトリックも含めて約93%ですし、すぐ隣の韓国でも約3割の人々がクリスチャンです。
日本だけがこれほど低いことには、必ず何らかの理由があるはずです。ということは、日本の教会はその「理由」をはっきりと見つけ出し、それを取り除くために働かない限り、私たちに明日はないということです。
今、日本の教会はまさに危機に瀕しています。2023年に発表されたデータがありますが、これは2020年、つまりコロナ前の状況をまとめたものです。ですから、コロナを経た今は、もっと深刻な状況になっているはずです。AIに分析させても、「日本のプロテスタント教会は今、危機が進行中であり、このままでは未来がない。今こそ立ち上がれ」という答えが返ってきます。私たちが本気で立ち上がらないと、本当に大変なことになります。
コロナ前、日本にはおよそ7,925の教会があったそうですが、コロナ禍の間に1,000近くの教会が減少したとも言われています。教会員数は全国で約58万人。そして、礼拝の出席者数が30人以下の教会が、全体の約6割を占めているそうです。さらに15人以下となると28.7%に上ります。つまり、小規模な教会が大多数を占め、しかも衰退が加速しているのが現状です。
また、牧師の平均年齢は62.2歳だそうです。私のような75歳以上の牧師が全体の15%を占める一方で、35歳以下の若い牧師はわずか3.5%しかいません。私たちはこの厳しい現実をしっかりと直視し、教会として本気で立ち上がらなければならないのです。
では、私たちは何をすべきでしょうか。それこそが、今日のテーマである「叫べ」ということです。主イエス・キリストの福音を叫ばない限り、私たちに未来はありません。
人は誰でも、クリスチャンであろうとなかろうと、等しく儚い人生を生きています。普通であれば、ただ枯れて死んで終わりです。しかし、イエス・キリストを信じるならば、誰もが永遠の福音を手に入れることができるのです。未来の日本のために、他人事として済ませるのではなく、私たち一人ひとりが立ち上がっていかなければならないと教えられます。
それにしても、どうして日本では「1%弱」というひどい状況が長く続いているのでしょうか。一言で言えば、そこには明確な原因があるからです。
日本人はよく、「和を重んじ、空気を読み、周囲の目を気にして、なかなか自分のライフスタイルを変えようとしない」と言われます。皆さんも、これが日本人の本来の性質だと思っているかもしれません。しかし、実はそうではないのです。これは、江戸時代に徹底的に埋め込まれた「共同体文化」の結果に過ぎません。その時代に培われた文化が、現代の私たちにも色濃く受け継がれているのです。日本人の根底には、江戸時代から続く「徳川空間」とでも呼ぶべき見えない縛りが存在しています。
この「徳川空間」こそが、日本人がクリスチャンになれない最大の原因です。
徳川時代、五人組や寺請制度といったシステムが確立され、人々は265年もの間、厳しく支配され続けました。その結果、本来明るかったはずの日本人の心は暗く沈み、常に周囲の目を気にし、同調圧力に屈するようになってしまったのです。そして、人とは違う行動をとることを極端に恐れるようになり、特に「キリスト教」に対しては、心の中に大きな恐れを抱くようになりました。
皆さんも、ご自分がクリスチャンになる前のことを思い出してみてください。教会に対して、どんなイメージを持っていましたか。「色々な宗教があるけれど、キリスト教だけはちょっとね」「クリスチャンにだけは、ならない方がいい」。そんな思いが、気がつくと知らないうちに心に組み込まれていませんでしたか。それはまるで、日本人のDNAに書き込まれているかのようです。
もちろん、学校でそんなことを教わったわけではありません。徳川時代の徹底した洗脳が、時代を超えて今もなお強い影響を与え続けているからです。その結果として、多くの人々が福音から遠ざけられているとすれば、これはもう「霊的な束縛」以外の何物でもありません。
徳川時代に日本中に設置されたこの「徳川空間」に飛び交う、いわば「徳川Wi-Fiルーター」のようなものを私たちが祈りによって壊さない限り、人々は福音の電波を受信することができないのです。
さて、使徒の働きの18章9節から11節を開きますと、あの偉大な使徒パウロでさえ、心の中に大きな恐れを抱いていたという生々しい現実がレポートされています。
パウロという人物がいなかったら、キリスト教が世界にここまで広がることはなかったでしょう。彼によって、現代のキリスト教の基礎が作られたと言っても過言ではありません。しかし、そんな大いなる使徒パウロでさえも、恐れを感じていたと言うのです。
そんなパウロの恐れの中へ、ある夜、主イエスが幻によって現れ、語りかけられました。
聖書には「夢」や「幻」という言葉が出てきますが、夢というのは寝ている間に啓示が与えられることであり、幻というのは、意識がはっきりと目覚めている覚醒時に主が現れて語られることを指します。ですから、夢に比べると、幻の方が啓示としての強さはずっと強いわけです。
使徒の働き 18章9節から11節
ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」そこで、パウロは一年六か月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。
パウロがどこでこのような体験をしたのかと言いますと、それはギリシャの「コリント」という町でのことでした。このコリントという町は、おびただしい偶像で溢れかえり、汚れた罪が渦巻くような場所でした。
さすがのパウロも、以前アテネに行った時になかなか福音を受け入れてもらえませんでしたが、ここコリントでも「これは厳しいかもしれない」と感じていたようです。特に、現地のユダヤ人コミュニティから、パウロはものすごい圧力を受け、激しく迫害されていました。そのため、あの精神力の強いパウロでさえも恐れを抱き、「この町からは、早く去った方がいいかもしれない」と考え始めていたようなのです。
しかし、まさにそのような絶望的な状況の中で、主が幻によってパウロの前に現れました。そして、「恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない」と力強く語りかけられたのです。
これは、先ほどイザヤ書で読んだ御言葉や、第一ペテロで語られていた「叫べ」というメッセージと全く同じテーマを、主から直接語りかけられた瞬間でした。
私たち日本人の中にも、パウロと同じような恐れがあります。周囲の目を気にする恐れです。しかし主は私たちにも、「恐れてはいけない、語り続けなさい。私があなたと共にいます。あなたを襲って危害を加える者はいないのだから」と、励ましてくださるはずです。
この「恐れないで」という言葉ですが、ギリシャ語の原文を直訳しますと「恐れるのをやめなさい」という表現になっています。つまり、パウロがすでに恐怖におののいていたことが、はっきりと分かるのです。
パウロは非常に強い信仰を持った人でしたが、この時ばかりは、激しい反対や迫害の中で確かに恐れを感じていました。しかし、主のこの言葉によって彼は思い直し、逃げ出すことをやめました。そして、コリントの町に1年6ヶ月もの間、しっかりと腰を据えて福音を伝え続けたのです。