2026 残された時を、神のみこころに生きる!
Shout ~叫べ!~

前回もお話ししましたが、日本にはいわば「徳川空間」というWi-Fiが飛んでいます。ですから、誰もがその徳川空間のWi-Fiを受信してしまうのです。会議などでも周囲を見渡し、何を語るべきか、どういう位置関係にいるべきかを探ってしまいます。日本中に飛んでいる徳川空間のWi-Fiを知らないうちに受信し、そのような行動をとってしまうのです。私たちはこの徳川空間を神の国の空間に変えるため、この空間を打ち破らなければなりません。

そのことを教えられ、この町のために祈るようになって35年になります。この町の徳川空間が破られればどうなるでしょうか。ここが原点なのですから、日本全体に広がっていくはずです。徳川空間のサーバーは新城市にあるのではないでしょうか。若い方なら理解していただけると思います。新城市にある徳川空間のサーバーで戦い、それを打ち破れば、日本全国に張り巡らされている電波は遮断されるのではないかと思います。

私たちは何を叫ばなければならないのか。聖書は「何と叫びましょうか」と問い、「人の虚しさ」について語らなければならないと教えています。私たちの人生は本当に虚しいものです。

先週の日曜日まで、私はこの地域のGoToミッションでご奉仕をさせていただきました。中部地方の様々な教会を回らせていただき、協力関係の中で集会を持てたことは本当に感謝でした。先週の日曜日は非常に多忙でした。土曜日は鈴鹿で集会があり、終わったのは夜の10時半頃でした。宿泊先は岐阜県の可児市でしたので、三重県の鈴鹿から可児まで移動し、ホテルに入ったのは夜の11時半でした。そこから入浴や翌日の準備を済ませ、眠りについたのは午前1時半頃でした。

そして、朝6時半に朝食をとらなければなりませんでした。7時半までに教会に入らなければなりませんと言われました。9時から第一礼拝、11時から第二礼拝があり、音響などの準備があったからです。7時15分に出発し、7時半に教会に到着すると、なんと私たちが一番乗りでした。教会の方々もまだ到着していない時間帯でした。

しかし、可児の教会は非常に元気な教会で驚きました。第一礼拝にはご年配の方々を中心に70、80名が集い、第二礼拝では全員が入れ替わって若い方々が70、80名集うという大変熱心な教会でした。そこの牧師先生も昔から存じ上げている方で、リバイバルミッションと深い関わりがあり、大いに恵まれました。
集会が終わるとすぐに移動し、今度は小牧市で午後3時から同じ集会を行いました。なんと私は、先週の日曜日は1時間バージョンのメッセージを3回も語ったのです。少し疲れましたが、本当に恵まれた集会となりました。

最後の集会を小牧でさせていただきましたが、小牧の教会も大変恵まれている大きな教会で、ご年配の方も多くおられました。しかし、その場所に立って、私は非常に複雑な思いを抱きました。なぜなら、4年前の2022年7月10日、私と家内が共に奉仕をしたのがまさにこの場所だったからです。これが、地上において私たち夫婦が一緒に奉仕をした最後の機会でした。そのわずか数ヶ月後には、彼女は天に召されてしまったからです。

まさしく「人は草のよう、野の花のようである」と痛感しました。そこの教会の方々もご年配の方が多く、同じように天に帰られた方も少なくありませんでした。その教会の牧師先生も、先に天に帰られていました。そのような現実の中で、人間にとって一番重要なものは何なのかを深く考えさせられます。

私はこのGoToミッションでお話しする際、常に2つのことを語ります。一つは「人の儚さ」、もう一つは「人生の中で一番重要なものは何か」ということです。この新城教会では復習になりますが、人間にとって一番大事なものは「宗教」です。宗教は人類の誕生とともに生まれ、どの時代、どの地域、どの民族の社会においても消滅したことがありません。

日本人にとって「あなたの宗教は何ですか」と尋ねられると、「強いて言えば仏教かな」と答える程度かもしれません。しかし、海外に行って自らの宗教を答えることができないと、信用を失ってしまうというお話を以前もしました。
宗教とはどのようなものか。それは「死の先に何があるのかを問う営み」そのものです。多くの宗教が存在しますが、どの宗教も必ず死後の世界について教えています。つまり宗教とは、死の先に何があるかを突き詰める営みに他なりません。宗教を信じれば幸せになれるとか、生き方が上手になるといった側面もあるかもしれませんが、結局のところ、死の先に何があるかを問わなければならないのです。

そして宗教とは、人類が死を超えるための「結び目」そのものです。やがて私たちは死を迎えなければなりませんが、自らのロープだけでは死を乗り越えるには不十分です。天からロープを下ろしてもらい、結び目を作ってそれを乗り越えていくのです。「宗教(レリジョン:Religion)」という言葉は、ラテン語の「レリジオ(結び目)」から来ています。果たして私はどのような宗教を結び目にして、やがて迎える死を乗り越えていくのか。これは私たちにとって最も大きな課題です。

今日ここにおられる方々のほとんどはクリスチャンでしょうから、「結び目はイエス様です」とはっきりと宣言できると思います。しかし、もし本日来られた方の中で「まだ結び目がはっきりしていない」という方がいらっしゃれば、ぜひ明確にしていただきたいのです。

現在の日本の葬式の宗教別分布を見ると、仏教が9割を占めています。結婚式は教会のスタイルで行うことが多いのに、葬式となると9割が仏式であるということは、日本人は結び目を「仏教」にしているということです。結び目が仏教であるということは、仏教が差し出している死後の世界へと旅立っていくということです。キリスト教式の葬儀はたった1%に過ぎません。これは日本のキリスト教人口を反映しているのだと思います。

私たちが日本人に叫ばなければならないのは、「仏教という結び目で大丈夫ですか」という問いかけです。この結び目で死後を迎えようとしているわけですから、本当に仏教で大丈夫なのかと本気で叫ばなければなりません。
仏教の死後の世界は「輪廻」ですから、人間の世界を出ていくと、残された5つの世界のどこかに当てはまることになります。どこへ行くのでしょうか。少しスリリングで、ロシアンルーレットのようで恐ろしいところがあります。

以前もお話ししましたが、この地域の近くは曹洞宗が多く、その中で語られている死後の世界について記された『葬儀経典』というものを手に入れて読んでみました。そこにはこう書かれていました。

「死亡の後、報土(ほうど)に赴くまでの準備期間が四十九日とされています。この間、家族はもちろん、親類縁者は喪に服し、故人の冥福を祈り、故人が地獄の苦を離れ、浄土に昇れるよう、追善供養に心掛けなければなりません。」

つまり、残された5つの世界のどこかに行くという以前に、今人間界にいる者は「まずは地獄へ行く」ということです。仏教の手引きがはっきりとそう語っているのですから、仏教を結び目にすれば、まずは地獄へ行くことになります。

今は盆の時期です(この近隣は1ヶ月遅れて8月になりますが、全国的には7月です)。盆とは「先祖が地獄から帰ってくる」のを迎える行事です。ここでもはっきりと、死者が地獄へ行っていることを宣言しています。仏教を結び目にしていれば、地獄へ行くことは決定しているのです。経典はこう続きます。

「家族のみならず、親族も殺生や歌舞を慎み、追善供養の実が上がるように努めます。あなたの読経供養によって、故人の報土が安楽になるのです。心を込め、追善供養に心掛けてください。」

夏に蚊を1匹殺しただけでも殺生になります。歌舞を慎むとありますが、葬儀の後にうっかりカラオケにでも行こうものなら、もうアウトではないでしょうか。死んだ故人には何の権限もなく、家族や親族が一生懸命四十九日を守ってくれたら地獄からの脱出劇が叶うかもしれないというわけです。経典には「中陰の葬儀及びこれに伴う追善供養により、故人の往生先が決定されます」と記されています。

日本人の9割がこのような結び目を作っているのです。同じ国民として、「果たしてこの結び目で良いのか」と私たちは叫ばなければならないのではないでしょうか。

それに引き換え、キリスト教が教える死後の世界はどうでしょうか。「死後すぐにパラダイスに移され、先に行った家族や友人と共に幸せに生きる」のです。こんなに素晴らしいことはありません。

聖書の中に、世界で一番運の良い男の話が記されています。それは、イエス様と共に十字架につけられた二人の強盗のうちの一人です。聖書において、強盗には「レーステース(λῃστής)」という言葉が使われており、単なる強盗ではなく、武装した盗賊や反乱分子を指す言葉です。当時イスラエルはローマに支配されていましたが、その中でも極悪人を表す言葉だそうです。つまり、イエス様と共につけられた強盗たちは、死刑に処せられて当然の人物たちでした。
イエス様は冤罪で何の罪もないのに十字架につけられましたが、二人の強盗はイエス様に向かって悪口雑言を浴びせかけていました。しかし途中で、一方の強盗(伝統的には右側の強盗と言われますが聖書にその記述はありません)が、「イエス様、あなたが御国に入られる時には、私を思い出してください」と言いました。その時、イエス様は「まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます」と語られました。

この強盗は何の努力も修行もしていません。ただ「イエス様、あなたが御国に入られる時には、私を思い出してください」と願っただけです。それに対してイエス様は、「あなたは今日、私とともにパラダイスにいます」と宣言されたのです。私はこの言葉を読むたびに、イエス様が真の救い主であることが分かります。もし自分がイエス様の立場ならどうでしょうか。悪口を浴びせかけてきた相手に、最期になって「天国に入れてくれ」などと虫の良いことを言われても、絶対に絶対に入れてやりません。「何を言っているのか。舌の根も乾かないうちによく言えたものだ。地獄のどん底に落ちろ」と言ってしまいそうなものです。しかしイエス様はこの言葉を語られました。イエス様が救い主である証拠です。

実は、キリスト教の救いとは「恵みによる救い」なのです。聖書には「あなたがたが救われたのは、恵みによるのです」と記されています。そして「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と約束されています。だからこそ、プロテスタント教会が教える死後の世界は、「死後すぐにパラダイスに移され、先に行った家族や友人と共に幸せに生きる」と断言できるのです。

キリスト教の救いは、恵みそのものです。「恵み」という言葉は一般にはあまり使われず、『アメイジング・グレイス』の歌詞などで知られる程度で、「お恵みください」といった少し否定的なイメージを持たれることもありますが、これは「何の代価を支払うこともなく、神様からの完璧な祝福を受け取ること」を意味します。
死ぬ間際であっても「イエス様、私のことを覚えてください」という一言でパラダイスに入れられるというのが、聖書の救いの条件なのです。こんなにも素晴らしい死後の結び目があるのに、皆さんがそれを叫んで伝えないとすれば、それは罪ではないでしょうか。だからこそ、「真剣にこのことを叫んでください」というのが神様の声なのです。私たちにはそれを聞き、叫ぶことができます。

今週の土曜日には無料のコンサートが開催されます。まさに恵みの機会です。そこに新しい方々をお連れしていただけるなら、私はこの恵みの福音を語りたいと思います。日本人は日本の空間の中で生きており、知らないうちに仏教を結び目に仕立て上げられ、気づけば地獄に行くことになってしまいます。自分で選択しているのですからどうしようもありません。しかし、その結び目を解いて天国へ行きましょうと、皆様には是非とも叫び声を上げていただきたいのです。これは一人一人に任された責任だと思います。今回のコンサートに多くの新しい方が来てくださることを心から願っています。