2026 残された時を、神のみこころに生きる!
~あなたの頼っている神は、本当にあなたの味方ですか?~

2026年8月23日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ローマ人への手紙5章7節、8節

7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。

8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

 

ハレルヤ。
モンゴル語で「こんにちは」という挨拶は「サインバイヌー」と言います。皆様からの熱いお祈りに支えられ、この度のモンゴル宣教ツアーが祝福され、無事に終了したことを心から感謝致します。私たちのチームは、昨夜、11時半頃、新城に無事に戻りました。参加した全員が元気な姿で戻ることができたことを、重ねて心から感謝致します。

モンゴルの国土は日本の約4倍の広さがあります。そして、日本では1平方キロメートルあたりに300から350人ほどが住んでいますが、モンゴルに行くと、同じ面積になんとたったの2人しか住んでいない環境です。人口350万人ほどの国です。「地球上にもこのような場所があるのか・・」と、実際に足を運んでご覧になると良いのではないかと思います。

日本の環境が決して普通ではありません。日本はある意味で、非常に特殊な環境を持つ国だということを、現地に行くと身をもって深く感じさせられます。改めて心から感謝します。

さて、本日読んでいただいた聖書の箇所について、ここでもう一度振り返ってみたいと思います。ローマ人への手紙五章七節から八節の箇所です。

7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

キリスト教の神様は、一体どのような神なのかということについて、ここではっきりと述べられています。イエス様が十字架に架かられた際、二人の強盗が共に十字架につけられたことについては、以前にもお話ししました。この二人の強盗は正真正銘の犯罪者であり、十分に死刑に値する人物たちだったわけです。しかしながら、イエス様は全くの無罪であり、冤罪によって十字架につけられたのです。

この二人は悪事を働いてきた者たちでしたから、死の直前に至るまで、イエス様に対してありとあらゆる悪口や雑言を浴びせかけていました。しかし、最後の最後になり、一人の強盗の心境に大きな変化が訪れたのです。「このイエスという男は、どうも普通の人ではない。もしかすると、巷で噂されているメシヤ、救い主なのではないか・・」と感じたのでしょう。人間というものは、究極的な状況に立たされると、真実を見つめる気持ちになるものです。

そして、彼は何と言ったでしょうか。
「イエス様、あなたが御国に入られる時には、私のことを思い出してください」とお願いしたのです。この男もまた、自分の人生が誇れるものではなかったことを深く自覚していましたから、まさか自分が死後にイエス様が行かれるであろうパラダイス(天国)に行けるなどとは、微塵も考えていなかったはずです。彼がリクエストしたのは「天国に入れてくれ」ではなく、ただ「私のことを思い出してくれ」という非常に控えめな言葉だったわけです。

やはり人間は、究極的な死の場面に遭遇すると、走馬灯のように自分の過去の行いが脳裏に浮かんでくるのでしょう。「自分はあのような罪深い人生を送ってきたのだから、天国に行くことなど絶対に不可能だ。パラダイスなど望むべくもない。けれども、この聖なるお方が天国へ行かれた時、私のことを少しでも思い出してくださったなら、それだけで私は幸せだ・・。
「・・そういえば、十字架で隣にいた強盗の一人が『思い出してくれ』と言っていたな」と、イエス様がふと思い出してくださればそれで十分だと、そのような謙虚な心境だったのだと推測します。

しかしなんと、その期待を大幅に超え、イエス様は彼に対してこのようにおっしゃいました。「誠にあなたに言います」。聖書において「誠に」と記されている言葉は、完全なる真実であり、間違いがないことを意味しています。「あなたに言います。あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」と、はっきりと語られたのです。

これこそが、まさにキリスト教の救いの核心だと言えます。私たちの信じる神様は、本当に限りない愛を持っておられるお方なのです。その事実を深く理解していた使徒パウロが、ローマ人への手紙の中でこのように書き記しました。
「しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は、私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」と語っているのです。

「罪人であった時」という言葉の、最も究極的な姿を示しているのが、イエス様と共に十字架につけられたこの強盗の一人ではないでしょうか。伝統的には右側の強盗だと言われていますが、聖書に明記されていないため詳細は分かりません。しかし確かなことは、何の努力も、修行も、奉仕もできなかったこの強盗が、「私のことを思い出してください」と真実の思いをイエス様に告白した瞬間に、死後パラダイスへ行く約束を与えられたという事実です。これこそが、神様の究極の愛を如実に表している出来事なのです。

今日、私たちはこのように教会へ通っていますが、中には「教会の神様も、怖い神なのではないか」と誤解している方もいらっしゃるかもしれません。特に日本やアジアの文化圏においては、「神とは恐ろしい存在であり、罰を与える」という概念が根強く残っています。そのため、クリスチャンになった後でも、神の究極的な愛について100パーセント理解することが難しいと感じる部分があるかと思います。しかし、私たちはその点について、しっかりと認識を改めておく必要があります。

次に、エペソ人への手紙の二章五節をお読みします。

5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

キリスト教における救いとは、自分の修行や努力によって得られるものではありません。100パーセント、神様からの「恵み」による救いなのです。このような素晴らしい愛の神様に仕えることができるのは、本当に幸いで素晴らしいことです。

しかしながら、神の愛は、決して人間だけに向けられたものではありません。なんと、神が創造された被造世界すべてに対して、等しく共通する愛を注いでおられるのです。今回、モンゴルの大自然に直接触れさせていただき、「神の愛は人だけにとどまらず、神が創られた被造世界全体に豊かに及んでいる」ということを、まさに実体験として深く味わうことができました。

キリスト教の歴史を振り返ると、宗教改革以降の時代において、福音の対象が「人間だけ」に矮小化されてしまった傾向が見受けられます。現在でもその影響は続いており、「神の愛は人間にのみ注がれており、救いは人だけに限られたものだ」と考えられがちです。そして「自然界の他のものは、神が人間にプレゼントとして与えてくれたのだから、人間はそれを自由に搾取し、傷つけ、何をしても許されるのだ」というような誤った傲慢さが見られることがあります。しかし、聖書の語る真の救いとは、決して人間だけに限られたものではないことを知らなければなりません。

旧約聖書の詩篇145編の八節から九節には、次のように記されています。

8 【主】は情け深くあわれみ深く怒るのに遅く恵みに富んでおられます。
9 【主】はすべてのものにいつくしみ深くそのあわれみは造られたすべてのものの上にあります。

旧約聖書を読んでみると、神の怒りや裁きが強調されている箇所が多く、神様の愛は新約聖書になってから実現したかのように捉えられがちです。そのため、「旧約聖書の神様は、怒りに満ちた怖い神」と誤解されやすいのですが、決してそうではありません。この詩篇145篇において、はっきりとその誤解を解く真理が述べられています。

「私たちの主は情け深く、哀れみ深く、怒るのに遅く、恵みに富んでおられます」とありますように、罪を犯した人間に対しても、本当に気長に忍耐して待ってくださる神様です。さらに、そればかりでなく「主は全てのものに慈しみ深く、その哀れみは、造られたすべてのものの上にあります」と語られています。

旧約聖書は元々ヘブライ語で書かれましたが、初代教会の人々はそれをギリシャ語に翻訳して使用していました。それを「七十人訳ギリシャ語聖書(セプトゥアギンタ)」と呼びます。このギリシャ語の表現を見ると、初代教会の人々がどのような世界観を持っていたのかを深く知ることができます。

この七十人訳を通して該当箇所を読み解くと、「神様が感情の底から湧き上がる同情心と、具体的な救済の愛とを併せ持ち、それを人間だけでなく、神の作品である宇宙のすべてのものに対して豊かに注いでおられる」ということが鮮明に伝わってきます。ここで使われているギリシャ語の言葉は、直訳すると「造られたもの、神の働き、作品」を意味し、人間だけでなく、動物、植物、自然界など、神が御手をもって造られたすべての被造物を含んでいるのです。

今回、私たちはモンゴルの広大な大地を訪問しました。その景色は息を呑むほど美しく、このような壮大な自然を日本で目にする機会はなかなかありません。しかし、そこに生えている草木一本一本に対しても、神様は人間に注いでおられるのと同じ愛を、等しく注がれていることを強く感じさせられました。

今回は主に、ツェツェルレグという地域を中心に行動しました。昨年訪問したゴビ砂漠の荒涼とした風景とは対照的に、ツェツェルレグは緑豊かな場所でした。美しい森が広がり、温泉も湧き出ているなど、私たちが森を散策するだけでも、心が洗われるような素晴らしい場所でした。

では、この「救い」とは、全被造物にとってどのような意味を持つのでしょうか。コロサイ人への手紙の一章十九節から二十節に、このように記されています。

19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。

イエス様は私たちのために十字架に架かって死んでくださいました。この贖いは誰のためだったかと言えば、もちろん「私の罪の身代わりとなって死んでくださった」という事実が第一にあります。しかし、それは決して「人間だけのため」ではなかったということが、ここで明確に宣言されています。

コロサイ人への手紙一章二十節は、聖書全体の救済論が凝縮された非常に重要な箇所です。「その十字架によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったのです」と記されています。

もともと人間という存在は、神様が造られた被造物を管理する「管理人」としての役割を与えて創造されました。
もしも、集合住宅やマンションにお住まいであれば、その建物全体を管理する管理人さんがいるはずです。水回りが詰まったり、共有スペースの電球が切れたりなど、生活の中で問題が発生した際には、管理人さんに電話をすれば、すぐに駆けつけて適切に修理してくれるはずです。

神様がお造りになった被造物はあまりにも数が膨大であり、神様ご自身がすべてを直接管理されているかといえば、根源的な意味ではもちろんそうなのですが、日常的な管理の権限については人間に委ねたのです。人間は、神様からその管理を行うための「マスターキー」を託されました。

有能な管理人がマスターキーを持ち、一般の人が入れないような設備室に入って不具合を直すことができるように、人間にもまた、人間以外の被造物を適切に管理するための鍵が渡されていたのです。しかし残念なことに、アダムとエバが蛇に騙されて罪を犯した結果、その大切な鍵をサタンに奪われてしまいました。その結果、人間は被造物を正しく管理するどころか、逆に自然環境や被造物の脅威に振り回され、管理されるような弱い立場に陥ってしまったのです。