2025
神が働きを加速される年!
地のうめきを聞き、とりなす者となろう!

2025年3月16日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ローマ人への手紙 8章18~22節

“今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。”

おはようございます。ハレルヤ!
まずは、皆さんにお祈りしていただき、先週まで北陸地方をGoToミッションで回らせていただきました。感謝いたします。私は久しぶりに北陸地方に行くことができ本当に感謝でした。
先週は、東日本大震災から十四年の記念の日でもありましたが、能登におきましては、昨年の一月一日に大地震が起きました。そんなことも合わせて、今日は地のいやしのために働く者について、語らせていただきたいと願っています。

それに先立ち、二月に行われた聖会について、韓国から届いた証しがありますので、ご覧いただきたいと思います。チェ先生の奥さんの光世さんが、韓国チームを代表して、恵みの証しをまとめてくださいました。感謝の気持ちを持ちながら、お聞きいただきたいと思います。では、よろしくお願いいたします。

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ハレルヤ!韓国シャローム教会の蓮池光世です。二月に行われた合同聖会では、韓国から九十八名、モンゴルから六名、合わせて百四名が参加しました。全国から参加された日本の教会の方々と一緒に、ともに主を賛美し、礼拝し、寝食をともにしながら、本当に楽しい交わりの時を過ごすことができました。
詩篇一三三篇三節の「兄弟たちが一つになってともに住むことは、なんという幸せ、なんという楽しさであろう」というみことばをそのまま体験するような素晴らしい集会でした。

最終日の夜、県民の森の山で聖霊を求めて祈り、また世界のリバイバルのために祈りました。順先生が祈りを導きながら、「今、どこの国のために祈ったらよいか、聖霊さまに聞きましょう。一人ひとりに示してくださるので、それを受け取って祈りましょう」と導かれました。韓国から参加したある高校生の女の子は、「聖霊さま、示してください」と祈ったそうです。すると祈りの中で、一つの国旗が見えたそうですが、それがどこの国の国旗かわからなかったそうです。それで、わからないけれど、祈りの中で示されたその国旗の国の祝福を一生懸命祈ったと言っていました。
山を降りてから携帯で検索してみたら、それはインドネシアの国旗だったそうです。聖霊さまの導きを受けて、とても喜び、「インドネシアのために祈り続けます」と言っていました。モンゴルの砂漠ミッションにも行きたいと、早速貯金を始めたそうです。

今回、韓国から参加した約半数は、赤ちゃんから青年までの次の世代の若者たちでした。県民の森での三日間の集会の間、日本の教会から参加していたたくさんの子どもたちとすぐに仲良くなり、国を越え、言葉を越えて楽しく遊んでいました。主が力強く働いてくださって、次の世代が世界のリバイバルの熱い火を受け取り、立ち上がっていく姿を見ながら、とても感動しました。
今回は、韓国チームの中に北朝鮮から脱北してきた方々も参加されました。その中に、十四歳のときにたった一人で脱北し、中国で韓国人宣教師に助けられ、韓国に来て、今は子育てをしながら信仰生活をしている姉妹がいます。その姉妹は今回の聖会に参加し、帰国後に夢を見たそうです。駅にたくさんの人たちが宣教に出て行こうと集まっていて、自分も汽車に乗ったそうです。そこには自分の教会の人もいたし、他のクリスチャンたちもいたそうです。すると、その汽車がなんと北朝鮮に到着したそうです。その姉妹は十五年ぶりに故郷に帰り、とても嬉しかったし、十五年前に見ていた懐かしい風景が広がり、そのときとは違って家々からご飯を炊く匂いがしてきて、とても幸せだったと言っていました。「北朝鮮を知っている自分がみんなを案内するためにも、まず自分自身が北朝鮮のために祈り、福音を持って行く準備をしなければならない」という使命を、主が夢を通して与えてくださったようだと喜びながら分かち合ってくれました。いつか日本の皆さんも一緒に汽車に乗って、北朝鮮に福音を持って行く日が来たらいいなと思います。

ソウルと春川の韓国チームは、この聖会に参加するために何度か集まって、皆で祈り備えました。今、韓国は政治的な混乱の中にあり、大変な状況ではありますが、それでも韓国チームは集まるたびに、ただただ日本のリバイバルのために熱く祈り、備えていました。私は行く前から、韓国と北朝鮮のクリスチャンたちの日本に対する祈りと愛にとても励まされ、心が燃やされました。
春川の教会の約四十五名は、半年前から飛行機のチケットを予約し、今回の聖会を誰よりも楽しみにして準備していたのですが、なんと出発時にチケット予約のトラブルにより、来ることができなくなってしまいました。
しかし、主は肉の力ではどう見ても不可能にしか思えない状況の中で、紅海を分けるように道を開き、次の日の早朝に四十五名が飛行機に乗ることができ、日本に送ってくださいました。そして、すべての時間もタイミングも狂うことなく、予定通りに導いてくださいました。一緒にできたことは本当に主の奇跡でした。そして、ともに日本のリバイバルのために一つになって祈ることができ、とても感謝でした。これから主が新しいことをしてくださると信じます。

聖会では、毎日日本の教会の皆さんが美味しい食事を準備してくださり、また、この聖会のためにイノシシやシカの肉まで神さまが与えてくださり、霊肉ともに豊かに祝福してくださいました。日本の兄弟姉妹の皆さんが、本当に深い愛をもって仕えてくださったことを感謝します。これからもますますともに集まり、宣教の働きが前進していくことを期待します。ハレルヤ!
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どうもありがとうございました。光世さんの後ろの音は、家で飼っている鳥の鳴き声です。あの鳥たちは主を賛美するのです。賛美をしたり、みことばを聞いたりすると、あのように突然歌い出します。被造物とともに主を礼拝しているご家族です。
聖会で特に若い人たちに主が触れてくださったようですね。

さて、私は先週まで北陸の方を回らせていただきました。昨年の一月一日に起きた大地震の爪痕と、そのことに関して、いろいろお話を聞きました。
私たちが住んでいる愛知県は、北陸や能登半島とはそれほど離れていないです。直線で二百キロから三百キロの間にあります。
昨年の一月一日、みな正月気分でいるときに、突然マグニチュード七・四の地震が起こり、ある場所では震度七だったと言うのです。その地域に住んでおられる方々の話を聞くと、究極の体験で、話が止まらないのです。口々に「この世のものではなかった」と話されていました。私たちの地域から北へ上ったところで、そんなことが起こったのです。

十四年前に東北を大地震が襲いました。その時は詳細な報道がなされて、私たちは比較的詳しく実情を知ることができました。しかし、今回の能登半島の地震は、その後の復興もあまり進んでいません。能登半島からは人々が流出し、「行政が成り立たないのではないか」と心配されています。
ある地域では、あっという間に土地が隆起したと言うのです。なんと一分間に、四メートルも隆起したと言うのです。こんなことを人生のただ中で経験したら、価値観も何もかもすべて、一瞬にして変わります。

ある若い奥さんの住んでいた地域は震度七だったそうです。震度六までは聞いたことがありますが、七とはどのくらいなのか想像できません。ものすごかったそうです。
その時、幼い子どもが二人いて、「絶対に死ぬ」と思ったそうです。その母親はどのような祈りをしたかというと、「子どもたちが苦しまないで死ねますように」と祈ったそうです。自分はともかく、二人の子どもたちが苦しまないで安らかに死ねるようにして下さいと、祈ったと言うのです。
しかし、奇跡的に助かったと話されていました。これは一例に過ぎませんが、それぞれの方がそれぞれの体験をし、その後も、水害によって多くの人たちが犠牲となりました。

多くの人が言いました。「もしも神が本当にいるのなら、なぜこんなことをするのですか?」と。私は今回、そういう質問を何度か受けました。「神がいるのなら、なぜこんな悲惨なことを起こすのか?」「よりによって、一月一日に大地震だなんて、ひどい神だ」。
この問いにあなたなら、どう答えますか? なかなか厳しい質問を投げかけられました。

最近タイタニック号の話を思い出します。船内は楽しさ満載でした。しかし、氷山に衝突した瞬間、船内の幸せなど、瞬時的に消えてしまったのです。
ある意味で、日本という国は、タイタニック号に乗っているようなものではないでしょうか。もしも激しい地震が住んでいる地域に起きたら、その瞬間から生活は一変します。
先週、聖歌隊が聖歌三九七番を歌っていました。あれは関東大震災のときに作られた賛美であると言われます。「揺れ動く地に立ちて、なお十字架は輝けり」という歌詞です。
私たちは、揺れ動く大地の上で、それでもなお十字架を掲げる存在なのです。

「神は、なぜ、不完全な地球を創られたのか?」と問う人もいます。「神が全能ならば、地震や災害が起こらない地球を創造できたはずだ」と考える人もいるでしょう。特に日本は、常に自然災害と闘わなければならない状況にあり、苦しんでいます。
しかし聖書は、天地創造は「まだ完全には完成していない」ことを教えています。「はじめに、神が天と地を創造された。」と記されています。神は天と地を良いものとして創造されたのですが、悪魔が地に落ちてから破壊されました。
今、私たちはどのような世界に住んでいるのかというと、「天地創造から、新しい天と新しい地の創造の過程」に住んでいるのです。

聖書のゴールは、決して死後の世界ではなく、新しい天と新しい地が完成するその日がゴールです。そのただ中、ある意味で、揺れ動く大地の上に人は特別に、管理人として造られたのです。

創世記一章二十八節には、

“神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」”

と記されています。
「支配する」とは、人が勝手に被造物に手を出すことのように捉えがちですが、そうではありません。それは「管理する」という意味です。
人々を強権的に支配する暴君が現れたのは、バベルの塔以降です。創世記一章の時代は、神の秩序がまだありました。ですから、「生き物を支配せよ」というのは、人間が自然(被造世界)に対して、暴君のように振る舞うのではなく、管理人として生きるようにと、主は語られたのです。
これは、人類に与えられた、最も大きな仕事ではないでしょうか。それぞれ、様々な仕事をお持ちでしょうが、それ以上に、神が人類を創造した目的は重要です。それは何かというと、被造物の管理人としての役割です。

ローマ人への手紙八章十八節から二十二節を、順を追って読んでみたいと思います。

“今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。”

この世では、さまざまな苦難があります。しかし、やがて現れる、新しい天と新しい地と比べれば、この地上の苦難は取るに足らないとパウロは考えていました。
そして、一九節に、

“被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。”

ここでいう「被造物」とは、人以外の、神が創造されたものを指しています。神が造られたすべてのものは、神との会話のチャンネルがあるということです。無機質に見えるようなものでも、神によって造られたものはすべて、神とチャンネルがあって、人とは違う意思でしょうが、みな神に訴えているのです。
彼らはどのような思いを持っているのかというと、切実な思いで「神の子どもたち」の現れを待ち望んでいると言うのです。「神の子どもたち」と複数になっています。「神の子」ならばイエスさまのことですが、「神の子どもたち」、つまりクリスチャンを指しているのです。
すべての被造物は、神の子どもたち、クリスチャンが現れるのを、切実な思いで待っているというのです。皆さんの周りの被造物は、あなたが目の前に立ってくれることを切実な思いで待ち望んでいるということです。