2025
神が働きを加速される年!

2025年1月5日(日)新城教会主任牧師 滝元順

イザヤ書 60章21~22節
“あなたの民はみな正しい者となり、永遠にその地を所有する。彼らは栄光を現す、わたしが植えた枝。わたしの手で造ったもの。最も小さい者も軍団となり、最も弱い者も強国となる。わたしは主。時が来れば、速やかにそれをする。」”

 

ハレルヤ!皆さん、おはようございます。そして、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

十二月三十一日に、私以外の七名の牧師たちがメッセージを語りました。毎年、そのメッセージを預言的なみことばとして受け取っているのですが、そのみことば、プラス、私が今年、主からいただいたことばとを合わせて、皆さんに発表しています。
今年もそのメッセージをまとめましたので、ご紹介したいと思います。これを二〇二五年、この教会に、また一人ひとりに与えられた神からの指針として受け取りたいと思います。全てのメッセージは後日、印刷されて皆さんのお手元に配られます。まずは私が短くまとめたものを、メッセージ順に沿ってまとめたものを読ませていただきます。

【二〇二五年 預言的メッセージ】
二〇二五年、あなたの立ち位置を点検し、わたしがともにいない領域から勇気をもって抜け出しなさい。万物の創造者、支配者であるわたしに目を留め続け、与えられた信仰をさらに育み続けなさい。信仰の戦いは、激しい風が吹きつける終わりの時代にあります。わたしは全き平和をこの地にもたらすために必ず帰ってきます。

パウロは賜物をいくらかでもあなた方に分け与えて、あなた方を強くし、ともに励ましを受けたいと語りました。神はあなたに「賜物」という原石を預けています。ダイヤモンドも発掘された時点ではただの硬い石ころにすぎません。しかし、磨くことにより高価な宝石となります。同様に、あなたが預かった賜物を磨くとき、それは輝きを増します。
賜物とは、わたしのからだを建てあげるためのものであり、賜物を磨くとは祈りから始まります。預けられた賜物をただの石ころにしておいてはいけません。とことん磨き、一つ一つの器官として教会を建てあげるために用いなさい。

教会は神の愛があるところ、わたしが住む家です。あなたが強いとき、わたしは隅っこに追いやられます。気づかないうちに失敗し罪を犯す可能性が高まります。わたしが行ったように、弱い者のために自らの権利を放棄しなさい。それが主にある教会の営みであり、クリスチャンとしての生き方です。

かつてダビデは、戦いにおいて町から非常に多くの分捕り物を持ち帰りました。教会は今年の霊的な戦いにおいて敵の手から多くのものを勝ち取ります。

主の日は盗人のようにやってきます。今の天と地は滅びます。あなたはこの世と分かたれ、神の主権を認め、生き方をし続けなさい。
あなたには主の日の到来を早める役割が委ねられています。自分の思いや地上的側面から主を知ろうとするのではなく、神から見いだしていただけるよう、託されている領域に対して努力をし続けなさい。

神の賜物を再び燃え立たせなければなりません。再び燃え立たせるということは、以前は燃えていたが、今は冷え切ってしまったという意味です。神があなたに与えた賜物は臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。聖霊の力の語源はダイナマイトの爆発的な力、ダイナミックな力のことです。わたしの霊が働くとき、強い力が働きます。

二〇二五年は、豊かな収穫の年となります。豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。各領域で豊かに種を蒔く者になりなさい。良いことに豊かに種を蒔いていけば、良いものを刈り取ります。特に霊的生活面で豊かに種を蒔く者になりなさい。わたしとの関係を深める投資をしなさい。そうすれば、今年、あなたは豊かな主にある喜び、主の好意、あわれみ、そして聖霊の力を刈り取る年となります。

今年、わたしは今までの働きの速度を速めます。それに耐えられるよう、与えられた賜物を成長させ、神の軍隊である教会を聖霊によって強化しなさい。なぜなら、わたしの日が近づいているからです。

「最も小さい者も軍団となり、最も弱い者も強国となる。わたしは主、時が来れば速やかにそれをする。イザヤ書六十章二十二節」

今年のみことばを全体的に見渡しますと、賜物というテーマがあります。神から委ねられた能力をそのままにしないで成長させなさい!磨きなさい!というテーマがあります。

今年、私がいただいた聖書箇所は、イザヤ書六十章二十二節を中心とするものです。昨年は「大いなる年二〇二四」というテーマで、「主よ。遅れないでください!」というテーマで、一年間メッセージを語らせていただきました。
今年は「神が働きを加速される年!」とタイトルをつけさせていただきました。

昨年の十二月二十六日の早朝に夢を見ました。夢の中で、誰かが私のそばに来て、語りかけました。
「順さん!来年は神さまが働きを加速される年になりますよ!」というものでした。たかが夢ですが、されど夢という面もありますので、心に留めていたのですが、イザヤ書六十章二十二節に、「時が来れば速やかにそれをする」ということばが心に留まり、二〇二五年、神の時が来ているのではと感じて、「神が働きを加速される年!」とさせていただきました。
よく吟味して受け取っていただきたいと願っています。

日本において教会は、あまり盛んではありません。プロテスタント人口は〇・二%以下だと思われます。日本は、キリスト教が根付かない国として有名です。そのくらい強い霊的束縛があるということです。教会が増えると困る勢力が働いているのです。それは目に見える勢力ではなく、目に見えない勢力です。そして教会は、その勢力と戦うために建てられた存在です。
教会のことをギリシャ語で「エクレシア」と言います。エクレシアとは、元々ギリシャ社会の議会を表す言葉でした。すでにギリシャ・ローマ社会においては、エクレシアという組織が存在していたのです。しかしその議会は、「種々の軍事行動に対する作戦や宣戦布告の決定機関」でした。

やがてクリスチャンの群れが社会に出現したとき、人々がエクレシアという議会とクリスチャンの群れとを対比して、「最近現れたイエスを信じる者たちの群れは、エクレシアにたいへんよく似てる!」と言い出しました。やがて、その議会の名が、クリスチャンの集まり自体を指す単語に取って代わってしまったのです。よほどエクレシアと教会は機能的にも組織的にも類似していたと言えます。

旧約聖書にも教会の概念があります。それは「カーハール」です。「カハール」は「呼び集める」という意味があります。「カハール」と「エクレシア」を合体させると、教会とは「戦いのために呼び出された者たちの群れ」となります。ゆえに、教会とは神の軍隊なのです。

日本で教会という言葉は「会衆を教える」という漢字によって表記されますから、教室的イメージが強いです。しかし教会は、決して教室ではなく、ファミリーでもありません。教会は、「戦いのために呼び出された者たちの群れ」「軍隊」なのです。今の教会の意味合いと、原点とでは全く違います。

エペソ人への手紙四章十節から十二節に、

“この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。”

教会には霊的組織があり、それは軍事的組織と似ているのです。なぜなら教会は、敵と戦うために作られたからです。
また、古くから教会は同義語として「キリストの体」とか、「キリストの花嫁」とか、「真理の柱」、また「聖霊の宮」とも呼ばれていました。

第一テモテ三章十五節、

“それは、たとい私がおそくなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。”

教会とは、神の家であり、真理の柱を担っている存在です。

この第一テモテ三章は、創世記二十八章十七節に対応しています。これはヤコブが見た夢です。

“彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」”
創世記 28章17節

とヤコブは語りました。パウロは教会を神の家、真理の柱、土台と呼びました。旧約聖書の創世記に、すでに教会の概念が示されていたのです。
新城教会も七十五年になるわけですが、この教会にも聖書的意味があることを堅く信じています。田舎にありますが、神の計画により建てられ、教会は地域を包括し、建物と空間をも含むものです。
また教会は、エルサレムの神の宮とも対応しています。神の宮とは、「特殊空間」でした。神の家に行けば、神が降りてこられ、出会うことが出来るという空間でした。今もその役割は、決して変わっていないはずです。
皆さんの家も教会、皆さん自身も教会と言えますが、教会堂を含む施設は、さらなる特殊空間です。新城教会はこの場所に建てられて、六十年以上が経ちます。この施設は神を礼拝する為以外には使用されていません。ゆえに、神が特別に降りてこられる、特殊空間であると信じています。

教会は、ただ地上だけではなく、天にもあります。イエスさまは天と地を貫くお方です。地上の教会とは、天の教会が降りてくる拠点でもあります。
ということは、教会に「集まる」ことはたいん重要です。自宅も教会と言えますが、様々な目的で使われます。しかし教会は神を礼拝し、賛美し、祈るためだけに使用されるゆえに、特殊空間です。

コロナ以後、「集まる」ことがおろそかになっていると言われます。もちろんサイバー空間にある教会も教会と言えますが、特定の場所で、世代を越えて維持され、礼拝し続ける場所は重要です。その場所はベテルとして油注がれ、天の教会から地の教会へのはしごが降りる地点です。そこに天使たちが昇り降りし、神の家となるのです。
ヘブル人への手紙十章二十五節には、

“ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。”

「かの日」とは、イエスさまのお帰りになる日です。今から二千年近く前、当時のクリスチャンたちは、「いつイエスさまは帰られるのか、、。明日かもしれない!」と常に緊迫感を持っていました。
それから二千年以上経っています。私たちはどのぐらい緊迫感を持って「集まって主を礼拝しなさい!」という勧めを受け取らなければならないでしょうか。今年、熱心に教会に集まってください。
もちろんネットで礼拝に出てくださっても結構です。しかし拠点を意識し、忘れないで下さい。

教会は、キリストのからだです。からだは、いろいろな器官で構成されています。

“一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。”(ローマ人への手紙十二章四~五節)

神はお一人一人に、キリストのからだの器官としての能力を与えています。
自分の心臓がどこにあるのか分かりますか?右にあるのか左にあるのか。知識ではなく、分かる人はちょっと心臓に問題があるかもしれません。胃がどこにあるのか、胃と腸の境目がわかるなら、何か問題があるかもしれません。臓器に問題がないときは、自分の臓器の位置や存在をほとんど感じません。そのときにこそ健康です。
教会も同じです。誰にどのような賜物があるのかはわかりませんが、それらが正常に機能しているゆえに、教会が成り立っているのです。
「私なんか何の必要も賜物もありません!」なんて時々言う人がいますが、自分の賜物が何だかわからない方、おめでとうございます。あなたの器官は健康です。「私の賜物はこれだよ!みんな知ってちょうだい!」と目立っているときは、あまり健全ではないときかもしれません。一人ひとりが霊により、有機的に繋がって機能することは重要です。