2025
神が働きを加速される年!
天と地をつらぬく教会!Part2

二〇一〇年に中国が発表した「中国の宗教に関する年次報告書」によると、少なく見積もった数字で、中国のキリスト教人口はおよそ約三千万人、そのうち約二千三百万人強がプロテスタント。およそ約六百万人がカトリックと報告しています。

実際、中国のクリスチャンは一億人以上だと言われます。
教会は、戦いがないと成長しないのです。日本でもかつて大きな戦いがありました。そんな中で、日本教会も形成されたことを忘れてはいけません。

悲しいことに、人間は一度は盛り上がっても、必ず盛り下がります。宗教学者たちの調査によると、世界各地で発生する宗教運動を類型化すると、「生成→発展→対抗→迫害→円熟→衰退」へと変化すると報告しています。そして日本のキリスト教界も例外ではありません。
日本で最も大きな教団である「日本基督教団」の発表によると、『教勢が現状のまま推移するなら、二〇三〇年には教会員の三分の二が健康寿命に関わる七十五歳以上となり、奇跡が起こらない限り、教会員数は三分の一に、教会数は半減する可能性がある』と言うのです。
日本のキリスト教会は現在、危機にあります。「奇跡が起こらない限り」とありますが、起きればいいのですが、なかなか難しいそうに感じます。

しかし、『大正・昭和の時代に二度にわたって日本でリバイバルが起こったという記録がある。けれども残念ながら、これらも、短い期間で衰退して行った。衰退した原因を調査する時、そこには特殊な時代背景と、数々の問題があった事も認められている。』とあります。

明治時代に、津具でリバイバルが起こり、その後も大正・昭和の時代に、二度にわたり、日本にリバイバルが起こったのです。それらも衰退してしまったのです。

けれども、宗教学者たちはこのようにも記しています。『しかし同時に、それは「確かに神が日本に介入された」という、紛れもない証でもある』と。

リバイバルは一度起こった地域で繰り返し起こるという原則があります。実は、大正・昭和時代に起こったリバイバルの中心地は、「国立民族学博物館の調査報告書」によると、大正時代に長野県飯田市でリバイバルが起こったと記録されています。そこでは祈祷会を通して聖霊が注がれ、リバイバルが拡大した様子を記録しています。

『その祈祷会は「サタン打ち」と銘打って、四日間続けられ、以下のような現象が伴った。』これは日本のリバイバルとして、政府が保有している記録です。

『集会は始めより聖霊の臨在あざやかに、サタンの妨害を許さず、聖書は旧約より、新約より流るる如く、御器を通してはたらき、探らるる者、掘り下げらるる者多く、涙をともに流しつつ悔いくず折れて祈り、ひたすら主の前にさけび求むる一つの声となり、俄かに天開かれた如く聖霊の大傾注となりまして、ハッキリと救わるる者、慰められた者、癒しを受けた者など続出、立ち上がって感謝する人、大ごえで讃美する者、聖霊が降り、会衆は号泣の中に打ち崩れ、恵みの座も講壇も、泣き叫ぶ人々で満たされ、ある者は確実に救われ、ある者はきよめられた。会衆は時間が経っても帰る者は一人もなく、席を立つ者は外に出て悔改めの祈りをしては、また教会に戻ってくる。まさにペンテコステ的光景で、ぶっ倒れる者、踊る者、はねる者さえあった。』

と綴っています。この出来事が起こったのは、長野県飯田市でした。新城、津具、長野、ある意味、一直線上にリバイバルが繰り返し起こっているのです。

私たちは、こうした歴史のある地域に住んでいることを、どれほど意識しているでしょうか。今年、二〇二五年、神が何か、大いなることを計画しておられるのではないかと、私は期待しています。

最近、よく紹介していますが、明治時代に起こったリバイバルで、津具村教会の日曜学校唱歌です。

♪いざ歌え もろともに
みな歌え もろともに
悪魔の軍勢多けれど
我らが大将 イエス君は
恐れることなど ありゃしない

津具のリバイバルのときにも、霊的戦いが起こっていたのです。彼らは霊的戦いを歌にして、日曜学校唱歌としていたのです。

その後、長野県の飯田市にリバイバルが起きました。飯田市は、津具村と接している地域です。その時も「サタン打ち」と銘打って、四日間の祈祷会が続けられ、リバイバルが起こりました。日本の救いを妨げているのは、人ではなく、政治でも、経済でもなく、目に見えない悪魔・悪霊どもの勢力だ!と、大正・昭和の時代にも教会は理解していたのです。

一九九二年二月、県民の森の祈祷会に聖霊が注がれました。あの時私は、まるで鬼の首を取ったかのような気分でした。「これからは自動運転でリバイバルが拡大するだろう!」と思いました。しかし次週から起こったのが、霊的戦いでした。

棚からぼたもちのようにリバイバルが起こったら、どれだけ素晴らしいだろうと思いました。しかし日本に起こったリバイバルの歴史を振り返ると、すべて霊的戦いとともにあったのです。なぜなら、教会は神の軍隊として、暗闇の勢力に立ち向かう唯一の存在だからです。

これからどんな時代が来るのかわかりません。今年、どんな歴史が刻まれるのかもわかりません。
今日も県民の森で祈祷会がありますが、この場を大切にしたいと思います。過去に聖霊が臨み、霊的戦いが始められた場所で祈るときに、主が継続してみわざを進めてくださると信じます。
また、二月には日本と韓国とモンゴルが集まって共に祈ります。祈りの中で、国々が守られると確信します。

それぞれに与えられている賜物を磨かなければならないと教えられました。ダイヤモンドも掘り出されたときはただの石ですが、磨くことで高価な宝石になります。信弘先生が語ってくださいましたが、一人ひとりに、体の器官のように賜物が与えられて、それらが集結して神のわざが現されるのです。

私は先週の木曜日に授産所に行きました。私たちは、毎週木曜日、授産所で集会を行っています。そこでは身体に障害を持った方々が共同生活をされています。お昼の時間、三〇分ほど喫茶店に集まり、彼らと一緒に祈るのは、私にとってとても嬉しい時間です。
一見、彼らは弱さを持っているように見えますが、私は、人間はそれぞれ、霊、魂、そして肉体に特徴があり、与えられているポイントの総和は同じではないかと感じます。その総和が十だとしたら、肉体的には強いけれど霊的には弱い人もいれば、それぞれポイントが与えられていています。授産所の兄弟・姉妹たちは、ある意味、肉体的には弱いけれど、霊的領域ではとてもポイントの高い人たちではないかと感じます。
彼らの集まりに行くと、地域の霊的環境がすぐにわかる感じです。彼らがうつむいているようなときがあります。空気がドヨーンとしているのです。そういうときは、大抵、地域で何らかの偶像の祭りがあったり、国家的に悪いイベントがあったりします。そういう時、彼らは理由もなく落ち込むのです。
ある兄弟には喜びの賜物が与えられていて、祈ると笑いが止まらなくなります。しかし、そんな彼でさえ、笑顔一つなく落ち込んでいることがあります。そういうときには、祈りのテーマが必ず地域にあります。

先週も二人が静かにしていました。「どうしたの?」と尋ねても、「わからない」と答えるのです。しかし一緒に祈ると、「あっ!晴れた!」とか言って元気になり、突然大笑いし始めるのです。「この人たちに霊的な領域の賜物が多く与えられている!」と感じます。
彼らは一見すると、社会の片隅に追いやられているように見えるかもしれません。しかし本来、神はそういう人たちに鍵を授けておられるのではないでしょうか。
だから私は、彼らの所に行くのが好きです。去年、もう一人仲間が加わりました。その人は毎週水曜日になると必ず、私にLINEを送ってきます。「順さん、明日は来ますか?」「行きません」と答えると、とてもがっかりするのです。彼らの中にある賜物が、新城教会を大きく支えているのかもしれません。

私の家内が病気だった頃、彼らが一生懸命祈ってくれました。その喫茶店で、紅茶を注文すると砂時計が一緒に出てきます。それをひっくり返し、「すべての砂が落ち切ったらお飲みください」というものです。
ある日、彼らは紅茶を注文し、砂時計をひっくり返して、私の家内の為に、「時間よ止まれ!」と命じて祈りました。
それまで砂時計の砂がさらさらと順調に落ちていたのが、命じたら、突然、砂がピタッと止まったのです。なんと数秒間、砂時計が止まったのです。その様子を動画で送ってくれました。
しかし、しばらくすると、また砂がさらさらと落ち始めました。その後、何度やっても普通に砂は落ちる砂時計なのに、彼らが「命じて」祈ったときだけ止まったのです。

先週、彼らが、その話をしていました。「もう少し長く砂時計を止めておけばよかった。そうすれば享子さんは、もっと長く生きたのに・・」と言っていました。彼らには、主への信頼と、深い信仰があります。

教会はキリストのからだです。さまざまな能力が与えられています。その能力が一つになるとき、神のわざが前進します。与えられた賜物を磨き、神の国の到来のために働こうではありませんか。

今日は「教会」というテーマについてお話ししました。
まず第一に、教会堂は特殊空間であり、建物や場所自体にも意味があるということです。
第二に、教会には神の国の鍵が与えられています。その鍵は天と連動する鍵です。
第三に、教会の目的は霊的戦いにあるということです。教会を構成する一人ひとりは、キリストのからだの各器官の兵士であることを覚えて、二〇二五年を乗り切りたいと願います。

特に今週、アメリカのため、イスラエル・ガザのため、そして韓国のために、心を合わせて祈りたいと思います。最後に一言お祈りさせていただき、終わります。

天の父なる神さま、み名を崇めて心から感謝いたします。私たちは教会という小石に属しています。この小石が世界に対して大きな意味があることを覚えます。新城教会、今年で七十五年になりますが、あなたご自身の計画が現される教会とならせて下さい。
お一人一人が、神の軍隊の勇士であることを宣言します。
インターネットを通して礼拝に参加されている方々にも、その場を特殊空間とし、主が訪れてくださいますように。
二〇二五年、主の年であり、働きを加速される年であることを宣言し、イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。