2025
神が働きを加速される年!
天と地をつらぬく教会!Part2

2025年1月19日(日)新城教会主任牧師 滝元順

マタイの福音書 16章18~19節

“そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」”

 

皆さんおはようございます。ハレルヤ!

今日は「天と地をつらぬく教会!」というテーマでお話をさせていただきます。去年もこのテーマでメッセージを語りましたので、「Part2」とさせていただきます。
そもそも教会とは何ぞやに関して、最近よく、語らせていただいているのですが、教会といえば、やはり建物が目につきます。実際、教会とは建物を含めての概念です。教会とは、天と地が出会う場であり、特殊空間であるからです。今日私たちは教会堂に集っていますが、ここは天と地が出会う場として、神が用意された場所です。

場所と神の働きに関して、近年、唯物論の影響により、キリスト教の中心部分から奪い去られ、悪魔に奪われてしまいました。
現在、ちまたはパワースポットブームです。なぜ人々はパワースポットと言われる場所に出向くのでしょうか。それは、そこに行くと何らかの霊的感動を覚えるからです。科学にもならなず、学問にもなりませんが、特定の場所で人は力を感じるわけです。それは本来、教会の領域です。なぜなら旧約時代、神殿は天と地が出会う特殊空間として用いられていたからです。定められた日程に神殿に赴くなら、神が降りてこられたからです。神殿に行けば人は神と出会えたわけです。
この原則は現在でも保たれているはずです。

この会堂が建ったのは一九八〇年でした。かなりの年数が経ちました。今年で四十五年になります。この場所は、祈り、賛美・礼拝の場所、みことばを語る場所のみに特化されており、他の目的には使用されていません。
皆さんの自宅も教会と言えますが、自宅は、様々な目的に使われます。しかしこの場は、神のためだけに使用されています。ゆえに、教会堂は天と地が出会う場として用いられるはずです。
悪魔もそのことをよく知っています。コロナ禍を利用して、教会に集まるのを制限しました。「集まらなくてもいいですよ」という情報を多く流しています。「場所」は重要です。これからも会堂を大事にしたいと願っています。

今日は午後から県民の森祈祷会があります。県民の森も一つの場です。なぜなら、一九七〇年ごろから、リバイバルを求めて、全国の牧師たちが集って祈られてきたからです。もちろん森は様々な用途に使われていますが、あの場所に、聖霊が注がれたのです。ですからあの森に祈りに行けば、特別な主からの恵みをいただくことができるのです。
先週も祈祷会があり、たいへん恵まれました。行く前は何となく、重いですが、帰りは何か知らないけれど心が燃えます。不思議なものです。一年の恵は県民の森祈祷会にある!と私は信じています。先週、子どもたちが木の実で「神が働きを加速される年!」と、書いてくれました。

今年は神がご自分の働きを加速される年になることを心から願っています。

マタイの福音書十六章十九節に「私はあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは、天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは、天においても解かれます。」とあります。

教会とは、天のみ国の鍵が与えられている場所だと言うのです。世界で、天のみ国の鍵が与えられているのは、教会以外にありません。この鍵を用いることにより、天と地が連動するのです。

この箇所を読んでいて、私は一つのことを思い浮かべました。私は二階に住んでいるのですが、誰かが来たとき、一階まで降りていって鍵を開けたり閉めたりするのが大変です。そこで最近、私は一つの装置をドアの鍵につけました。この装置をつけると、世界中どこにいても、スマホで自宅の鍵を開け閉めできるのです。たいへん便利です。神の国と教会は、同じようではないかと思いました。

先日、私が韓国でセミナーをしていたとき、孫の一人からLINEメッセージが来ました。「じいじ」「じいじ家の鍵開けて」。
私が反応しないと「おーい」「お願いします」と嘆願してきました。何かあったのかなと思ったら、それなりの理由があったようです。
どうしても家に入りたかったみたいです。それでも私が反応しなかったから、「おーい」「既読しろ」と脅しのようなメッセージが届きました。

私は韓国にいましたが、集会中にスマホを操作して、日本の我が家の鍵を開けてやりました。それで孫は事なきを得たわけです。

天のみ国の鍵とは、こういうものではないかと思うのです。私たちが主に「助けてください!」と願うと、初めはなかなか反応がないのかもしれません。でも、切実に願い、主に理由を述べたりすると、神が天から鍵を開けてくださるのです。天と地は連動しています。素晴らしいです。教会だけに、そのような機能が与えられているのです。

教会に属することはたいへん重要です。一人の祈りでは力がなくても、キリストのからだの中で、皆の賜物が一つになるとき、天の鍵を使うことができるからです。
続いてマタイ十六章十八節では、

“そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。”

何度も語っていることですが、教会はよみの門の門前に位置します。よみとは地獄です。人はいつまで救われるチャンスがあるのか、それは死ぬ寸前までです。

ある日、私が死にかけている男性の病室に行った時でした。彼はクリスチャンではなかったので、「私の後に続いて、心の中で祈ってくださいね」と声をかけて祈り始めました。私が最後に、「アーメン」と祈った瞬間、その方が突然声を出しました。「あぁーーー。」
その直後、モニターの波形が平らになって、ピーッと音がなり、亡くなってしまいました。本当にびっくりしました。しかしご家族はそれを見て、たいへん感動したそうです。「まるで、ロケットの打ち上げの瞬間のようでしたね」と言われました。その方はギリギリで、天国に入られたと信じます。
教会がハデスの門前、地獄の門に限りなく接していなかったら、こういうことは起きないのです。

悪魔の住処の門前に教会は位置しています。ゆえに霊的戦いがあるわけです。

「教会」の意味について、何度もお話ししていますが、教会はギリシャ語で「エクレシア」と言います。この語源は、古代ギリシャの市民集会、国政の最高議決機関を意味していました。
当時エクレシアは、行政、立法、外交、軍事など国政のあらゆる面に決定事項が及んでいました。しかしそれが後に、キリスト教会を指す用語そのものに置き換えられたのです。
つまり、いかに最初の教会が、「エクレシア」に似ていたかということです。

バークレーという有名な聖書学者が「ギリシア語精解」という注解書を書きました。その中で、
「エクレシアは元々ギリシャ社会の議会を表す言葉で、この議会は種々の軍事行動に対する作戦と宣戦布告の決定機関であった」と述べています。

こうした概念が教会の基礎となったのなら、教会とは、単なる教室やファミリーではなく、「戦いのために呼び出された者たちの群れ」、すなわち「神の軍隊」であるということです。

では、その戦いとはどういう戦いなのでしょう。それが「霊的戦い」です。そのために神は教会を用意されたのです。教会本来の意味を、現代の教会概念と比較するならば、現代の教会は、その目的を間違って捉えていると言えます。
全世界の教会が、教会の基本的概念をしっかりと理解し、共有すれば、世界は変わります。天と連動する鍵は、強力に世界を変化させるはずです。

一九九二年に霊的戦いが始まったのは、特殊なことでもなんでもありません。それは元々、神が教会を作られた本来の意図に戻すためでした。

十八節に「そこで私もあなたに言います。あなたはペテロです。私はこの岩の上に私の教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」とあります。

ここで「あなたはペテロです。」と訳されている箇所ですが、カトリック教会はこの箇所を引用し、「ペテロの化身であるローマ法王が教会の最高権威者である」と主張します。彼らは、「そもそもイエスはみ国の鍵を、ペテロにだけに与えたのだ。ゆえに、ペテロの化身であるローマ法王とローマカトリック教会だけに神は全ての権限を与えた」と主張しています。

しかし「あなたはペテロです」と訳されている箇所をよく調べると、新改訳2017では欄外に別訳が記載されています。「あなたはペテロ」というのは「ペトロス」すなわち小石、「あなたは小石です」と訳すことも出来ます。
そして「岩」と訳されているのは「ペトラ」、石の集合体、大きな石、岩となります。
「あなたは小石です」とは、ダニエル書二章の引用であると思われます。三十四節、

“あなたが見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを粉々に砕きました。”

ダニエル書は大いなるメシヤ預言を含んでいます。「小石」が山から切り出され、大きな像を粉々に砕いたというわけです。この像は、当時の世界と、世界を背後で支配する暗闇の連合体を象徴しています。
バビロニア帝国から始まり、メド・ペルシャ、ギリシャ、ローマ、さらに、その後の世界を表します。しかし神は、この世の王国を小石、すなわちイエスの誕生とともに打ち砕き、やがてその小石が巨石となって全土に満ちるという、神の国の実現を預言したのです。
ヘブル語で小石のことを「エヴェン」と言います。「エヴェン・エゼル」は助けの石です。ダビデがゴリアテを倒した際に使用した小石も「エヴェン」です。この石はただの石ではなかったのです。イエスさまの誕生を象徴していました。

また、ヤコブが枕にした石も「エヴェン」です。それは神の家、教会を象徴し、「エヴェン」と表現されています。

それらを基本概念としてマタイ十六章十八節を分析すると教会の姿が見えてきます。イエスさまはこの言葉を、大岩の洞窟の神殿、ハデスの門前で語られました。「岩」とは悪魔の王国となります。ペトロをペテロという人物に設定すると、「岩」をイエスさまとするしかないのですが、「ペトロ」を人物ではなく、「小石」と訳すると、小石がイエスさまであり、教会も、同時にイエスさまを頭とする小石となります。そして教会は、大岩である悪魔の王国を踏み潰す形で、岩の上に建てられるという意味になります。

日本でも、各地で大岩が神として礼拝されています。教会の目前にかんぼう山があるのですが、そこには岩座石や額岩があり、それが神体とされ、新城市を支配する構図があります。

二十世紀最大の宣教学者の一人である、ラルフ・ウィンターが、「The Kingdom Strikes Back(神の王国の逆襲)」という本を書きました。その中で彼はこう述べています。

「教会はいつも逆風の中で前進してきた。教会が異教勢力により飲み込まれそうになる時、かえって異教徒たちが福音を聞いて、彼らを通して福音が広がった。」

教会は順風満帆な時代に広がったのではなく、戦いの最中で拡大したというわけです。このことからも、教会が霊的戦いの拠点であることがよくわかります。

中国は、霊的戦いの中で大きな変化が起こった国です。一九四九年に中国には約百万人のクリスチャンがいました。しかし共産革命が起こり、その半数にあたる五十万人が殺され、さらに二十万人から三十万人が棄教したというのです。ということは、生き残ったクリスチャンはたったの二十万人ほどでした。
私が生まれたのは一九五一年ですが、その二年前の出来事です。日本のクリスチャン人口は約百万人とされていますが、もしも同じような状況になれば、どうなるのでしょうか。
しかしそんな中でも、主は働かれたというのです。

『ところが、一九七〇年代に入り、中国が門戸を開き始めて、国内の様子が変わり始めると、驚くべき聖霊のリバイバルが中国で進んだ。地下教会が無数にでき、数々の癒しと奇跡が起こり、宣教が拡大した。』