2025年4月13日(日)新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの福音書 11章25節
“イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。”
今、読んでいただきました聖書の箇所、すごいですね。この記述が真実ならば人類にとってまさに、大きな希望です。
現代は世界が大きく変化しています。
AIが人間以上に、知識を増し、二〇四五年には人間の知能を超えると言われています。
私はAIに一つの質問をしてみました。「死後、人はどうなるのですか?」という質問です。するとAIは次のように答えました。
「人が死後どうなるかという問いに対する明確な答えは現在のところありません。宗教、哲学、科学、そして個人の信念によって様々な解釈が存在します。大切なのは、それぞれの人が納得できる考え方を持つことかもしれません。
あなたがこの問いについてどのように考えているか、もしも差し支えがなければ、教えていただけますでしょうか?」
AIから逆に質問されてしまいました。AIは、世界中の英知を総合して答えますが、さすがのAIも、「人が死後どうなるのか」の問いに対して、答えを出すことはできませんでした。
しかしAIはかなり的をついたことを語っています。
「大切なのは、それぞれの人が納得できる考え方を持つこと」だと言うのです。
さて誰でも人は死にます。百年後、ここに来たら誰一人、私を含めて存在する人はいません。何らかの死後の世界があることは確実です。だからAIもはっきりとした答えを出せないのです。納得できる考え方をお持ちでしょうか。この問いは人生の中で本来、最も大切な問いかもしれません。
以前に、「必要不可欠=エッセンシャル」について、お話しさせていただきました。そして人類にとってのエッセンシャルは「宗教だ」と話しました。「宗教は人類の誕生とともに生まれ、以後どの時代、どの地域、どの民族、どの社会においても消滅したことがない」と言われます。と言うことは、人間にとって最も大切なのは、「宗教」になるわけです。
AIが告げるように、人は、「宗教、科学、個人の信念、また哲学を総合して、納得できる答え」を見つけなければならないのです。これは、誰にとっても「必要不可欠=エッセンシャル」です。
今日は復活祭礼拝です。また、召天した聖徒たちを思い出す日でもありますので、そのことを深く、考えてみたいと思います。
「宗教」は“Religion”と英語で言いますが、もともとは、“Religio”というラテン語から始まったようです。しかしそれは、何か霊的な事柄を指す言葉ではなく、ただの「結び目」という意味だというのです。二本のロープを結んだ、結び目を、「宗教」と呼ぶようになったのです。
それは、人が乗り越えることができない領域を、宗教、哲学、科学、個人的な信念を持って乗り越えようという、結び目となるわけです。
人がどうしても乗り越えることができない領域は、「死」以外の何者でもありません。ということは、人が死を越えるためには、何らかの結び目が必要なのです。それはAIが言うように、「宗教、哲学、科学、個人の信念」となるわけです。
教会では時々、召天式があります。それは、
「個人がどのような宗教、哲学、科学、信念に基づいて死後の世界を選択したのかを、参列者に宣言する、人生最後にして最大のイベント」です。
教会での葬式は、「私はキリスト教という宗教を選択し、キリスト教哲学、また聖書に基づいた情報による科学、それらを信念として生きてきました。それを結び目として、私は死後の世界に旅立っていきます!」という宣言なのです。
誰もが迎えなければならない死の瞬間、何かと結び、乗り越えなければならないのです。本当に重要なテーマです。
「召天者記念会」とは、故人がどのような死後の世界を選択したのかを、「確認する集まり」です。
私ならば、「家内は、聖書に基づいて、クリスチャンとして一生を終え、現在、キリストの教える死後の世界にいる!」と毎年、確認しているわけです。
死後、人はどうなるのか。「死によって意識を含めて全てが消滅する」と考える人たちが結構、多くいます。宗教、哲学、現代科学を総合して、そのように判断している人たちです。
聖書の中にも、同じような考え方を持った人たちが出てきます。それは「金持ちとラザロの話」に登場します。これはイエスさまが語られた「実話」です。
ルカの福音書十六章近辺は、イエスさまの例え話がいくつも出てくるのですが、ここだけは「ある金持ちがいた」と、断言されています。これは例えではなく、事実に基づいた話なのです。
「金持ち」の服装として、「紫の衣や柔らかい布を着ていた」という情報が提供されています。
イエスさまの時代、敵対し合っていたユダヤ教の二大派閥がありました。それは、「パリサイ派」と「サドカイ派」でした。しかし両派とも、イエスさまを嫌っていました。
ここでイエスさまは、知恵ある話し方をされています。イエスさまは、このストーリーをパリサイ派に向かって話しました。それも、「サドカイ派」の人たちを題材にして話したのです。この二大派閥は、互いに対立していましたから、パリサイ派に、サドカイ派についての話をすれば、日頃、イエスさまの話を聞かない彼らも、興味深く話を聞いたのです。イエスさまは賢い話し方をしています。サドカイ派のシンボルは「紫の衣」だったわけです。
当時、サドカイ派は、どういう考え方を持っていたのかと言うと、エルサレムの上流階級で貴族でした。彼らは死者の復活を否定していました。魂は死後、滅亡すると主張していました。また、霊的世界の存在とか、み使いとか、悪霊なども否定していて、宗教よりも政治と金に多大な興味がある人たちでした。
けれどもパリサイ派は、それとは真逆の考えでした。
ここでイエスさまは、サドカイ派の考えを、全否定されたのです。「死後の世界はある!」と断言されたのです。パリサイ派の人たちは、死後の世界を信じていましたから、イエスさまの話を興味深く聞いたはずです。また、サドカイ派の金持ちが地獄に落ちるというストーリーは、パリサイ派にとっては、たいへん心地よい話であったことは間違いありません。
ところで皆さんはどのような考えを持っておられるでしょうか。死後の世界があるのか、ないのか。サドカイ派の考えに立つのか、パリサイ派に立つのか、それとも、イエスさま側に立つのか・・。選択を迫られます。
仏教の死後の世界は、「六道輪廻」です。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界を巡る、まさしく、六道輪廻ロシアンルーレットです。仏教徒は、この世界を受け入れた証拠として、仏教式の葬式を選択するわけです。
仏教では、良い行いをしたら、天界に行くらしいですが、行いが悪いと、悪い世界に転生するようです。仏教ならば、墓もいらないし、死後、霊は地上にとどまっていないことになります。良い行いをしてきたなんて言える人は、ほとんどいません。天界に行ける人はあまりいないでしょう。
ということは、畜生か餓鬼か地獄か、その三つの内の一つが関の山ではないでしょうか。私が仏教徒ならば、三つの界のどこかに行くはずです。
日本人は神道だと言います。神道は儒教と同じ考え方です。なぜかと言うと、死後は先祖の霊に加わって憑依するという考え方だからです。孫の成長過程を見ることができたりして、いいのかもしれません。
しかし、神道にしても、儒教にしても、時間が経つと人の霊は、悪の霊に変化します。家族をたたる存在になるのです。
続いてキリスト教も、代表的にローマ・カトリックと、プロテスタントが存在します。各々、全く異なった死後の世界観を持っています。
ローマ・カトリック教徒は、死んだら直接天国には行けません。まずは煉獄に行きます。煉獄の火によって浄化されないと天国には行けないのです。浄化にはなんと、数万年から百万年ちかくかかると言うのです。煉獄の火の温度と、地獄の火の温度は同じだそうです。
カトリック教会は静かでいいと思うかもしれませんが、カトリックの葬儀は、プロテスタントとは全く違います。「イエズスにこの死者の魂にあわれみをかけ、煉獄に投獄されているその魂を、煉獄の食い尽くす火から早く解放してくれるように頼む式」に他ならないのです。
天国に関する賛美歌が歌われることもありません。司祭から遺族への慰めの説教や言葉もないのです。なぜなら葬儀全体の目的が、神をなだめるためだからです。
この教えがお好きなら、カトリックに行かれたらいいと思います。
聖書は実際、死後について何と告げているのでしょうか。イエスさまの語られた言葉と、聖書全体から見るならば、イエスを主と告白する者は、「死後すぐに天に移され、先に天に移った友人や家族と共に、幸せに暮らす」のです。素晴らしいではないでしょうか。これが事実ならば、人生には大きな希望があります。
死後のために、冗談なく、これは重要な選択です。
近頃まで桜が咲いていました。本当に美しかったです。こんなに美しい世界を造られたのは、神以外の何ものでもないです。「わたしは存在していますよ」と自然そのものを通して、神は語っています。
しかし残念ながら、日本人は桜が咲くのを愛でるよりも、散っていく方に目を留めています。
「散る桜 残る桜も 散る桜」と詠んでいます。これが人生だとしたならば、本当に空しいです。
桜はいくら散っても、毎年、咲きます。その姿を見るだけでも、神を信じることができます。
私の家内、天に帰ってすでに二年半です。家内の写真を出して恐縮ですが、これは亡くなる三ヶ月前の写真です。三ヶ月後に死ぬように見えますか?死は、突然やって来ます。
家内が亡くなる半年ぐらい前から、彼女が育てていた花のことを皆さんに何回も紹介しています。今日、写真を撮ってまいりました。まだ咲いています。
私、何もやってないです。これを見るだけで、イエスさまは復活のいのちを与えてくださると、信じることができます。
また、享子さんが使っていた道具箱からも、こんなふうに首を出しています。家内は、私が黄色の花が好きだと、いつも話していました。「あなたは、黄色の花を見るといつも『綺麗だね』と言うね」と言うのです。彼女はそう信じていました。
ですから、神さまは私の為に、黄色で彩り、慰め励まして下さっています。
新約聖書、「黙示録」の一義的意味は、殉教していく兄弟姉妹の中、残されている人たちを励ますために書かれました。
“また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」
「幸い」とは、山上の垂訓で遣われている、「幸い、マカリオス」が使われています。それは「最高の幸せ」という意味です。
“「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」”
人は死後、変質するわけではないのです。「彼らの行いは彼らについていく」とあります。記憶や体験は死後の世界にも引き継がれて過ごすのです。ということは、彼らは地上で過ごす者たちの応援団なのです。
マタイの福音書二十七章の五十節から読みますと、実に不思議なことが記されています。
“しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。”
これが事実ならば、キリスト教、恐るべしです。イエスさまが死んだ瞬間、墓が開いて眠りについていた多くの聖なる人々の体が生き返ったというのです。
エルサレムにはオリーブ山沿いに多くの墓があります。そこに葬られているのは、旧約時代に活躍していた聖徒たちです。その体が、イエスさまが死なれた瞬間に復活したというのです。そしてご丁寧に、
“彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。”
イエスさまの復活に先んじることなく、イエスさまが復活した後に、都に入ってきたと言うのです。
この復活した人たちは、イエスさまが公生涯で生き返らせた死人とは違います。やがてイエスさまが帰ってこられるときに復活する人たちの状態を表しています。