「福音に覆いが掛かっている」とは、既に起こった出来事であり、結果としてその状態が続いていること(完了形)である。この覆いは「滅びの過程にある人々」(現在分詞)にとってのみ存在すると言うのです。彼らは単に滅びる者ではなく、今まさに滅びに向かって歩んでいるという、進行形が強調されている。
日本の背後に暗闇の力が関わっていて、そのままでいくと人々はどうなるのか、まさに滅びに向かっているのです。
これらの点を踏まえると、パウロがこの箇所で伝えようとしているのは、福音の真理そのものに欠陥があるのではなく、それを受け取れない側に根本的な問題があるということである。その問題は人間の不信仰というより、外部の力、この世の神によってその理解力が「意図的に奪われている」という深刻な霊的状況が描かれている。
日本には深刻な霊的状況があるのです。それは何かと言ったら、「覆いが掛かっている」のです。覆いをかけているのは、「この世の神」なのです。ということは、覆いを取らない限り、なかなか福音は広がっていかないのです。
しかし、イエス様が既にこの地上に来てくださったことによって何が起こったかと言ったら、「神の指によって悪霊が追い出され始めている」それは「神の国が来ている証拠」だというのです。
これはマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書が扱っている重要なテーマです。「神の指」とは、神の霊、聖霊であること、そして「あなたの指の業であるあなたの天」とありますけれど、神の指とは、天地創造した神が直接働かれるときに、沈黙の土台が破られることを示しています。
この聖句は、イエスが悪霊を追い出す行為が単なる奇跡ではなく、神の国の到来を証明する決定的な印であることを示しているのです。イエスが悪霊を追い出すことによって、サタンの支配が打ち破られ、神の支配が地上に確立され始めていることを意味します。
つまり、イエスの働きを通して神の国は「既に、しかし、未だ」という形で現れているのです。「既に」、イエスの働きによって神の国がこの地上に侵入し、悪の力が打ち破られ始めている。しかし、「未だ」、すなわち神の国は最終的にイエスが再臨されるときに完全に完成するのです。
私たちの歴史は、「既に」と「未だ」の真ん中にあります。未だ到来していない神の国を実現させるために働くのが教会であり、クリスチャンであるということです。
この聖句は、イエスが単なる預言者や教師ではなく、神の国をもたらす救い主であること、そしてその働きが悪の力に対する勝利であることを明確に語っています。聖霊が働くときに、また、神の指が動くときに、間接的にしか働いていなかった悪の力があらわになるのです。そして人は「お前だったのか!」と真犯人を知るのです。
◆霊的戦いの現場:韓国キャンプでの出来事
この8月に韓国でキャンプがありました。「次世代キャンプ」といって、若い世代が参加して本当に良かったです。皆様がお祈りくださって、この教会からも20名以上の方々がこのキャンプに参加したのです。
不思議なキャンプで、ただ韓国人の方々が集まっただけでなく、北朝鮮から逃げてきた脱北者の子どもたちが参加していました。また、「コリョ人」といって、日本が朝鮮半島に侵入した時にロシアに逃げた人たちで、コリョ人と呼ばれる人たちもいました。そして韓国人と日本人のキャンプでした。
日本周辺の歴史を見ると悲しいことばかりです。ここに集まった子どもたちの多くが、特殊な背景を背負っている子どもたちでした。どうして分断や別離が起こるのか。聖書の原理に従えば、間接的に仕向けている存在がいるということになります。しかし、そこに神の霊が注がれると、誰が敵であるか分かるようになるということです。
今回、新城教会からも子どもたちが参加したのですが、最初の晩から聖霊が働いてくださったキャンプとなりました。
最初の晩は皆疲れていて、その夜はぐっすり眠るはずでした。子どもたちが一つの部屋、男の子たちが一つの部屋に集まって雑魚寝のような形で寝ていました。しかし、その中の一人の少年が突然おかしくなって、まさしく彼ではない人格が現れたのです。そんなことがあると信じますか?そこにいた子どもたちはびっくりしました。今まで普通に話していたのに、そんな現象が起こって、すぐに大人たちを呼ぼと思ったそうです。しかし大人たちが眠っている部屋番号が分からなかったと言うのです。それで自分たちだけで戦わなければならなかったのです。
その事件が起こったのは夜の11時ごろでした。子どもたちは一丸となって、間接ではなく、直接的に支配されている少年に働く悪霊と戦ったと言うのです。みんな色々な役割を分担して、どのぐらいまで戦ったのかというと、朝の5時まで戦ったと言うのです。
「負けたのか?」と聞いたら、「いや、負けなかった、勝利した!」と言いました。そして悪霊が露わにされた少年も解放されて。元気になりました。
悪霊が姿を現すとき、人格が変わると言います。彼らは、その少年なのか、悪霊的な露われなのか試したと言うのです。
どう試したのかというと、その少年が一番嫌いな食べ物がメロンだったそうです。彼はメロンが大嫌いで、普通のときにメロンをあげても「いらない」と言います。しかし、目が泳ぎだして、悪霊的な力が露わにされたとき、メロンキャンディをあげたら、「俺の一番の好物はメロンだ」と受け取って食べたというのです。
「これは絶対に悪霊だ」と、イエスの名によってみんなで立ち向かったと言うのです。朝5時まで戦い、勝ったと言うのです。その勝利を体験してから、少年たちは変わりました。露われがあった少年も含めて、みんな変わったのです。
どういう悪しき力が露われたのかと聞いたら、「日本を悪い道に引っ張っていく役割」の悪霊が出てきたそうです。日本を悪い道に導いていこうという意思を持って日夜働いている悪霊が現れたと言うのです。彼は以前、国会議事堂を抱えている悪霊を見たと言うのです。
日本を悪い道に連れて行こうとする敵の力がいるのです。ということは、日本の少年たちを悪い方向に連れて行こうとする力があるのです。
敵は今までは間接的に働いていたので気づきませんでした。少年たちにも、聖書を読むよりも、ゲームの方が楽しいとか、教会に行くよりもゲームセンターの方がいいとか、色々な悪い誘いをしていたのでしょう。
しかし、その存在が神の指によってあらわにされ、「日本を悪い方向に連れて行こうとする存在がいる!」と彼らは気づいたのです。そして勝利したのです。彼らは口々に言っていました。「順先生が悪霊と戦うことは楽しいと言っていたけど、その意味が分かった」と言うのです。
最近彼らは土曜日になると集まってきて、この国を悪い方向に向かわせる悪霊どもを打ち破るために祈ろうと集まってくるのです。このキャンプは良かったです。敵の力が暴かれたのは、神の働きです。聖霊の働き、神の指が彼らのところに臨んだのです。
◆イエス様が示した霊的戦いの戦略
1992年から、主は私たちに、それまで間接的に働いていた敵の存在を、直接的に、誰であるかを示し始めて下さいました。それによって教会は変えられました。
聖書の中にも、悪霊どもが間接的に長いこと働いていたけれど、人々は気づかず、イエスさまによって露わにされた例が詳しくレポートされている箇所があります。沈黙の土台が露わにされた例として、マルコの福音書5章1節から3節です。他の箇所でも取り上げられています。
「こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。」
かつてイスラエルのガリラヤ湖の東側にゲラサという町がありました。そこに一人の男がいましたが、墓場に住み着いていて、大暴れをし、町の人たちではどうにもなりませんでした。みんなで力を合わせて彼を縛っておこうとしても鎖はちぎるし、とんでもない男でした。住民は平和な生活を送ることができませんでした。
しかし、イエス様がゲラサに行ったときの事です。沈黙の土台が露わになったのです。今までは「この男が悪い。こいつが町の敵だ」と思っていたら、そうではなく、レギオンという悪霊どもの軍隊が男を間接的に使って町を覆っているうことが分かったのです。
「そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」」と男が言って、イエスが「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われると、
「イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。」
レギオンはイエス様に懇願しました。「自分たちをこの地方」、町とも訳すことができます。特定の限られた空間から追い出さないでください、と懇願しているのです。
どうでしょうか、世界中、ある特定の国であったり、街であったり、何とも悲しい歴史を背負っている特定の地域があります。今から400年ぐらい前、新城市に大変な歴史が刻まれました。1575年7月9日、教会前の設楽原で大きな戦いが起こって、数時間の戦争で1万数千人が死にました。この地域の人たちにとって最悪の出来事でした。しかし豊川や豊橋など、他の町に住んでいた人たちは、戦いに巻き込まれなかったのです。
80年前、日本に住んでいた人たちは最悪でしたが、他国に住んでいる人たちはそれほどでもありませんでした。ある特定の場所に大事件が起きるのは、どうしてか?それはレギオンが地域を捕らえ、働いている可能性があるのです。
このレギオン、イエス様と遭遇して追い出され、どんなふうになったかというと、
「ここの山腹にはおびただしい豚の群れが飼われていた。彼らは、イエスに懇願していった「私たちを豚に入れるように、豚の中に送ってください」イエスはそれを許された。そこで、けがれた霊どもは出ていって豚に入った。すると2000匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、その湖で溺れて死んだ。」
考古学的にゲラサは特定されています。ガリラヤ湖の東側に、現在名スシータ、昔はヒッポスという古い遺跡があります。イエス様の時代はゲラサとも呼ばれていました。この箇所は聖書の記述にぴったりの光景です。ガリラヤ湖があって街があって、郊外に墓があります。この街はギリシャ風のヘレニズム時代にできた町でした。ゲラサの外れに崖があって、2000匹の豚が落ちていったのがよく分かります。
下から見るとこんな感じです。ガリラヤ湖も死海も、2000年前と現在では水位が全然違うのです。イエス時代はもっと水位が高かったのです。だから街から湖に落ち込む様子を想像できます。
イエス様がゲラサに来る前から、既に戦いが起こっていました。ガリラヤ湖を渡るとき風が吹いてきて舟が沈みそうになったのです。その時イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ。静まれ。」と命じられました。すると、風は止み、すっかり凪になったのです。
現代人がこの記事を読めば「イエスは自然界に対しても権威がある。台風だって制することができる」と考えます。
しかし、2000年前の人々の理解は全く違ったものでした。2000年前の人たちの世界観を知らないと聖書は正確に理解できません。
古代ギリシャでは、デメテルは農耕や豊穣をつかさどる重要な女神でした。そして、嵐や風といった自然現象は「デメテルのような神々の気分や意志によって引き起こされる」と信じられていたのです。当時の人たちは、台風が来たら「デメテルが怒っている」と考えたわけです。今とは全く理解が違うのです。
イエス様が嵐を沈めた奇跡は、デメテルが自然現象を司るという当時の信仰に対する直接的な挑戦として解釈できる。イエスは言葉一つでその嵐を完全に支配し、静めた。これはイエスが、当時の人々が崇拝していた神々や霊よりも遥かに高い権限、権威を持っていることを劇的に示した瞬間であった。