2025
神が働きを加速される年!
霊的戦い!
~ AI版 ~

最近、オレオレ詐欺が多いですね。しかし、真実の情報を知っていれば騙されません。悪魔の策略を見抜くためには、真理を知らなければならないのです。御言葉を学ぶことは、ある意味、戦いの為の最優先となります。

そして義の胸当てです。悪魔は私たちの過ちを責め立て、絶望させようとします。義の胸当ては、イエス・キリストの十字架の贖いによって与えられた義を指します。これは私たち自身の行いによるものではなく、キリストの血潮によって罪が赦され、神の前に義と認められたという確信を意味します。この確信が悪魔の告発から私たちの心と良心を守り、平安を与えます。

「お前はそれでもクリスチャンか」というような声を聞きませんか。「お前は神の前に立つことはできない」というような囁きを聞くことがあるかもしれません。そのとき、地上の正義ではなく、主イエスの十字架の贖いによってもたらされた義に立つ必要があります。「私はイエスの十字架の血潮によって清められ、いつでも天のところに立つことができる!お前がいくら私を天の法廷に訴えたとしても、いつでも却下できる!」と宣言してください。そのためには、神の義の胸当てを着けなさいというわけです。

続いて、平和の福音の靴を履けとパウロは告げました。悪魔は混乱と争いをもたらし、福音の進展を妨げようとします。平和の福音の靴を履くことは、福音を伝える準備を既に整え、神の平和を人々に運ぶ使命を意識することです。これによって、悪魔が敷いた障害を乗り越え、神の国の領域を拡大することができるとAIはまとめました。

福音を伝えることは、神の国の領域を拡大することです。福音は人だけのものではなく、全ての被造物に対するものです。これは重要なポイントです。「全世界に出て行って、全ての被造物に福音を伝えよ」とあります。日本だけでなく、全世界に目を向けていかなければならないのです。この夏、若者たちが韓国に行ってキャンプに参加します。韓国人だけでなく、脱北してきた子供たちや中国から来た子供たち、高麗人というロシアから逃げてきた人たちもいます。そこに、日本人も加わるわけです。新城教会の子供たちが、どのくらい耐えられるのか楽しみです。4日間のキャンプです。それは神の国を拡大する働きです。新城教会が田舎にありながら、今まで守られ支えられたのは、日本だけでなく、主が世界に目を向けさせてくださった結果です。何年にもわたってネパールなどで宣教しました。若者たちは大きく成長しました。これからは次世代に関わっていかなければなりません。

そして信仰の盾です。
悪魔は火の矢を放ちます。これは疑い、恐れ、誘惑、落胆、病気、経済的困難など、私たちの信仰を揺るがし、主から引き離そうとする様々な攻撃です。信仰の盾は神への絶対的な信頼とより頼みを表します。神が真実であり、約束を守られる方であるという、揺るぎない信仰がこれらの火の矢を消し止め、私たちを守ります。

クリスチャンであっても、疑いも出てきます。「このままでいいのか・・。この教会でいいのか・・」と感じたりすることはありませんか。時々、あるかもしれません。私もそうでした。「見捨てられているんじゃないの?神に利用されただけじゃないの?」と。そのときは信仰の盾をかざしてください。

私も悪魔の攻撃に何度も遭っています。最も大きな火の矢は、家内が天に召されたことです。

今週で、家内が天に帰って2年半経ちます。家内は2022年12月18日の早朝、天に帰っていきました。2年半は短かったような、長かったような複雑な感じです。

家内に病が見つかったとき、余命3ヶ月、4ヶ月だと宣告されました。私はめちゃくちゃがっかりしました。「なんでこんなことが起こるんだ」と、祈る気力もなくなりました。そのときは悪魔にとっては大チャンスだったはずです。「順を潰すチャンスだ!」と。悪魔は私を天の法廷に訴え、星の世界の支配者たちに指令を出し、地上に展開する「支配と力」を遣わし、私を苦しめたはずです。しかし主が私を助けてくださいました。なんと、当時3歳であった、孫の勝門を使ってくださいました。ある朝、彼の夢の中にイエスさまが出てきて、「ばあばは治ったよ。」と、言ってもらったそうです。

そして彼は、「イエスさまが、ベッドに横たわっているばあばに薬を渡していた」と言いました。ちょうどその頃、私たちは点滴ではなく、服用する抗がん剤を選択した直後でした。しかしその抗がん剤はあまり効果がないと言われていました。手術も不可能ということでした。その薬を飲む決断をした直後でした。服用し始めて3ヶ月後、がんは消えて、腫瘍マーカーも正常値になりました。主は生きておられます!私に打ち込まれた火矢は抜き去られました。手術が可能となり、余命宣告がなされてから、3年以上生きました。

しかし術後が悪く、その一年後、亡くなりました。そして家内が亡くなる現場に立ち会ったのが、私と、娘と、勝門でした。私は神に対して少し腹が立ちました。夢の中に現れて、勝門に「ばあばは治るよ」と告げておきながら、なぜ彼を、ばあばの死に立ち会わせなければならなかったんだと、腹が立ちました。牧師を辞めたいと思いました。家内が死んだその日、信弘先生と上條先生に「俺は辞めるからよろしく」と話しました。

すると二人が、「ちょっと待って・・」と私を引き留めたくらいです。あのとき牧師を辞めていたら、今日はありません。

しかし後に分かったことですが、勝門が夢を見た夜、彼は二本立てで夢を見ていたということでした。

一つ目の夢は、「ばあばは治るよ」という夢でした。しかし、もう一つの夢は、「ばあばは治るけど、その後、死んで天国に行くよ。でも、悲しまなくてもいい。イエス様が地上に帰ってくるとき、ばあばは完全な姿で一緒に戻ってくるから」という夢でした。そしてイエス様は二番目の夢について、「わたしが許可するまで、誰にも話してはいけないよ」と口止めされたというのです。それで彼は、3年半くらい二番目の夢に関しては、口にしませんでした。多分、半分、忘れさせられていたとは思いますが。

私はそのことを家内の死後、彼から聞いて、今までの疑いや、恐れ、落胆は一瞬でふっ飛んでしまいました。それを信仰によって受け止めたのです。信仰の盾を持っているならば、悪魔が射掛けてくる疑いの火矢を、跳ね返すことができるのです。

続いて、救いの兜です。
悪魔は私たちの思考に攻撃を仕掛け、疑いや絶望、不信仰を植え付けようとします。救いの兜は、イエス・キリストによる救いの確信と希望を指します。この確信が私たちの心を悪魔の攻撃から守り、常に神の御心を思考することができます。

「救われていないんじゃないの?教会に長く通っているけど救われているとは思えない?」と感じたりすることはありませんか。時々あるかもしれません。私もそうでした。「見捨てられているんじゃないの?神に利用されただけじゃないの?」そう感じたときは救いの兜をかぶってください。イエス様を信じているならば、救われています。心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。必ずあなたは、神の前に立つことができます。

そして、攻撃の武器として、御霊の与える剣、これは神の言葉です。それは防御だけでなく、悪魔に対して攻撃を仕掛ける唯一の武器です。御霊の剣は、聖霊の力によって語られる神の言葉を意味します。イエス様が悪魔の誘惑を「こう書いてある」と、神の言葉で退けられたように、私たちも、神の言葉を大胆に宣言し、祈りを通して悪魔を打ち破る力を持つのです。

真理の御言葉をしっかりと心に蓄え、悪魔の攻撃に対して「御言葉ではこう書いてある」とイエス様のように対抗できるようになりたいです。同時に、御霊の与える剣は、祈りに対応します。祈りは重要です。

教会の使命としての霊的戦い
教会の使命と存在そのものが霊的戦いです。教会は霊的最前線です。最前線は戦いが最も激しいのです。最前線はウクライナにあるわけではありません。ガザにあるわけでもありません。教会にあるのです。なぜならば「ハデスの門も教会には打ち勝つことができない」とイエス様が語られたように、教会が持っている使命は、敵と戦うことであり、教会そのものが霊的戦いの最前線であるからです。

主イエス・キリストが頻繁に行った悪霊追い出しは、神の国の拡大そのものであり、悪魔とその戦いを無視しては教会は前進しません。教会は人々が抱える霊的な問題、ひいてはそれに起因する様々な問題を解決する力を持つべきです。

悪魔は空中と地を支配していますが、それらを倒すのが教会の役割です。教会によって、悪の勢力は地のどん底に突き落とされるのです。これが霊的戦いの全体像です。堕天使たちは空中と地に展開しています。しかし彼らを地のどん底に突き落とし、地に、神の国を実現するのが教会の使命です。教会は神の軍隊です。兵士たちがいくら武装していても、組織に加わっていなかったら、容易にやられます。一匹狼だったら、一発でやられます。

同じです。教会はキリストの体であって、兵士たちの集合体、軍隊です。持ち場を満たすときに「軍隊」として敵を打ち破ることができます。ゆえに教会に属するとは大変重要です。教会は面倒だから属さなくてもいい、家庭で十分というムーブメントがあります。しかし自分がどの教会に属しているかという、アイデンティティはすごく大切です。悪魔は着ている軍服を見るのです。高校生でも、制服を見るだけで、どこの高校に通っているかわかります。一概に高校と言っても、いろいろあり、制服があります。教会も同じです。教会には、それぞれの役割があって、制服があるはずです。悪魔は制服を見たらすぐにわかるのです。「お前、新城教会の制服を着ているな…。」という具合です。どこの教会に属しているのか、しっかりと、制服を着るのはすごく重要なことです。

同時に、霊的戦いは、被造物管理としての人間と世界全体の回復につながります。

人間が神によって被造物の管理人として創造されたという創世記の教えを霊的戦いの文脈で捉え直すなら、イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちは悪魔の支配から解放され、その影響は個人にとどまらず、家庭、地域社会、国家、さらには自然環境といった広範な被造物全体に及び、回復が始まるのです。

霊的戦いが単に悪魔を追い出す、追い払うだけでなく、世界全体を神の栄光と秩序へと導く、壮大なビジョンを含んでいることを示唆しています。霊的戦いと被造物の回復は、切っても切れない関係です。主を信じる者たちが、敵に立ち向かうときに、被造物は回復していくのです。

作物には害虫が来ます。畑の管理人が、害虫を駆除しないと食い尽くされます。同じです。害虫と同じような存在が宇宙には存在します。それが悪魔や悪霊どもです。被造物の管理人として大事なのは、霊的害虫を駆除することです。

また歴史にも悪魔は関わっています。今年は設楽が原の戦い450年祭だというのです。この地域で1万6千人が数時間の戦いで死んだのです。歴史の背後には暗闇の力が働いています。それが後の世代にも影響をもたらすのです。

戦争を仕組んだのは誰か。徳川家康でも織田信長でもないのです。真犯人は悪魔や悪霊どもです。その存在が、現代にも戦争を画策しているのです。私たちが祈りによって立ち向かっていかなければならないのです。

とりなしの祈りによって、敵は打ち破られます。祈りには、願いの領域と、権威の領域があります。

権威を行使する祈りが、敵を打ち破る霊的戦いの祈りです。

結論
結論として、霊的戦いは表面的な問題解決にとどまらず、その根底にある霊的真理に焦点を当て、神の力と権威によって、真の解放と勝利を経験するための力強い呼びかけです。これは信仰生活をより深く力強く生きる道を示しています。
霊的戦いは単なる抽象的な神学概念ではありません。それは日々の生活や教会の働きにおいて直面する現実的な問題に対して、聖書に基づいた霊的な視点から、根本的な解決策を見出すための包括的かつ実践的な教えです。目に見えない霊の世界の存在を明確に認識し、それに対抗するための神の武具を意識的に身に着けることが重要です。そして祈りという強力な武器を用いて、悪魔の働きに対抗し、最終的には神の国の拡大と個人、家庭、社会、そして被造物全体の回復に貢献していくことの重要性を強く訴えるものです。