2025年9月28日(日)新城教会主任牧師 滝元順
詩篇79篇13節
”私たちはあなたの民、あなたの牧場の羊です。私たちはとこしえまでもあなたに感謝し、代々限りなくあなたの誉れを語り告げます。”
皆さま、おはようございます。今日は9月最後の日曜日になりました。一年があっという間に過ぎますね。今週から10月になります。人生は本当に早いです。「光陰矢のごとし」と言いますが、あっという間に過ぎていきます。
人生を振り返りますと、色々なことがあります。私も歳をとりましたので、昔話が多くなりました。私が小学生の頃は、この近所はたいへんにぎわっていました。近所にはいくつも製材所がありましたので、毎日のようにのこぎりの音が響いていました。また精米所もあり、その音が聞こえていました。それらは新城市の音であり、活気がありました。
しかし、最近は風景が変わりました。私は寂しく思うのですが、朝に外出すると、福祉事業社の送迎車をよく見かけます。ご老人たちを送り迎えする車です。やがては自分の番も来るわけですが、お年寄りの方を支えながら生活が成り立っている日本は、これからどうなっていくのでしょうか。
人生は、あっという間に変わっていくことをよく知っておく必要があると思います。
今日の聖書箇所は詩篇第79篇第13節です。大変素晴らしいみ言葉です。
「私たちはあなたの民、あなたの牧場の羊です。私たちはとこしえまでもあなたに感謝し、代々限りなくあなたの誉れを語り告げます。」
「あなた」とはイエスさまです。イエスさまを牧者として、人生の導き手としているのが、クリスチャンたちです。詩篇第79篇は「嘆きの歌」と言われています。紀元前586年頃にユダの民がバビロンに捕囚されましたが、イスラエルの歴史上最大の悲劇を背景にして詩われたと言われます。しかし、この詩の最後に、絶望的な状況の中でありながら、「イスラエルはあなたの牧場の羊であり、永遠に神に感謝し、その誉れをいよいよ語り継いでいく」という力強い信仰の決意が表明されている詩でもあります。またこの詩は、単なる苦難の記録ではなく、深い絶望の中から、神への信頼を再確認し、信仰を表明する姿を描いており、現代においても苦難の中にある人々に希望を与えるメッセージを持っていると言われます。
今日も、ある方は苦難の真っ只中におられるかもしれません。クリスチャンになったとしても、毎日ハッピーな人生が続くわけではなく、色々なことがあるかもしれません。しかし、私たちの結論は、どんなことがあったとしても、深い絶望の中にあったとしても、神への信頼を再確認して、信仰を表明する態度が必要です。
詩篇第23篇第1節から第3節、この言葉は大変有名です。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに私を義の道に導かれます。」
日本でこの言葉を読むと、「牧場」とは、見渡せば囲いがあり、限られた空間を想像しがちです。しかし聖書が書かれた環境は、限られた空間の牧場ではなく、広大な大草原を意味します。私は先月、モンゴルに行きましたが、多くの獣たち、家畜たちがいました。動物の集団が草原の中に、いたるところにいます。しかし見てみると、羊飼いが動物たちを引っ張っている様子でもありません。自動運転しているように、一定の方向に群れが移動します。不思議だと思いました。そこで聞いてみました。モンゴルの方が言うには、羊の世界にもリーダーがいて、そのリーダーが動くと、他の羊たちも動くそうです。それで羊飼いたちは、たとえ何百匹羊がいても、リーダーだけに指示を出すそうです。リーダーさえうまく訓練すれば、他は従ってくるというわけです。それを聞いて、なんか教会と似ているところもあると思いました。
新城教会は、1950年から始まったとよくお話していますが、私の父と母が北設楽郡津具村に入って伝道を始めたのが1950年でした。教会は簡単にはできませんから、当時は津具金山で働いて自宅を開放して、教会らしきものを始めました。時々、歴史を振り返ると人生に神が知らないうちに関わっていたことがわかります。神様は見えないし、どこにいらっしゃるかわからないですが、知らないうちに私たちは群れの一匹のようであったことがわかります。
これは父が生まれた実家ですが、その手前に広場があります。ここに昔は蚕小屋が建っていて、教会を始めました。私はここで産まれたそうですが、全く記憶がありません。山の深いところです。ここで宣教が始まりました。しかし、色々なことがあり、今は新城市に教会が建っています。先週も少しお話しましたが、新城教会が正式に新城市でスタートしたのは、1956年9月16日でした。豊橋新聞の記事が残っています。教会の古い資料の中に挟まっていました。豊橋新聞はすでにありませんが、その記事をしっかりと読んでみました。
「神の国を築く設楽教会」。
キリストの福音を伝える熱意やみがたくサラリーマン生活を断ち、一介の労働者とまでなって教会建設に努力を注ぎ、いばらの道を歩き続けたが、その至誠は神の御旨にかなう希望の新しい教会が建設されたという話がある。
それは、今南設楽郡新城札木に建っている。「設楽教会」で、主人公はこの牧師滝元明氏である。滝元氏は昭和24年まで、東京の日本農業研究所に勤めていたが、神の福音を伝える人となろうと決意し、生まれ故郷の北設に戻り、下津具の自宅でもキリスト教の集まりを開き、上津具にも足を運んだ。さらに清崎に日曜学校を作るなど、昼夜の努力を重ねた。その日その日の自分の糧は、津具鉱山労働者として、八ツ橋マンガン鉱山の労働者として、最低の収入を得て生活を支えていた。昭和28年3月、新城町の現在の教会のある場所を永住の地として選び、南北設楽に神の国を作り出そうとして、その名を設楽教会として発足したのである。もっともその間も工員として豊橋まで弁当箱を抱いて通い、その収入は教会経営の資金であった。この汗と涙につづられた伝道史により、昭和31年3月に滝元氏は正式の牧師に任じられ、名実ともに設楽教会を主催することになったわけである。この5月には教会も宗教法人と認められたので、来る9月16日日曜日は、教団監督と多くの信徒を迎えて、盛大な祝賀式が行われることになっている。
このように書かれていました。ということは、新城教会として新城で正式に働きを始められて、今年で「69年」になったということです。今まで色々こじつけて70年を祝ってきましたが、新城教会として正式に始まって、今年で69年、来年で「70年」ということになります。聖書の70年は大変重要な意味を持っています。来年が本当の70年だと思います。初期の方々がこの教会のために祈ってくださって、献げてくださって、今があることを決して忘れてはいけないと思います。感謝するべきです。
今日のみ言葉の中にも、「私たちはあなたに感謝し、代々限りなくあなたの誉れを語り告げます」とあります。「代々限りなく」とは、新しい世代にも歴史を語り継いでいく必要がある、ということです。神がこの場所で行われ、計画されている事を実現に至らせるためにも重要です。
私も歳をとりましたから、最近は昔を振り返って、神が新城で、この地域で、どのようなことをしてくださったのかを話しています。一人の目立たない働きでも、後に、大きな働きとして実を結んでいくことに気づく必要があると思います。
先ほど申し上げたように父は、北設楽郡津具村で産まれました。そこで伝道を始めました。八橋というところがあります。元の教会の土台が残っています。ここは設楽ダムの建設予定地で、この集落の方は転居されました。設楽ダムを造る必要があるのかどうかわかりませんが、50年ほど前からダム建設の計画があります。私はここに2歳まで住んでいたそうです。全く記憶にないです。父が村の子供たちを集めて集会を開くと、いっぱい集まったそうです。しかし秋になると秋祭りがあり、この上に八幡神社がありました。クリスチャンは偶像礼拝はせず、唯一の神だけを命をかけて信じる者たちです。その祭りに参加しないとわかったら、迫害が起こって、そこから追い出されてしまったそうです。大家さんが「お前たちに家を貸すことはできない」と言われました。それで途方に暮れていました。
ここに来ていた15歳の娘さんが、「私は今度、結婚するの」と言いました。「15で姉やは嫁に行き」と歌われているように当時は15歳で山を下って清崎というところに嫁いでいくことになったそうです。そこで、私の父に話したそうです。「滝元さん、イエスさまのことを聞いていたけど、私は嫁に行って、もう聞けなくなるのは悲しいから、清崎にも来て、日曜学校やってちょうだい」。
それで父は、八橋から清崎というところまで、昔は道がとても悪くて、それでも自転車に乗って、毎週日曜日の午後は行ったそうです。今は随分道が良くなりました。ここも田舎です。
ある日、お腹の大きな婦人の側を通ると神の声を聞いたそうです。「あの女性にイエスさまのことを伝えなさい」。不思議な声を聞いたそうです。
しかし、そんな妊娠しているご婦人に直接声をかけることはできなかったそうです。次の週、また会場に向かったら、ある人がこう言ってきました。「滝元さん、あんたの話を聞きたいっていう一人の女性がいるから話してあげて」。それを聞いた父は「もしかしたら、お腹の大きな人ですか」。「そうですよ」と言いました。その方はいろいろ悩みがあったようで、イエスさまの事をお話したら、すぐに因習の深い地域にも関わらず、「私は天地宇宙を作ったイエスさまが神さまだと信じます」と言って、信じる決意をしました。
するとその方がこう話したそうです。「私の友人の一人で、悩んでる人がいるから、来週はその人を連れてきたいです」。そして、その方がまた友達を連れてきました。友達は清崎の方ではありませんでしたが、嫁ぎ先が厳しい家で、家を出て避難してきた人だったそうです。とても悩んでおられました。その人にも伝えると、その方もイエスさまを信じたそうです。
実は清崎で二人の婦人がイエスキリストを信じたことは、新城教会の土台となったのです。それが誰かと言いますと、実はこの二人が、当時の写真です。岡本きよさんと見城しずえさんです。最初に出会ったお腹が大きかったのは見城しずえさんで、清崎に避難していたのが、岡本キヨさん、岡本信弘先生のお母さんでした。私の父は追い出され、行くところがありませんでした。大変困っていました。岡本キヨさんは新城市の人でした。当時の茶臼山駅はとても活気がありました。駅員さんが何人もいました。引込線までありました。なぜなら、ここが材木の集積場所であったからです。実はこの二人のご主人たちはここで製材所をやる計画がありました。「私たちは今度新城に行くから、滝元さん。家を見つけるから、あなたも一緒に来ませんか」と言われ、そんな偶然が重なったような形で、私の両親は新城に来たのです。この二人がいなかったら、新城教会はありませんでした。
やがて岡本キヨさんの親戚の方が所有していた土地を取得して、教会が建ちました。当時はこんな感じで、昔の信徒の方々です。この8割、9割は地上にはおられないかもしれないです。この方々の血と涙と汗の結晶として、今、私たちがいることを心から感謝しなければいけません。偶然が偶然を呼ぶような形で、新城市に来るようになりましたが、そこに神の計画があったのです。
お一人ひとり、無駄に生まれたわけではありません。普段通りに生きていますが、その中に神の計画が散りばめられているということです。
今日、午後の集会を楽しみにしてください。プレイズ出版の記念集会があります。プレイズの福祉部門が始まって10年経つということで、それを記念しての集会があります。今日は経緯などのお話を聞くことができ、また、ノブズ餃子を無料で食べさせてくれるそうです。その話聞くと恵まれると思います。偶然のようだけど、素晴らしい神の計画があったことを知るのです。