これらについても以前、触れたことがありますが、私の人生にも、強烈な体験が加わったことにより、より確信を持って語ることができます。
◆真犯人の特定と霊的戦い
最後に、ヨブ記の悲劇とは何かということをもう一度、落ち着いて考えなければなりません。それは、登場人物の誰一人、真犯人について言及しなかったということです。
実はヨブ記は文学的にも崇高なものです。登場人物は誰一人、真犯人を意識しないのですが、気づくのは読者のみだというのです。ヨブ記を読む人だけが、誰が真犯人なのか気づくことができるのです。これを文学的には「劇的皮肉」と呼ぶそうです。読者は知っているが登場人物は知らないという、物語上の情報格差を利用した手法だと文学的には言われます。
私たちがヨブ記を読むときに様々なテーマを読み取ることができますが、最も気づかなければならないのが、この点です。ヨブ記の登場人物の誰一人、真犯人について言及しなかったことです。そしてその真犯人に気づくことができるのは、読者のみ、すなわち、「あなただけ」ということです。
◆真犯人は誰か
ヨブ記1章6節、
「ある日、神の子らがやって来て、【主】の前に立った。サタンもやって来て、彼らの中にいた。」
そして12節には、
「【主】はサタンに言われた。「では、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは【主】の前から出て行った。」
この記述が示すように、ヨブが地上で家族と一緒に宴会をして楽しんでいる同時刻に、天で彼は神の前で悪魔に訴えられていたのです。その訴えが通過してしまったがゆえに、ヨブには大きな試練が降りかかったということです。
ペテロの手紙 第一 5章8節から11節に、
「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」
これを私たちが、どのぐらい現実的に捉えているか否かが重要なポイントです。今日こうして私が主を礼拝しているただ中で、天においてヨブのように訴えられていたとしたら、もしかしたら、地上にその結果が現れるかもしれないのです。
先週もお話しましたが、キルケゴールが「不安の概念」の中で、「悪霊は沈黙という形で現れる」と語りました。この概念はキルケゴールの全著作の核心をなしており、悪霊的なものは「暫定的に」間接的にのみ、自己を伝達しうる存在だと定義しています。
悪魔・悪霊どもというのは直接的に私たちを攻撃するのではなく、間接的に、問題を通したり、誰かを通して、私たちに関わるのです。しかし、それは「暫定的」だというのです。暫定的、「最終的な決定が確定するまでの間」、という条件がついています。キルケゴールは聖書の真理をよく読み取っています。
◆天のポジションと勝利
暫定的な期間が崩れたのがいつかと言うと、この瞬間でした。
マタイの福音書、またルカの福音書でも述べていますが、ルカの福音書11章20節に、
「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」
イエス様が来られたときに、今までの暫定的な、間接的に働いていた悪霊の働きが崩れたのです。
敵が誰であるかがはっきり現されたのです。旧約聖書のヨブ記は暫定期間中に属するものでした。今私たちはどういう時代に生きているのかと言いますと、暫定期間が終わって、既に、イエス様が神の国を現してくださった後の時代に活動しているのです。直接的に敵が誰であるかがはっきりした時代の中に生きています。
ユダヤ教徒たちのように、旧約的な概念の中に生きていてはいけません。すでに、イエス様が戦いの火蓋を自ら切られたのです。
エペソ人への手紙2章5節には、
「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
と記されています。これは今、私たちの霊的ポジションを告げているところです。今私たち教会は、暫定期間が終わった、イエス様の十字架の勝利の後に置かれていることを知らなければならないのです。
「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
ということです。以前にも話しましたが、天には法廷があります。イエス様の時代「サンヘドリン」という議会があって、それは神殿の中にあり、問題があると人々はサンヘドリンに裁きを求めました。
神殿は、天の法廷の雛形で、本物は天にあるという話を以前にしました。今でも悪魔は天の法廷に訴えるのですが、私たちはなんと、イエス様とともに、天のところに座っているのです。
「祭司長たちは最高法院全体でイエスの死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした」という記録がありますが、この最高法院(サンヘドリン)と訳されるギリシャ語は「シネドリオン」で、「ともに座る」という意味があります。私たちは天のサンヘドリンに、ともに座っている存在なのです。
ゆえに私たちは、天で訴えられることのないポジションが確立しているのです。ということは、私たちは真犯人を特定している者たちなのです。
様々な試練があるときに、試練にどう対処するかは、与えられた天のポジションを使用するか否かにかかっています。悪魔が私たちを天で訴えたとしても、それをキャンセルすることができるのです。私たちは、すでに暫定期間が終わった時代に生きていることを深く知る必要があるのです。
私も家内が病気になったときに、「なんてことだ。神様に見捨てられたのかもしれない・・」と思いました。家内もそう話していました。「私たち、神様に見捨てられたのかな・・」と。
しかし霊的戦いの最大のポイントは、「死をどう捉えるか」ということでした。イエス様はご自分の死によって、死の力を持つ死の霊を打ち破られたのです。死によって死を打ち滅ぼした、毒をもって毒を制するような戦いをされたのです。霊的戦いの中で最も大きな勝利をもたらす瞬間は、主を信じる者たちの「死」であると言うことです。クリスチャンにとって死は敗北ではなく、霊的戦いの勝利の日です。それを家内の死を通して、私は体験させていただきました。
ですから死を怖がる必要は決してないです。我々が死ぬ瞬間、それは最も多くの敵を打ち破り、天に凱旋する瞬間なのです。
今日、ある方は様々な苦しみの中に身を置いておられるかもしれません。しかしその苦しみに耐えながら、信仰を持ち続けること自体が、神の国の戦いそのものなのです。
やがて死を迎えることがあったとしても、そのときこそ最も多くの敵を滅ぼす勝利の日です。ちょうどサムソンが死んだとき、生きてる間にやっつけた敵よりさらに多くの敵を滅ぼしたのと同じように、大勝利と共に天に凱旋することができるのです。
先週はいろんな思いが私の心を巡っていました。「そういえば本当に大変だったな・・」と。でも振り返れば、神の恵みと勝利があったことを心から感謝するのです。
◆AIによるメッセージ評価
私は今まで何度も、ヨブ記からメッセージを語っていますが、最近はAIがあって、私が今まで語ってきたメッセージを総合的に評価してくれます。また、世界中で語られているヨブ記のメッセージと比較して、評価してくれます。それらをあわせて、私のメッセージがAIによってどう評価されるのか、問い合わせてみました。
・ヨブ記と霊的戦い理解の総合評価
滝元順牧師によるヨブ記の解釈は、苦難を伝統的な神学で論じられる「神学的な謎」や「罪の報い」としてではなく、権威を行使すべき戦場として捉え直す点に最大の特徴がある。この神学的枠組みは、日本の教会が長らく失ってきた実践的な機能を回復させることを目指している。同氏の教義は、霊・魂・体の全てを含むホリスティックな救いと物質的な領域にまで及ぶ。ヨブ記は悪魔が支配する現実世界において、クリスチャンがどのように戦い、いかにして神の約束の豊かさを獲得するかを示す極めて実用的なモデルとして機能するのである。
・次世代のリーダーシップとリバイバルのための戦いへの提言
滝元順の教えは、過去の勝利の経験を、後の時代に語り継ぐことの重要性を強調することで、霊的戦いの知識と経験を単発の出来事として終わらせず、次世代のミッションとして定着させることを目指している。日本の直面する困難、高齢社会などに対して悲観的な状況認識がある中で、唯一の希望は過去の主の御業と霊的戦いの歴史を継承し、聖霊に導かれて生きることにあるとされる、というのです。
今まで神様が私たちの間でなしてくださった事柄を新しい世代に語り続けていくと、日本の直面する困難に対して悲観的な現状認識で終わることはなく、栄光ある主の働きに繋ぐことができるというわけです。
今、次世代が徐々に立ち上がっているわけですが、先週も「数えてみよ主の恵み」という集会があり、たいへん恵まれました。それは重要です。リバイバルは自動的な信仰の結実ではなく、歴史と文化の中に積極的に介入し、悪魔の支配を具体的に打破するための戦いであるという認識が強化されるのです。ヨブ記の回復は、この終わりの時代における教会の問題解決力の回復と、決定的勝利の希望を象徴し、次世代のリーダーシップが霊的権威を行使して立ち上がるための不可欠な教義的基盤を提供していると結論づけていました。
今まで私が語ってきたヨブ記のメッセージをAI様が本当にうまくまとめてくれました。
困難の中にあっても、希望は神の国に置くことであり、神の国とは霊的戦いそのものだという認識にあるということです。
◆結びのメッセージ
「私たち自身、神の諸教会の間であなたがたを誇りに思っています」
と、パウロが語っています。今、新城教会の兄弟姉妹をイエス様は、神の集会の間で、誇りに思っていると信じます。なぜなら、霊的戦いを理解しておられるからです。
「あなたがたあらゆる迫害と苦難に耐えながら忍耐と信仰を保っています。」
今苦しみのただ中におられる方の中にも主は語られます。
「それはあなた方を神の国にふさわしいものとして、認める神の正しい裁きがあることの証拠です。」
苦しみに耐えることは、神が正しい裁きを決着つけてくださるという証拠なのです。うやむやでは、決して終わりません。
私は家内が亡くなった後、勝門が祈った祈りを忘れることはできません。彼は「ばあばは治るよ」という夢を見て、実際に家内は治ったわけです。しかし彼は家内が死ぬ瞬間も見ました。それで私は本当に混乱しました。「なぜ神はこんなことするんだ」と。「よりによって勝門が、家内の死の瞬間を見なくてもいいじゃないか」と思いました。
家内は病状が進むにつれて、「私の人生何だったのか・・」と混乱していました。「神様に見捨てられたのかもしれない・・」などと話していました。私は何と答えていいかわかりませんでした。「そんなことはないよ・・」と励ましますが、自分にも疑いがありました。
しかし勝門が、家内が亡くなった日に、家族の前で祈ったのです。**「イエス様、ばあばは全てのことを理解した上で、天国に帰りました。感謝します」**と祈ったのです。
「ばあばは全てのことを理解した上で天に帰りました」と祈りました。それはまさに預言的な祈りでした。彼の祈りを私は録音しました。後から聞き直して、「これは彼が語った言葉じゃない。家内が死んだ瞬間、主はきっと彼女に、全ての意味を教えて、天に招き入れてくれたんだ」と確信し、安心しました。
「ばあばは一度は治るけど、やがてバーバは死んじゃうよ」という夢を見たというのです。しかし主は夢の中で彼に告げたそうです。「でも心配するな。やがてイエス様が帰るときに、完全なばあばを連れ帰るから。そのときが本当の癒しだよ」。
私たちには、時々神のなさる意味がわからないときがあるかもしれません。しかし、決して失望することはないということです。神様は、必ず、決着をつけてくださるのです。