2025
神が働きを加速される年!
〜この神の国のために生きる〜

2025年10月19日(日)新城教会主任牧師 滝元順

テサロニケ人への手紙 第二 1章4節〜5節

”ですから私たち自身、神の諸教会の間であなたがたを誇りに思っています。あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。

それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しいさばきがあることの証拠です。あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。”

おはようございます。ハレルヤ。ヘブンリーキングダムの賛美を聞くことができて、感謝します。

◆神の国と苦難
人生には様々な戦いがあります。しかし、パウロは「あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです」と告げています。

神を信じても、様々な苦しみや戦いはあります。聖書の世界、教会の歴史は、迫害に次ぐ迫害、苦しみの連続でした。「真の神を信じたのになぜ」という気持ちもあったと思います。

しかし、そんな初代のクリスチャンたちのために、パウロはテサロニケの人たちに向けて、

「ですから私たち自身、神の諸教会の間であなたがたを誇りに思っています。あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しいさばきがあることの証拠です。あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。」

という言葉を語りました。これは迫害による苦しみでしたが、迫害だけにとどまらず、イエスを信じる信仰者として遭遇する様々な戦いと苦しみは、一言で言えば、「神の国のため」なのです。

今日も様々な試練の中で苦しんでいる方がおられるかもしれません。クリスチャンになったことで、家族から迫害されたり、会社の立場などで大変な状況にあるのかもしれませんが、それら全ては、神の国のための戦いであり、そのための苦しみであるということです。

詩篇58編11節には、

「こうして人は言う。「まことに正しい人には報いがある。まことにさばく神が地におられる。」」

「神はいつまで私たちを放っておかれるんだ・・」と思うことがありますが、「まことにさばく神が地におられる」のです。

世界情勢を見るときに「神はこの状況をいつまで放っておかれるのだろう」と思うことがあります。しかしここには「まことに」という言葉が二回も使われています。これは「確実に」ということです。世界に裁きを下し、正しい判断を下してくださる神がおられるということです。

この節は単なる道徳的な教えではなく、地上で不正がまかり通ることはなく、必ず神が介入し、正しい者には生き方に応じた必然的な実りが与えられ、神の裁きが実現するという、現実的な神の主権と正義の実現への熱烈な信仰告白であると解説されていました。

神の国を実現するためにはどうしたらいいのでしょうか。それは神の義を身にまとい、クリスチャンとして、苦しみの中を耐えながら生きること自体が結実そのものなのです。何か特別な努力を必要するというよりも、私たちが社会の中、家庭の中で、キリストの証人として生きること自体が、神の国の到来のための戦いそのものなのです。

ペテロの手紙 第一 5章10節・11節には、

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」

神の国を実現するための条件は、一言で言えば、「苦しみ」ではないかと思われます。時々、人生の中で様々な苦しみを体験しますが、それが神の国の実現のために重要な要素であるのです。

◆個人的な試練とみことば
私がなぜ、このような話をするのかと言いますと、今から6年前、2019年の10月のこの週、私にとって信じられない大きな試練が始まったからです。それは家内がこの週に膵臓がんが発見されたからです。

2019年はかなり忙しく、様々なところに奉仕に出かけて行きました。10月は、アメリカから帰国後、四国に行って奉仕し、家内が「疲れた・・、何か体の調子がおかしい」と言うので、星野先生のところに行って血液検査をしました。すると翌朝、電話があって「すぐに大きな病院で診てもらってください」と、紹介状をいただきました。それで近くの総合病院に行きました。

私は大した病気ではないだろうと思っていました。様々な検査が終わり「診察室に入ってください」と呼ばれました。家内に「自分で行って聞いてきて」と言うと、「ご主人も一緒に来てください」と言うので入りました。すると医者が開口一番、目の前のレントゲン写真を示して「ここにがんがあります。膵臓がんです」と告げました。膵臓がんは「がんの王様」と呼ばれるものです。

そのとき家内は「私はこれからどのぐらい生きることができますか」と落ち着いて聞きました。すると医者は、「そうですね。この具合だと、3ヶ月、4ヶ月というところではないでしょうか」と答えました。

それ以上に、がんが胆管を押しつぶし、胆汁が下りていないため、「すぐに入院してください」とのことでした。黄疸が出ている状態でした。本当に青天の霹靂とはこのことで、時間が凍りついたような瞬間でした。2019年10月の今週に起ったこの出来事を、私は生涯忘れることはできません。

その瞬間から、私も家族も、また教会の皆様も、大きな戦いの中に入れられてしまいました。「なんてことだ。イエス様のために一生懸命仕えてきたじゃないか。ひどい!」と思いました。

しかし、そのときに主から与えられたみことばが、ペテロの手紙 第一 5章10節の言葉でした。

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」

あの日から6年が経ちました。その間に家内は天に帰りました。振り返れば、私はこのみことばの実現を体験したような気がしています。

家内は3ヶ月、4ヶ月しか生きることができないと言われましたが、膵臓がんが発見されてから3年2ヶ月、奇跡的に生き延びることができました。それについては何回も証をさせていただいています。以来、家内が天に帰らなければ知り得なかった、多くの天の秘密を教えてくださった気がします。また苦しみがどのように神の国で機能するかについても、私なりに理解できた気がするのです。

◆ヨブの苦しみ
聖書の中で「正しいものがなぜ不幸に見舞われるのか」というテーマを扱っている箇所があります。それが、皆さんがご存知のヨブ記です。

「正しい人がなぜ不幸に見舞われるのか」という主題が書かれた書物の中で、ヨブ記はおそらく最も偉大で完璧で深遠な書物と言えると評価されています。神を信じる者を「正しい者」と呼ぶことが出来ます。なぜなら、罪があっても、イエスの十字架によって赦されるからです。

「ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。」

と最初に記されており、彼はひときわ正しい人であったと思われます。しかし彼は信じられない試練を体験するのです。子どもたちを一瞬にして失い、財産も失い、また、自分の健康も失いました。それらが短い期間に連続して起こったのです。

ヨブ記は1章、2章のプロローグにおいて、サタンの訴えが試練の始まりでした。その後、ヨブと友人たちの討論が続き、38章から42章まで、神が語られるエピローグへと続きます。

◆クシュナーの洞察
以前にも一度紹介させていただいたことがありますが、『なぜ私だけが苦しむのか』というクシュナーが書いた本があります。私が試練を体験する以前に、この本を紹介させていたただきました。彼はユダヤ教のラビでしたが、彼の幼い息子がプロジェリア症候群という、どんどん歳をとっていく病に侵され、寿命は長くても10年と言われました。その間に息子はどんどん、老化して死んでいくという、過酷な病でした。

ユダヤ教はキリスト教の前身のような存在で、ラビとは旧約聖書の世界に仕える人ですが、過酷な現実に神に対する恨みつらみがあってもおかしくはありません。それでも神への祈りを続ける意味、あくまでも苦しまなければならないことへの答えを得ようとする意志、著者は逃げずに神に問い続けることで、この本はベストセラーになりました。彼の主張に同意できるところは少なくありません。

人生には突然の出来事があります。ですから、そういうときにどう対処するかは、すごく重要です。

クシュナーは「神は全知全能ではないのではないか」という可能性を考えました。神はこの世で起こる全ての苦しみを防ぐ力を持っているわけではないという可能性を提示しました。これは従来の神学とは異なる、大胆な見解で批判がありました。彼は、神は私たちが直面する苦しみを消し去ることはできないのかもしれないが、その苦しみの中で私たちを支え、ともにいてくださる存在だと考えたのです。
いろんな問題があると、「神はそもそも全能じゃないのではないか・・」と考えてしまう自分に出会います。

また、神への恨みつらみは自然な感情だと彼は述べました。クシュナーは苦しむ人が神を恨む感情を否定しません。それは人間として自然な反応であり、むしろ神に問いかけ続けることこそ、信仰の真の姿であると考えました。
私も恨みつらみとは表現したくありませんが、神に対して「あなたは何を考えているのですか」と、自然に反発する思いが出て来ました。皆さんの中にも、そういう体験がある方はいるかもしれません。それは自然の反応だというのです。

かの有名な弁証家であるC.S.ルイスも奥さんを失って『悲しみが終わるとき』という本を書いており、彼はこの中で個人的喪失体験を通して、神に対する思いや怒り、そして信仰の再構築について率直に語っています。時々、様々な試練に出会うときに神に対して反発的な思いが出てくることも、神は許しているというのです。

そして、クシュナーは苦しみの意味を問うのでなく、どう生きるかを問うということを考えたのです。「なぜこのようなことが私に起こったのか」という問いは、多くの場合、答えが見つからないと語ります。やはりそうですね。私もいくら考えたって、理由を見つけることはできませんでした。

クシュナーはその代わりに「この状況の中で、私はどう生きていくべきか」という問いに焦点を当てることの重要性に気づいたのです。神は苦しみそのものを与えるのではなく、その苦しみの中で私たちを支え、よりよく生きるための力を与えてくださる存在なのだと結論付けています。

神は苦しみそのものを与えるのではなく、その苦しみの中でも私たちを支え、よりよく生きるための力を与えてくださる。私も振り返ればその通りでした。当時3歳児であった孫の勝門を用いて支えて下さいました。今でも彼が私を支えてくれています。「天国の夢を見たよ」とか、「イエス様が帰って来る夢を見た」など、色々と彼から励まされます。神は、生きるための力を与えて下さるのです。

そしてクシュナヘーが最終的に言うには、苦しみは不完全な世の中では避けられないものであると理解すれば、問いが変わると述べています。

彼の最終結論はこれです。聖書の述べる神の創造とは、混沌に秩序を与えることであり、今なおその作業は継続中です。世界に混沌が未だにある以上、混沌の中には不条理な苦しみが理由もなく存在しているという結論でした。

いつも話しているように、私たちは、天地創造から始まって、新しい天と新しい地の創造のただ中に存在しているのです。ですから、神の秩序を与える作業のただ中に住んでいるということは、世界に混沌が未だあるのは当然で、それゆえに、混沌の中にある不条理というのは、避けて通ることができないというのです。

私たちは新しい天と新しい地に向かう混沌の只中で、管理人として存在しています。ある意味、苦しみ悶えながら、この世界で生きていかなければならないのです。