2022年5月29(日)新城教会主任牧師 滝元順

創世記1章27節

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。』

おはようございます。ハレルヤ!
早いもので、今週は六月に入ります。先日、二〇二二年が始まったと思いましたら、あっという間に半年が過ぎようとしております。私にとって六月は好きな月です。なぜならば英語で六月のことを何というか知っていますか?「ジューン」です。私の名前が付いていますから、好きな月としておきます。
しかし現在使われている暦は、ご存知のように、太陽暦で、聖書暦とは異なります。クリスチャンは、聖書暦を意識する必要があります。聖書は太陰・太陽暦です。

聖書暦によると、今週の火曜日から「第三の月、シワンの月」に入ります。第三の月について、聖書にどんな記録が残されているのかと言いますと、アサ王の時代、ユダの民がエルサレムに集まって、歴代誌第二十五章十五節、

『ユダの人々はみなその誓いを喜んだ。それは、彼らが心のすべてをもって誓いを立て、ただ一筋に主を慕い求め、そして主がご自分を彼らに示されたからである。主は周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。』

とあります。
六月を意識するよりも、「第三の月」を意識した方がいいですね。この月に、ただ一筋に主を求めると、主が自らを現してくださり、周囲から守り、安息を与えてくださるという約束です。このような素晴らしい月に差し掛かっています。第三の月、六月を期待して過ごしたいと思います。

家内のために祈って頂き、心から感謝致します。二年以上前のことですが、「末期の膵臓癌です。あと三ヶ月、四ヶ月の命です。」と宣告されました。しかしそれ以来、二年九ヶ月ぐらい経っています。本当に元気になって、彼女はよく自転車でいろいろな所に出かけます。一日十キロぐらいは走ります。先週は、設楽原サービスエリアまで、すごい坂ですけれども登りました。電動自転車の威力でしょうか。高い所から街の祝福を祈っています。
また先週は、ベランダのペンキ塗りを一人でやりました。教会にはペンキ屋さんがおられますが、家内を使ってもらえませんか。本当に元気になってまいりました。
主は生きておられます。手術もできないし、手遅れですと言われたのですが、普通では効果がない飲み薬の抗がん剤で、どんどん癌が小さくなって、手術まで到達したからです。今日は伝道礼拝です。家内が今、生きている事だけでも、イエスさまが本物の神であると、お分かりになるのではないかと思います。
二年以上前、「順牧師の奥さんはもう駄目だよ・・」と大きな噂になりました。最近では、クリスチャンでない方からも、「良くなったんですか!」と言われます。『はい、元気に生きております。』と答えると、「良かったですね!私は祈ってましたよ!」って言われます。どこの誰に祈ったのかな?とは思いますが、喜んで涙を流してくれる人もいます。市民も注目していたのでしょう。「イエスさまって本物の神さまかもしれない・・・」と、街の人たちも気づき始めたのではないかと思います。

さて先週は、聖書の暦では、大変重要な週でした。あまり強調されませんが、復活祭から四十日目の日程です。今年の復活祭は四月十七日でした。今日、教会で守っている復活祭の日程は、太陽暦の金、土、日に無理矢理くっつけてあるもので、本当の日程ではありません。しかし今年は太陰暦と太陽暦の曜日が重なり合った年でした。四月十七日は、イエスさまが復活された、ニサンの月十六日と重なりました。
そこから四十日目と言うと、先週の木曜日でした。イエスさまが天にお帰りになった「昇天記念日」です。
使徒の働き一章三節、

『イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れて、神の国のことを語られた。』

四十日後、イエスさまはオリーブ山から昇天されました。私はこの記事を読んで、なぜ、イエスさまは天に帰っちゃったのか?帰らなくてもいいじゃないか!せっかく、よみがえったのだから、ずっと地球で働いていてくれれば、みんな幸せになるのに・・・、どうしてかな?イエスさまも、疲れたのかな、聖霊さまに交代!みたいな感じかと思っていました。
しかし先日、キリスト教雑誌のバックナンバーを読んでいたら、こんな記事がありました。

“イエスの昇天は、イエスがこの地上から取り去られた出来事ではなく、この地上を治めるための王座に昇られた出来事であり、教会に存在理由を与えるものでもあります。これは憂うべきことではなく、むしろ喜びの出来事でした。だからこそ、ルカはイエスの昇天を目撃した弟子たちの反応を次のように記述して、福音書を締めくくっているのです。”

と、ルカ二十四章を引用して、

“・・・昇天の際「雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。(使徒1:9)という表現は、ダニエル書に登場する「人の子のような方」が天の雲に乗って神のみ前に進み出て永遠の王権を受ける記述(ダニエル7:13-14)を彷彿させます。いずれにしても昇天はイエスの「即位」を表していると言えます。”

誰が書いた記事かなと見たら、山崎ランサム先生でしたけれど、昇天とは、「私たちのイエスさまがいなくなっちゃった!」ということではないのです。昇天とは、イエスさまが宇宙の王であることを宣言された日です。
ゆえに、私たちの王はイエスさまだ!と、高らかに、宣言できるのです。その記念日が、先週の木曜日でした。
私たちの王は天皇ではありません。イエスさまです。「イエスさまは王だ!」と高らかに宣言しましょう。

イエスさまは同時に、すべてを創造された神です。今日は創世記一章二十七節から、人の存在の目的について考えてみたいと思います。
創世記一章二十七節、

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。』

この記述を見て、どのように理解されるのでしょうか。やがて神さまに出会ったら、神さまは人間に似ていて、顔があって、両手があって、両足があってという姿形のことでしょうか。それは、私たちにとってたいへん、嬉しいことです。「神は猿をご自身のかたちに似せて創造された。」なら、ちょっとショックですね。しかしこれは、姿形というよりも、性質・能力かもしれません。
人間だけに創造的な部分があります。この近所はド田舎ですが、私たちが幼い頃より、ずっと発展しました。なんと今では新東名が走るようになりました。人間が創造的な能力を発揮して作ったわけです。他の動物って、創造的ではないです。猿が百年経ったら、自分の住処をコンクリートに建て変えたとか、鉄骨に変えたって聞いたことはありません。しかし人は家だって、どんどん変化させます。クリエイティブな部分を持っているのは、神さまと人だけです。
また人には自由意志があります。神さまも自由意志があって、誰にも束縛されずに行動されるお方です。我々人間にも自由意思が与えられています。教会に来るのもよし、来ないのもよし、自由意志で決定できます。これは神さまが人に与えてくださった「神のかたち」とリンクしているからだと思われます。

しかし、「神さまが人をご自分のかたちとして創造された」とは、今話したようなことが中心軸ではないのです。
聖書は今から四千年以上も前に書き始められた書物です。創世記はモーセが書いたと言われますから、四千年以上の月日が経っているわけです。この書が記述された際、当時の人たちが読んで理解できた内容でした。ゆえに、聖書を理解するためには、現代人の視点ではなく、視点を、下げるのか、上げるのかはわかりませんが、四千年前の人たちの世界観に合わせないと理解できないのです。
先日、聖書翻訳に関わった人が、特に「神は人をご自身のかたちとして創造された」という部分もそうだと語っていました。それは、当時の国々の支配と関係があると言うのです。

昔、国々は小さなものばかりでした。日本も江戸時代までは、この辺は「三河の国」と呼ばれていました。地理的な支配範囲は狭かったのです。
しかし世界史を見ますと、だんだんと国の規模が広がって、聖書が記された時代では、エジプトが世界帝国でした。もっと遡れば、世界最初の帝国は、「アッカド帝国」だと言われます。この帝国をサルゴンという王が支配していました。
しかし一人の王が、広い地域を支配するのは、並大抵のことではありませんでした。現代なら、マスコミや、様々な通信手段もあるので、日本のように南北に何千キロとあっても、国際社会は情報を共有できます。北海道からさらに北に行くと、北方領土だ!沖縄から少し西に行くと、台湾や中国があると、みんな知っています。しかし、昔の人たちは地図もなく、分からなかったわけです。
こんな広い領土を、どうやって治めたのでしょうか。サルゴン王にいくら権力があっても、支配は難しそうです。

「神のかたち」という言葉はヘブル語だと、「ツェレム・エロヒム」という言葉が使われていて、「神の像」とも訳すことができると言うのです。神さまは人を「神の像」として造られたというのです。
それはどういう意味かと言うと、領土を区切るために、サルゴン王は、様々な場所に自分の似姿の像を設置したのです。人々はサルゴン像を見かけると、「ここはアッカド帝国、サルゴンの支配下だ。」と認識したわけです。普通、こんな石の像は偶像と同じですから、全く力も、権威もないはずです。しかしサルゴン王が自分に似せて制作し、建てた像ですから、たかが像、されど像です。この石像が国の支配の象徴となり、人々はこの石像に一目置いたのです。敵がこっそりと帝国に侵入して、何かをしようとしても、目の前にサルゴン王の像が立っていたら、下手なことはできなかったのです。壊したり、倒したりしたら、サルゴン王が軍隊を遣わしますから、像自体が王の権威を発していたわけです。

「神は人をご自分のかたちに創造された」とは同じ概念であるというのです。「人」とは、神を形取った像だと言うのです。

イエス・キリストを信じるとはどういうことでしょう。それは、神のかたち、神の像となるのです。
我々は何の力もない存在ですが、様々な地域に、神の像として設置されると、暗闇の力は我々に一目置くわけです。家庭に、学校に、会社に、様々な領域・地域に、神の像として遣わされ設置されると、そこは神の国の領土であるという宣言になるのです。
悪魔は皆さんを見たら、「おっ!こんな所に神の像が立っていやがる!ここには手出しできないなぁ・・・。」ということになるのです。神はご自身の像を、様々な場所に建てられるのです。
今週、様々な場所に入って行かれると思いますが、皆さんは「神の像」です。そのことをしっかりと理解したらどうでしょうか。敵は皆さんを見て、ビビります。

「人は神のかたち」とは、「目に見えない神を現す存在」です。当時、本物のサルゴン王など、一部の人を除いて、誰も見たことはなかったのですが、像を見れば「サルゴン王って、こういう人か・・・。」と、当時の人たちは認識したわけです。
私たちも同じです。クリスチャンになるという事は、目に見えない神さまを紹介する存在となるのです。人々が私たちを見る時、目に見えない神を認識するのです。
私の家内も、どうでしょうか。家内が生きている姿を見たら、「本当に神は存在される。」と分かります。

また「見える像」とは、「代理人」という意味があります。石像が代理などできないはずですが、この石像が王の代理人として機能したのです。像が、王の権威・権力を発したのです。ということは、私たちは神さまの代理人として、様々な場所に遣わされ、神の権威を行使する、代理人となるのです。
特に神さまは、普通では設置不可能な場所に、あえて神の像を建てようとされます。ある方は、なぜ、私はこんな場所に置かれたのか!と言うかもしれませんが、その領域を勝ち取るために、神の代理人として設置されたのです。

さらに人は、「被造物の管理人」として造られたと聖書は告げています。
私たちは、愛と正義を持って全世界を治める管理人です。マンションの管理人は、オーナーから管理に必要な権限を委託されます。マスターキーなんかを使って、普通では入ることができない場所まで入って管理するわけです。
私たちは、神さまから委任を受けて、神が造られた被造物を正しく管理する役割が与えられています。