その後、様々なことはありましたが、今は手術も終わって、すでに、発見以来、二年十ヶ月が過ぎました。手術でいくつかの臓器を切り取っていますから、先週も下痢がひどくて熱が出たりしました。コロナじゃないかと疑われましたが、そうではなく、良かったです。是非とも続けて祈っていただきたいと思うのですが、今は元気にやっています。
聖さん式は、家内のいやしの中で、大きな要素であったことは間違いありません。

様々な試練で脱出口が見えないなら、祈りつつ、聖さん式を行ってみてください。今日は特に、キリストの体として合同の聖さん式です。「キリストのからだ全体の勝利」という意味で重要な聖さん式であると信じます。期待していただきたいと思います。インターネットで礼拝に出席しておられる方々も、共に聖さん式を行って下さい。

聖さん式は、イエスさまとの「契約の場」です。人類は古くから自然に契約を交わしていました。どうしてかと言えば、人を創造された神は、契約を結ばれる神だからです。
今から十年くらい前、タイでリバイバルミッションが開催されました。タイ北部にカレン族という人たちが住んでいます。大変、可憐な人たちですが、クリスチャンが多くいます。そこで集会を持たせていただきました。
彼らは古代の契約のスタイルを今にまで保っている部族であると言われます。
彼らは三段階の契約レベルを持っています。まず第一は「共に食事をする」という契約です。食事を共にするのは契約の一種だと言うのです。これは「当分の間、平和を保つことを意味する」軽い契約だそうです。
二番目の、より効力のある契約は、「共に木を植える」そうです。木が生きている間は、平和が保たれる契約です。日本は国家神道で失敗を犯しました。しかし敗戦後の日本で何がなされたのでしょうか。昭和天皇により、全国植樹祭が行われたのです。天皇が全国を巡って、木を植えたのです。あれは緑化運動ではありません。神道の神々との契約でした。

さて、最も重要な契約は何かと言ったら、部族長が、自分のモモを切って、血を流してその血を混ぜてお互いの唇に塗ると言うものです。この血の契約が、最も強い契約となります。この契約は、戦いの最中でも互いに助け合い、「契約当事者が部族長ならば、契約の効力は部族全体に及ぶ。もし契約当事者が個人ならば、その契約の効力は彼の近親と直系の子孫にまで及ぶ。」という「最強の契約」だと言うのです。
日本は契約の時に印鑑を使います。朱肉は赤いですが、あれは疑似血液だと言われます。血判です。最も大きな契約は血を流すことにあるのです。人類はどこからこの方法を知ったのでしょうか。それは神が血の契約を意識しておられるからに他なりません。

聖さん式の原型は、先ほど話したように、「過越」にあります。子羊を屠って、その血を、かもいと柱に塗ったのです。その結果、家が死の力から守られるという、血の契約でした。それは同時に、「エジプトの全ての神々に対する裁き」であったと聖書は告げています。
聖さん式は、最強の霊的戦いの武器です。なぜならば、その背後に、イエスさまの十字架の死による、血の契約があるからです。もっとも重要な、神と人との契約の場が聖さん式にあるのです。聖さん式は、十字架の勝利を自分のものとし、家族のものとする重要な場です。

大きな買い物をする場合、例えば、家や車を買う時には、契約の場を設けます。場がないと、契約は成立しないのと同じように、神さまからの祝福、恵みを受け取るためには、「契約の場」が必要です。イエスさまとの契約書にサインする場が、聖さん式です。

聖さん式の原型は過越にありますが、実際は、イエスさまが最後の晩餐の場で制定されたものです。その場面を読んでみますと、聖さん式は過越の食事会と共にあったことがわかります。
現代においても、過越の祭りは、ユダヤ人たちによって最も重要な祭りとして継続されています。
イエスさまは聖さん式を、ニサンの月の十四日、イエスさまが十字架にかかる前夜に行われました。そこでイエスさまは聖さん式を制定されたのです。
今日、読んでいただきました箇所は、主から受けたこととしてパウロが引用している箇所ですが、コリント人への手紙第一、十一章二十三〜二十六節、

『私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。』

契約には、双方が履行しなければならない義務が含まれます。私たち側で何を履行しなければいけないかと言うと、「これを行いなさい。これを行いなさい。」と、二度にわたり命令されています。その条件とは、主が再び来られるまで「主を覚えること」と、「主の死の宣言」する事です。

ここでイエスさまは最初にパンを配り、夕食の後、杯を取って、弟子達に分けています。パンを食べるのと、杯を飲む時間に差があります。現代の聖さん式は、パンとぶどうのジュースを一緒にいただきます。しかし最初の聖さん式は、過越の食事会そのものでした。

和やかな過越を祝う食事会のただ中で、最初にパンを食べて、メインの食事をし、一段落した所で、イエスさまは「これを飲みなさい。」と杯を与えられました。
聖さん式は、初期においては、食事会と共にありました。先週から教会カレーが始まりましたが、教会で食べるカレーには意味があります。それも聖さん式の一環であると思うからです。

初代教会の聖さん式は、食事会と共にありました。しかし歴史の途中で、愛さん会と聖さん式は分離してしまったことを以前にお話しさせていただきました。
実は、コリントの教会、聖さん式を行ってはいたのですが、かなり、パウロから叱責を受けています。聖さん式のせいで、コリントの教会の人たちは、弱くなったり、病気になったり、死んだ人たちも多くいたようです。
それはどういう理由からでしょうか。

さて、新改訳二〇〇三において、第一コリント十一章二十七節は、

『したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。』

と訳されています。しかし新改訳二〇一七では、表現が少し変わっています。

『したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、・・・』

「ふさわしくないまま」ではなくて、「ふさわしくない仕方で」と訳が変化しています。訳の変化は、原典の研究が進んだことと、文脈を重視して訳されたのだと思われます。2017はたいへんいい訳だと私は思っています。

「ふさわしくない仕方」とは、何でしょうか。先ほど説明しましたように、初期における聖さん式は、食事会と共にありました。
コリント教会の聖さん式も、食事会と共に行われていたことが記述からもわかります。どんな形の食事会であったのかが、十一章二十一〜二十二節に記録されています。

というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。

コリント教会の聖さん式の食事会は、無茶苦茶になっていました。「腹減った!」いう連中が聖さん式の愛さん会の部分にドッと来て、がつがつ食べているし、一方では、酔っ払いも来ていて、完全に秩序と神聖さを失っていたわけです。それを当時のコリントの文化と習慣に照らし合わせて調べると、いろいろと分かります。

「コリントの信徒たちは、聖さん式をギリシャ各地で行われていた、ギリシャ神話の神々に対する祭りの宴会と同じように考え、ふるまっていた」

コリントの街にはギリシャ神話の神々が溢れていて、年中様々な祭りが行われていました。その祭りには宴会がつきものでした。日本も同じです。神道の祭りも直会(なおらい)と言って食事会があります。仏教もそうです。必ず、食事会がセットになっています。食事会が契約の一部である事を、悪魔はよく知っているのです
特にギリシャでは、まずぶどう酒をギリシャ神話の神々にささげて、そのぶどう酒をがぶ飲みして、祭りを始めました。また動物の肉をギリシャ神話の神々にささげて、祭りの宴会で食べました。人々はそれが楽しくて祭りに集まりました。コリント教会の人たちは、クリスチャンになったと言えども、悪しき文化・習慣的な解放がなされていませんでした。祭りの宴会と聖さん式の食事会を、同レベルで捉えていたようです。

今日の教会において、聖さん式で使用するのは「ぶどうジュース」なのか、「ぶどう酒」なのかで、意見が分かれています。私たちは「ぶどうジュース」を使用しています。しかしある教会では、ぶどう酒が使用されます。どちらが正しい仕方なのでしょうか。
結論から言いますと、ぶどう酒ではなく、ぶどうのジュースが正しい仕方です。なぜならば、過越祭は「除酵祭」という、全ての菌を取り除く祭りと重なっているからです。種なしパンはイースト菌を取り除いたパンです。ユダヤ人たちは、その期間、家中を徹底的に掃除して、様々なバイ菌を取り除くのです。過越の祭りは、「除酵祭」の期間と重なっています。もしも、過越の飲み物にぶどう酒を使ったら、「除酵祭」は台無しになります。だから、原点における聖さん式は「ぶどうのジュース」であったのは明かです。
イエスさまはカナの婚礼で、水をぶどう酒に変えたじゃないか。「だからクリスチャンは酒を飲んでいいんだよ!」という人がいます。しかしよく調べて見ますと、

「当時の一般の著作家たちは、最良のぶどう酒は、甘く、未発酵のものであるという考えを認めている。ローマの作家、プリニウスは、サバと言われる良いぶどう酒は、発酵していなかったと記録している。」

当時、最良のぶどう酒と呼ばれるものは、アルコール分がないものだったのです。まだ発酵していないぶどう液を濾過して、煮詰めたものが、良いぶどう酒と呼ばれるものでした。今日のように、年月を経たオールドではなかったのです。
聖さん式に、どちらを使用すべきか、あまり知られていないのですが、ぶどう酒の使用は「ふさわしくない仕方」に当たります。
コリント教会の聖さん式には、ギリシャ神話の神々の祭りで一杯飲んでできあがった、酔っ払いも参加していたのです。こんな酔っ払いに、聖さん式でぶどう酒を飲ませたらどうなりますか。さらにめちゃくちゃになります。教会は発酵していない「ぶどうのジュース」を使用しなければならなかったのです。
ウェルチ博士は、そのことを知っていて、聖さん式用の未発酵のジュースを作ったのです。
「ふさわしくない仕方」とは、偶像礼拝の宴会との線引きが曖昧であった事が理由となります。神さまは、そんなコリント教会を放ってはおけなかったのです。

「正しい仕方」で聖さん式を行ったら、神の恵みを受け取る、最高の機会となるはずです。聖さん式は、イエスさまの十字架の死の宣言と、復活の勝利を共有する、最高の機会となるのです。

私もコロナ禍と呼ばれるただ中で、災いではなくて「コロナ恵」をいただきました。先週の木曜賛美集会でも語られていましたが、恵みをいただきました。
もしもコロナがなかったら、家で家内と一緒に聖さん式を行うこともなかったかも知れません。そうしたら今頃、家内はどうなったのかなと思います。新型コロナの厳しい戦いのただ中でも、神の恵みは溢れます!

今日は、正しい仕方で、聖さん式を行いたいと願っています。コリント教会のように、偶像の祭りと同レベルでは断じてないのです。イエスさまの聖いからだと血に預かる、厳粛な時間です。正しい仕方に近く聖さん式を行ったら、必ず、祝福されるはずです。