2022年6月12(日)新城教会主任牧師 滝元順

第一コリント人への手紙11章23〜26節

『私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、

感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。』

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!
インターネットにて礼拝されている方々にもご挨拶いたします。
子どもバンドの賛美、すごかったですね。この日に向けて毎週、彼らは練習を積み重ねてきました。なかなかストレートな、「イエスさまを信じたら天国に行ける。信じないと地獄に行っちゃうよ」という賛美でした。でも本当です。それで教会をやっているわけです。この子どもたちが成長して、主のために用いられるように祈っていただきたいと思います。

今日は大変嬉しいです。なぜならば、二年半ぶりに聖さん式を再開できるからです。新型コロナで多くの行動が規制されて、特に飲食のような領域が大きなダメージを受けました。それに関連して、教会で最も大切な聖さん式も、行いづらくなりました。
宗教改革時、ルターやカルビン、その他の宗教改革者たちが礼拝の中心に置いたのが、「みことばと聖さん式」でした。しかしそもそも、現代のプロテスタント教会では、みことばを語ることは中心においても、「聖さん式が刺身のつまのようになっている。」と言われます。本来、聖さん式は、礼拝の重要な要素です。
今日の為に、祈って備えてきましたが、今朝、衛生管理もしっかり整えて、上條先生が祈りつつ聖さん式の準備しました。
聖さん式に使うグレープ・ジュースの銘柄は「ウェルチ」です。それには理由があります。なぜかと言いますと、「ウエルチ」は一八六九年、ウェルチ博士という医者が、聖さん式用に開発した保存可能な未発酵グレープジュースだからです。ウエルチは元々、聖さん式用に開発された商品です。少しでも、意味深い聖さん式となる為に努力しています。

新約聖書の中には「神秘」と呼ばれる事柄が二つほど存在します。それが、「聖さん式とバプテスマ」です。この二つをどのように説明しようとしても、説明はつきません。
聖さん式はどうでしょうか。ぶどうのジュースがイエスさまの血であり、パンが、なんとイエスさまの裂かれた体になると言うのですから。少し前まで、コンビニの店頭に並んでいたのが、どのようにしてイエスさまの血と体に変化するのですか?説明してください!と問われても、説明がつきません。ただ、神秘としか言いようがありません。みことばと聖霊によって、そのようになるのです。
バプテスマはどうでしょうか。水の中に浸かって出てくるだけで、イエスさまの死と葬り、よみがえりを瞬間的にたどると言うのです。イエスさまのよみがえりと同じ立場、イエスさまが十字架で死なれた時、旧約時代の多く聖徒たちがよみがえったように、それに続くものになるのです。それが父と子と聖霊の名によって洗礼を受ける瞬間に起こるとは、これまた神秘です。
新約聖書中、神秘と呼べるものは、この二つであるとプロテスタント教会は掲げています。

この二つは、いずれも出エジプトを指揮したモーセに関連している事が分かります。聖さん式は過越の儀式です。モーセがヘブル民族をエジプトから脱出させた時に、最後に起こった奇跡です。子羊を屠って、その血をかもいと柱に塗り、種の入っていないパンを食べる事、この行為が死の霊が過越される奇跡に繋がったのです。神から派遣された死の使いは、エジプトに住むすべての長男を殺しました。しかし、かもいと柱に血が塗られていたヘブル人の家は、パスオーバー、過ぎ越されて助かったわけです。聖さん式の原点は、過越にあります。

エジプトを脱出した民は、パロの軍勢に追われました。すると目の前に紅海が広がっていて、絶対絶命。しかしそこでモーセが祈ると、紅海は真っ二つに裂けて、民はそこを通り過ぎたのです。パロの軍勢も追従したのですが、水が戻って、彼らは皆、滅んでしまったのです。これがバプテスマの型であり原点です。

出エジプトのモーセの働きとイエスさまの働きは、重なっています。出エジプトからカナンの地に入るパターンは、悪魔の国から神の国に入れられる新約のテーマに対応しています。出エジプトを導いたのはモーセでしたが、新しい出エジプトを導いたのは、他でもない、イエスさまでした。
出エジプトは救いを象徴する歴史的な出来事でした。エジプトというサタンの支配している国から引き出されて、カナンの地、すなわち、神が用意された地に入るのが救いです。私たちは悪魔の支配する世に住んでいますけれど、そこからイエスさまによって脱出して、神の国に入ることができるのです。それを確認するのが聖さん式です。

私は、クリスチャンホームに生まれました。八人兄弟で一人亡くなって七人兄弟の長男でした。お隣は十二人兄弟で、岡本宅は五人。この近所はクリスチャンホームの子どもたちで、溢れていました。
そんな中、私は、聖さん式があまり好きではありませんでした。なぜなら、当時、聖さん式は、洗礼を受けた人以外は受けてはいけないことになっていたからです。その頃は、聖書の理解がたいへん狭かったのです。
私の幼い頃、食糧難の時代でしたが、教会の人数も少なかったので、聖さん式のパンも大きく、ジュースも、今みたいにちょっぴりではなくて、結構、カップが大きかったです。「おまえたちは洗礼を受けていないから、聖さん式には参加出来ない。」と差別されて、子どもたちがお腹が空く、お昼少し前に聖さん式の蓋が開けられました。会堂中に甘いグレープジュースの香りが広がって、「俺も食べたい!」ということで、私は洗礼を受けました。

しかしもう一つ、聖さん式に関して、私は悪いイメージを持っていました。父は、聖さん式を行う度に、コリント人への手紙第一、十一章二十三節から終わりまでを読みました。そこにはこう書かれています。十一章二十七〜三十節、

『したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。』

この箇所を読んで、自分を省みろと言うわけです。「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲むなら」、「弱くなったり、病気になったり、死んだ者も大勢いる」と言うのです。なんと恐ろしい儀式でしょうか。なぜ、こんな危険なものを教会で扱うのか、毒入りのパンとジュースを配るようなものだ、と思っていました。自分を省みれば、あまり正しい生活もしていないし、聖さん式に関わるのは、まずいかもしれない・・と、毎回、心配でした。
私は将来、牧師になることはないと思うけれど、もしも牧師になったら、こんな習慣は撤廃してやろうと考えていました。

しかし、パンデミックの只中で、私は聖さん式が重要であることを、強く体験し、意識するに至りました。
また「もしも、ふさわしくないままで」という真の意味についても、理解できました。後ほどお話しさせていただきたいと思います。

いつも語っているのですが、二〇一九年十月から、私たち夫婦に大きな試練が襲いかかりました。
それは、家内に膵臓癌が発見されて、三ヶ月、四ヶ月の命と余命宣告がなされたからです。これからどうしていいのか、全く分からない状態に陥りました。そんな中、教会上げて家内の為に、真剣に祈ってくださいました。
しかし、それに覆い被さるかのように起こった試練が、新型コロナの感染拡大でした。感染したらどうなるのかも不安でしたし、目の前では家内が死にかけていました。その頃、家内には腹水が溜まって、あたかも妊婦のようでした。また、膵臓癌には強い痛みがあって、麻薬を使わないと痛みが止まりませんでした。どう見ても三ヶ月、四ヶ月の命だろうと思いました。コロナが始まった頃は、すでに三ヶ月くらいが過ぎていましたから、家内の余命はあと一ヶ月くらいかと思われました。八方ふさがりのただ中で、聖書を読んでいたら、初代教会において、聖さん式は、各家で行なわれていたことに気づかされました。
聖霊が注がれた後、クリスチャンたちは、家でパンを裂いて聖さん式をおこなっていたのです。すると、「主は、毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」というのです。聖さん式を行うと、人々が救われたのです。聖さん式は「沈黙の宣教」だと教えられました。そして、
コリント人への手紙第一 十章十三節に、

『あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。』

私は重大な問題を目前にして、このみことばを読みました。しかし聖書にはこのように記されているけれど、今、現在私が体験している問題から脱出するのは、どう考えても、不可能だと思いました。脱出と言ったら、この世から出ていくしかないだろうと思いました。
治療に当たり、家内の膵臓の細胞が調べられて、「これは進行性の膵臓癌に間違いありません。」と言われました。こんな試練から、どうやって脱出するのだろうかと思いました。
しかし、このみことばの次に、何と記されているのかというと、十章十四〜十六節、

『ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。』

試練からの脱出が、聖さん式と関連していることに気づかされました。先ほど聖さん式は神秘だと申し上げましたが、みことばと聖霊によって祝福されたパンとジュースは、キリストのからだであり、血であると言うのです。
どこでどのように変化するのか分からないけれど、何しろ、イエスさまと一つになるわけですから、変化が起こらないはずはないだろうと思い、家内と共に家で聖さん式を始めました。

当時、「どの薬を使っても、あまり差はないだろう。」と言うことと、家内を少しでも家でゆっくりさせてやりたいと思い、「S1」という抗がん剤を選択しました。それは服用するタイプの抗がん剤で、効果はあまり期待出来ないという薬でした。何もしないよりはいいだろうと言うことで始めました。
朝二錠、夜二錠服用します。これを毎回、聖さん式と共に飲みました。ここしか頼るところがなく、信じて聖さんを続けました。皆さんに真剣に祈ってもらうと共に、朝と夜の二回、必ず、薬を飲む度に、薬も聖さん式の一環として行いました。
そうしたら何か起こったのか。すでにご存じのように、二〇二〇年一月末くらいから、服薬を始めたのですが、膵臓癌の活動の指標となる腫瘍マーカーが、その頃の家内は、四千近くあって、普通の人の百倍以上の値でした。かなりの勢いで、癌細胞が体内で活動していました。
家内の癌は三センチで見つかったのですが、一ヶ月後には、すでに五センチにもなっていました。特にたちの悪い癌でした。

抗がん剤は、ワンクール三週間服薬して、結果を評価するのですが、第一回目の服用が終わり、血液検査が行われました。医者が検査結果の画面をじっと見つめながら、「あっ、マーカー上がってる。」と言うのです。それを聞いて、もう駄目だなと思いました。すると、「あっ、間違えた。下がってる。」と言うのです。なんと第一回の服薬でマーカーが半減していました。
一月末から服用を始めて、六月には、マーカーは正常値となり、癌は瓦解していきました。手術はできないと言われていたのが、手術対象となったのです。