〜この地に植えられ70年〜
教会はどこにある?

ヘブル人への手紙の十二章はこのように表現しています。

ヘブル十二章二十三〜二十四節、

 

『また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。』

 

「天に登録されている長子たちの教会」ですが、地上での役割を終えて、天に帰った長子たちの教会です。長子と聞くと長男をイメージするかもしれません。しかし、イエス・キリストを信じるならば、皆が神の子どもで、長子です。ゆえに神の国を相続できるのです。相続権は長男に限られていました。ヤコブとエサウの話しでもそうですが、イエス・キリストを信じると、長男と同じ立場になって、天に登録される長子たちの教会に属するのです。私たちは地上での役割を終えたら、その教会に加わるのです。

 

天の教会は、「勝利の教会」です。しかし地上における教会は「戦う教会」として表現されています。

天に帰った人たちは、どうして天に到達できたのでしょうか。救いは神の一方的な恵みですが、黙示録によると、「彼らは、大きな患難から抜け出てきた者たち」だと告げています。天の教会のメンバーたちは、「地上での苦しみに耐え、闘いに勝利した者たち」なのです。

 

家内も天に帰る前は、肉体的にも、精神的にも、たいへん苦しんでいました。それを見るのは忍びなかったです。しかしあのような苦しみ、悲しみ、戦いは、天の教会に属するための戦いでもあったのかと思います。

クリスチャンでも、様々な苦しみや悲しみに出会います。日々、それらに耐えながら信仰を守らなければなりません。

 

黙示録は、未来に関する預言書として捉えがちですが、一義的には、ローマ帝国による激しい迫害に耐えていた、聖徒たちに対する希望の書として提供された書です。

当時、多くのクリスチャンがローマ帝国の迫害によって殉教していました。苦しみと共に、殉教して行きました。黙示録では、天のみ国は、苦しみや悲しみを通過した時に到達できると励ましているのです。

地上の教会と、天上の教会は、決して分離しているので はないのです。神の前には一つであり、天の教会には、天の教会の役割があり、地上の教会には、地上の教会の役割分担があるのです。二つの教会が、互いに勤めを果たしていく時、天にある勝利の教会が、再臨とともに、地上に降りてきて、新しい天と新しい地が完成するのです。

 

ヘブル人への手紙には、天に神殿があると記されています(ヘブル8章)。

かつてイスラエルには、神を礼拝する地上の神殿がありました。それは天の神殿の影であると告げています。天の神殿では、大祭司イエスさまが、ご自身の血を携えて至聖所に入り、私たちのためにとりなしをしてくださっています。地上の神殿は、天の神殿のコピーです。

神殿には様々な機能がありました。その一つが、最高法院サンヘドリンでした。神殿には裁判所がくっついていたのです。何か問題があると、民は神殿に行って、様々な訴えをしていました。そこには七十一人の議員たちがいて、政治的、宗教的、民事的な訴えに対応していました。

それが天の神殿の機能のコピーならば、天にも法廷があるはずです。天には法廷があって、天にいる諸々の悪霊が、神の民を訴えるわけです。
天上にいる諸々の霊は、クリスチャンが犯した罪や不備な点を、天のサンヘドリンに訴えるわけです。その訴えを知らないと、地上に様々な問題が起きるわけです。天の訴えを取り除く権威は、どこにあるのかというと、「教会にある」のです。地上の教会は、戦いの教会だからです。

 

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。』(エペソ人への手紙六章十二節)

 

とパウロは、エペソの教会に語りました。教会とは、悪魔の王国に立ち向う、神の組織です。特に天上に訴えを持ち上げる諸々の悪霊に対して戦い、勝利する役割です。地上の教会がこの役割を放棄すると、神の国はなかなか実現しません。地上の教会がその役割を担っているからです。

しかし同時に、天上の教会も関わっていると私は信じています。

 

家内も今、天上の教会に加えてもらい、新城教会から帰った兄妹姉妹たちと共に、地上の兄妹姉妹を訴える、諸々の霊の訴えを、却下する為に、一生懸命、働いているのではないかと感じています。地上の教会がその事実に気づいて、天と地の連合軍を形成して戦わないと、なかなか勝利が来ないのではないかと思います。

教会が単に地上だけの存在ではなく、天上にも存在し、天上の教会と地上の教会が合同して、神の国の実現のために働く意味は大きいと感じ、信じています。

聖書を読んで、知識的には分かっていたつもりですが、地上だけに目が留まってしまい、地上の教会だけが祝福さればいいように考えていました。「死んだ人たちはイエスさまが管理してくれているから適当にやって!やがて復活してきたら、その時はよろしくね。」みたいな分離したイメージが私にはありました。

しかし家内が天に帰ってから、天と地がくっついた感じがするのです。天に帰った聖徒たちが、地上の教会に、強い関心を持って、真剣に祈っているのではないかと感じるようになりました。

ヘブル人への手紙十二章一節、

 

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪とを捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。』

 

天の教会の教会員たちは、私たちの応援団です。地上にある戦いの教会の様子を見ながら、一喜一憂して、大声を張り上げてとりなし、祈っている集団であると信じます。

皆さんの親族の中で、すでに天国に行かれた方々、多くおられると思います。その方々は、天国の花園で寝転がって毎日ピクニックをしているのではありません。天の大群衆の中に身を置いて、常に、地上で教会を通して行われている戦いに関心を持って、大歓声をあげていると信じます。

つい最近まで、コンサートとか、スポーツの試合時に、歓声をあげることはできませんでした。天国ではマスクは要りませんから、大声で声援を送っているはずです。

 

三月になると、マスク着用も自由になるそうです。新城教会もマスクしたい人はマスクすればいいし、したくなければしなくてもいいように、自然に変えていけばいいと思っています。コロナの長い季節も終えて、今年は大きな喜びの季節になってほしいと、心から願っています。その秘訣は、天の勝利の教会の会衆と、地上の会衆が分離するのではなく、ひとつとなって戦う時に実現するはずです。

家内が天に帰って二ヶ月と一週間。やはり寂しいです。結婚されている方々は、やがて、どちらかが先に逝きます。特に最悪なのは、奥さんを先に失う私のようなバターンです。

以前にもお話ししましたけれど、男が奥さんを失うと三年以内に死ぬ人が多いそうです。しかし奥さんはご主人を失うと、やれやれ、みたいで、三十年長生きするという話を聞きました。私もこの三年が勝負かなぁと思って、死なないように頑張っています。

 

これ見てください。私と家内で、去年のこの季節に撮った写真です。

 

これは先週、同じ場所で撮った写真です。なんとも悲しい写真じゃないですか。私は時々、子どもたちに「俺は寂しいんだぞ」とアピールする写真を撮って、半ばジョークで送りつけています。孫たちにも送っているのですが、ばぁばと一緒に撮った写真とか送ると、「もう送らんで。泣ける・・・。」と言っていました。

家に帰っても誰もいませんから、夜なんか寂しいです。孫たちに泊まって行けと言っても、帰ってしまうのです。「泊まったら千円!」なんて言っても、「いらん」とか言って帰ってしまうのです。本当に冷たいなぁと思うのですが、これがずっと続くのか・・・と思うと、つらくなります。

 

でも先週、ある先生のメッセージを聞いたら、慰められるというか、素晴らしかったです。初代教会の礼拝に関して、こんなふうに話していました。

 

“初代教会では、毎週の礼拝が死んだ人たちを覚える場であった。”

 

どうでしょうか。私たちの礼拝で、毎週死んだ人たちを覚えるでしょうか。今のところ、滝元享子を覚える場になっているかも知れませんが、すべての召天者を覚えてはいないです。しかし初代教会では、礼拝自体が死んだ人たちを覚える場だったと言うのです。それには理由があって、

 

“迫害の時代、教会は毎週のように殉教者を出した。それで、聖餐で主の死を覚えると同時に、主にあって死んだ人々を思い起こした。”

 

と言うのです。当時、ローマ帝国の迫害の嵐が吹き荒れていました。先週は礼拝に出席していたあの兄弟、今週はいない!どうして?ローマ兵に逮捕されて殉教した。

ここで一緒に礼拝していたあの姉妹はどこへ行ったの?「先週、殉教しました。」それが毎週のように続いたのです。だから礼拝は自ずと、主の死を覚えるだけでなく、共に礼拝していた人たちをも覚える礼拝になったというのです。

特に、聖さん式の時に主の死と共に、天に帰った兄妹姉妹を覚えたと言うわけです。

 

実は私、家内が亡くなってから、毎日、朝起きたら、聖さん式を一人で行っています。以前は家内と共に行っていた習慣ですが、一人になっても、止めずに行っています。聖さん式は、肉体を持っている地上の教会員の役割だと思うのです。

なぜならば、イエスさまは言われました。

マタイの福音書二十六章二十九節で、

 

『わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」

 

天国に行った聖徒たちには、肉体がありません。もちろん天国の食物はあるとは思いますが、パンとぶどうジュースのような、物質世界のものをいただくことはできません。

聖さん式は、イエスさまが地上で制定された神秘です。地上の教会が、天の会衆も地の会衆も含んで、新しい契約を宣言しなければいけないと思い、毎朝、聖さん式を行うようになりました。

 

アウグスティヌスという、四世紀くらいのキリスト教に多大な影響を与えた教父がいます。彼は神学者でもありました。若い頃彼は、放蕩の生活をしていたのですが、お母さんのモニカの祈りによって救われ、偉大な主の器となったわけです。

母モニカが死にかけた時、アウグスティヌスをはじめ、回りの人たちは、母をどこに葬るかで、論議したと言うのです。故郷の北アフリカに帰る港で容体が悪くなったそうです。故郷に連れて行こうか、それともこの辺に葬ろうか・・・。

その話し合いを小耳に挟んだモニカが、こう言ったそうです。

 

“母モニカは、アウグスティヌスに「私はどこに葬られてもかまわない。私たちは主の祭壇で会えるから」と語った。「主の祭壇で会う」とは、礼拝が地上だけではなく、天につながっていて、先に天に帰った人々、天使たちとともに、神を礼拝するものであることを示している。”

 

聖さん式とは、天の会衆と地の会衆が、聖霊によってひとつとなる瞬間です。

日本人が最も関心を持っているのは、祖先崇拝です。そこにあるのは、先祖の霊が帰ってきて、共に食するという概念です。けれども、先祖が帰ってくるのではなく、「先祖のふりをした悪霊」が来るのです。祖先崇拝とは、悪魔の王国に引き寄せようとする悪魔が最も成功している策略です。

悪魔は、必ず、神さまの真理を模倣します。本来は聖さん式に天が開けて、天の教会が降りてきて、地の教会と一つになる瞬間です。モニカが語ったように、そこで天に帰った聖徒たちと会うことができるのです。

モニカはそのことを知っていて、「自分の体がどこに葬られるかは構わない。私たちは祭壇で会えるのだから。」と語ったのです。聖さん式とは、天上、地上の兄妹姉妹が一緒に主を礼拝できる神秘的なひとときです。