道・真理・いのち

2025年10月5日(日)新城教会副牧師 滝元光彦

ヨハネの福音書14章6節
”イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」”

ハレルヤ。皆さん、おはようございます。今日、こうして礼拝の時を持てることを感謝します。

今日は、ヨハネの福音書十四章六節から、皆様とともにみことばを受け取っていきたいと思います。ヨハネの福音書十四章六節、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とイエスさまが言われた箇所であります。この背景としては、ヨハネの福音書の十三章から十七章までは、イエスさまが十字架にかかる前に、過ぎ越しの祭りを前に食事をとっている最後の晩餐と捉えられる場面で、イエスさまがまもなく十字架にかかり、この地上を去っていくことを語っています。弟子たちへの「告別の説教」とも呼ばれる箇所にあたります。
今日はこの「告別の説教」、ヨハネの福音書十三章から十七章の中から、「道」というテーマで、みことばを通して神さまのみ思いを受け取っていければと思います。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。イエスさまがこの地上を去るということは、イエスさまが全人類のために、全被造物のために十字架にかかり、自ら命を捨てて死に、死の力を打ち破りよみがえり、父なる神さまのみもとへ行くということです。父なる神へ至る道は、神ご自身について真理を知っていくこと、そのことによって、神さまが与えてくださる永遠の命にあずかっていくことです。イエスさまはこの地上に神の子として、そして一〇〇パーセント人として来られ、私たちの罪の身代わりとなられました。私達と全く同じような姿になって地上で生涯を過ごされ、そして十字架の贖いと復活を成し遂げられました。そのことを通し、人々がイエスさまを通して神さまを知り、そして神さまが備えられた永遠のいのちに預かる道を開いてくださったのです。それゆえに、イエスさまご自身が道であるということです。イエスさまご自身は神ご自身でありましたから、イエスさまを知ることは、神さまご自身を知っていくことです。また、イエスさまが地上で人とともに暮らされたことで、神さまと人との関係をイエスさまを通して知ることができます。まさにイエスさまは神の真理です。イエスさまを通して神の真理を知ることができ、また、イエスさまご自身の言葉とそのみ業の中に、神さまの真の命があるということです。それ故に、イエスさまが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と語られたわけです。

このみ言葉と共に、特に「道」というテーマに思いを巡らされたのが、先月八月に行われたモンゴル・ゴビ砂漠リバイバル・ミッションです。イエスさまが道であると強く覚えさせられました。今からモンゴルのいろんな道を通らせていただいたことをお分かちしたいと思います。
モンゴルに到着して、空港からウランバートルの首都の方に向かっていきました。大渋滞でした。十六キロくらいの道のりが二時間半ほどかかりました。ダランザドガドという街のゴビ砂漠の教会で集会をしました。ウランバートルからその街まで十時間ぐらいかかりましたが、バスに乗って向かっていたのですが、街を直前にバスが壊れてしまいました。そして、新しいバスに乗り換えました。私たちが進む道の中には、いろんなことが起こってきます。モンゴルの道はまっすぐです。

本当に気持ちが良いです。この道をまっすぐに爽快に走っていくなんて良いなと皆さんは思われるかもしれませんが、結構でこぼこしていて揺れます。時々大きな穴があったり、工事中の場所があったり、また砂利道もあります。そこを一〇〇キロぐらいのスピードでバスが走っていきますので、常にジェットコースターに乗っている気分でした。そして山に行くときも、悪い道も通ります。

また、ハイキングをしましたが、この谷合の川が流れているところを歩いてきました。私は川を飛び越えようと思ったら、ちょうどその川の岸辺がぬかるんでいて、足が踏み込んでしまい靴を濡らしてしまいました。私たちの人生の歩む道では、常にいろんなことが起こってきます。私の子供がヤギの角を発見しました。ときに私たちの人生の道の中で、いろんな楽しい発見をするときもあるかもしれません。ロシア製の車で、谷合の川が流れているような悪路をずっと走っていきます。

とても車が揺れます。車酔いする人が続出しました。車一台しか通れないような場所を通っていったりしました。車が四十五度ぐらい傾いているかと思うような道もありました。すごい急な坂道をロシア製の車で駆け上がっていきましたが、途中で止まりました。登り切れずに力尽きてしまいました。運転手が、私たちに降りるようにと言われたので、歩いて坂を登ったりもしました。荷を軽くしたら、坂道を登ることができました。誰かが通った道は轍となり、やがて道となるのですが、時には轍がないような道を走ったりしました。

こういった道を目的地に向かって進んで行きます。何の目印もないところです。運転手の方は、どうやって目的地に向かっているのかと不思議に思いました。運転手の方が横をチラチラ見ながら運転していました。何かしら大きい山とかを目印にして、方向を定めて走っているのかもしれません。私たちにとって見えない道を進んでいるのですが、確実に目的地へと進んでいきました。

ゴビ砂漠へ進んでいくときも、悪路を通って、その後は砂だらけの道です。砂なのでハンドルが取られます。常に揺れながら走っていきました。また、砂漠の山の頂上に登りました。赤い丸の中に黒い点がありますが、あれは人です。結構大変でした。砂漠の砂はすごくサラサラでしたが、たくさんの人たちが登るので、轍のように道ができていき、踏み固まって道ができていきます。その固まったところを歩いていくと、楽に階段を登るかのように登っていけました。そして目的地に到着して、神さま造られたの美しい被造世界を見て、創造主を崇め褒めたたえました。また夜はたくさんの星を見ました。モンゴルの方は、夜移動したりすることもあるようで、星を目印にして移動するそうです。星を目印にして目的地へ進んでいく、そのような生活にも触れさせていただきました。また帰りには、車が故障してしまって、砂漠の真ん中で立ち往生をするときもありました。
私たちの人生の中では色々なトラブル、ハプニングが起こりますね。こんな綺麗な道に出て一安心かと思いましたが、ラクダの群れや馬の群れが突如として道をふさぎました。しかし、この道はちゃんと目的地に繋がっています。

これは街のゲートです。イエスさまは、私たちのために父なる神に繋がる道を備えてくださっていることを覚えました。
ヨハネの福音書一〇章九節、「わたしは門です。誰でもわたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして牧草を見つけます」と、イエスさまはご自身を門だと言っています。イエスさまの時代、パレスチナ地方では、このような羊を飼う場所がありました。石が積んであり、門があり、そこから羊は出入りしていました。夜もオオカミや危険な動物から守られます。イエスさまを通して永遠の命をいただいて、私たちは守られて生きることができるということです。いろんな道を歩む中で、このイエスさまが道であることを覚えさせられました。
私たちの地上の人生の中でも、様々なことが起こってきます。ときに思いがけないような問題が起こってきたり、病気になったり、いろんなことがあると思いますが、そのような中でも究極の目的地である父なる神へ、イエスさまが道を用意してくださっているということを今日覚えていきたいと思います。そして、その中で、永遠の命を約束されている。これは本当に何よりも素晴らしい、神さまの与えてくださった恵みであります。何よりも感謝すべきことであります。イエス・キリスト以外、十字架以外誇るものは私たちにはないです。
そして、イエスさまがこの地を去って、神への道を開いてくださったゆえに与えられたものが、このヨハネの福音書の「告別の説教」の中で見ることができます。それは何かというと、一つは聖霊さまです。少し聖霊さまについて、今から聖書箇所を追いながら見ていきます。ヨハネの福音書 十四章の十六節
「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」

ヨハネの福音書十四章二十六節
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
ヨハネの福音書十六章の十三節
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。」
聖霊さまの働きは私たちにイエスさまが話したことを思い起こさせてくださいます。また、真理に導いてくださり、これから起こることを教えてくださいます。弟子たちは、イエスさまがこの地上でなされる十字架の贖いのことを一〇〇パーセント理解していなかったので、これから起こっていく十字架の贖いについて、またイエスさまが十字架にかかった後、天に挙げられた後に起こってくることも聖霊さまが教えてくださるということです。新約の時代に生かされている私たちにとって、聖霊さまは私たちに神さまのことを思い起こさせてくださる働きをし、また神さまのことを教えてくださり、真理に導いてくださる存在であります。また、神さまご自身は聖霊さまご自身です。イエス様がこの地を去って天に挙げられましたが、あなた方とともにいるとあるように、三位一体の聖霊として、私たちとともにおられるということです。新約時代に生かされている私たちにとって、ともにおられる聖霊さまに頼って生きていく人生は、イエスさまの深い真理に私たちを導き、また私たちが神さまご自身のご計画、神さまのみ思いを受け取ることに繋がっていきます。真理を知らされて、父なる神への道を歩んでいくことができのです。
特に聖霊さまに頼って生きることの大切さをモンゴルの働きを通して学ばされました。準備の中で、スケジュールが計画されていきますが、シンプルなスケジュールだけが伝わってきました。集会があることはわかっていても、細かなプログラムはわかりません。また、ハイキングに行く予定があっても、どこの山にハイキングに行くのかわかりません。砂漠の山に登ると聞いたが、どの砂漠かわかりません。わからないことだらけでした。行き先もわからないので、どれぐらいの所要時間がかかるのかもわかりません。しかし、「移動時間は長いのでお菓子とか、カップラーメンや食べ物をたくさん持ってきてください」と言われます。また、「砂漠は寒いので、暖かい服装を持ってきてください」と言われます。私たちはどこの砂漠に行くかわからないですし、気温を調べることもできず、私たちは砂漠を経験したこともないので、なかなか準備するのも難しい状況がありました。ある意味、私によって、このモンゴル・ゴビ砂漠リバイバル・ミッションはミステリーツアーのようでした。ツアーが始まっても、「明日の朝食は何時ですよ」「明日の出発時間は何時ですよ」と、直前のことは教えてもらえるのですが、では目的地までどれぐらいかかるかとか、細かい情報が私のところまでは下りてこない状況がありました。集会が始まり、韓国・日本チームに賛美をしてほしいと依頼され準備をしましたが、いつ賛美をするのかは、集会が始まってからでないとわからない。私たちの出番になったら、「今から賛美する」と言われて前に出ていって賛美するというような状況でした。しっかり準備ができないような状況にありました。ある意味、遊牧民らしい行動の仕方なのかもしれません。遊牧民の方は、見えているあの山手の方に移動していく。草がたくさん生えているところへ行って移動していく。そして、太陽が傾いてお腹がすけば、ご飯を食べる。そういった、時々に対応しながら生活されてきたんだと思いました。モンゴル・ミッションは、そういった働きであったのかもしれないと思いましたが、ただ私たちが情報を得られなかっただけかもしれません。そのような状況を通して、イスラエルの民を思い出しました。昼は雲の柱、夜は火の柱によって神さまがイスラエル民を導きました。いつ雲の柱が立つか、いつ火の柱が立つか誰もわからないわけです。でもそれが立ったら、出発しなければならなかった。神さまご自身のご臨在に導かれて、ついていかなければならなかったわけです。
モンゴルでのこのような経験を通して、人間的にしっかりとあれこれ準備することができないような状況に立たされ、神さまに頼るしかない、聖霊さまに頼るしかないと強制的に導かれました。そして、聖霊さまに頼り生きるということを教えられました。
先ほど、バスが壊れたというお話をしましたが、このときにムンフ先生がこんな言葉を言いました。「色々なものが整っている日本では、こんなことは起こらないでしょう。しかし、モンゴルの状況を理解してください。モンゴルではこういうことがよく起こる。だからモンゴルでは、神さまに頼ることなしに、また神さまに祈ることなしに生きていくことはできないのです」。本当にそうだなと思いましたし、またそのような生き方を学ばされました。日本においては、電車は時間通りに運行しています。暑ければエアコンのボタンを押せば、涼しくなります。本当に便利です。私たちの生活を快適にさせているようなものが揃っているわけです。あまり困るということを生活の中で経験しないです。けれども、そんな生活の中で本当に頼らなければならないのは神さまご自身でなければならない。神さまに祈りを捧げていかなければならないにも関わらず、そのことを忘れてしまうことがあることを覚えさせられました。
ある人が、現代人を「全てを管理しようとする」と表現していました。いろんなことに備えるのはいいことだと思います。台風や大地震、そういったことに対して危機管理を言われるような現代社会であります。しかし、それらは人間の力でコントロールしきることはできないという現実を目の当たりにするわけです。先日、静岡の方で竜巻が起こりましたが、竜巻を手で押さえつけることはできないです。便利になった、科学が発展したと言われる現代、私たちは全てをコントロールできると錯覚してしまっているところが、現代人、また私自身の中にもあると覚えさせられました。しかし、そのある人は現代人に対して危機管理ということで、昔の人とは違った面があったと付け加えていました。それは昔の人は「覚悟」があったと。どのようなことが起こっても覚悟してそれを受け止めるというように話していました。覚悟があるということは、ある意味限界を認めるとか、諦めるということが背景にあるのではないかと思います。私たちは何に頼ることができるか。今、危機管理とか覚悟も必要な部分だと思いますが、何よりも私たちは限界のない聖霊さまに頼ることができる。そして、永遠に至る神への道を聖霊さまとイエスさまとともに歩んでいくことができる。聖霊さまと生きることができるということを覚えていきたいと思います。モンゴルの話で今日は繋げておりますが、こんな道もあるのかなと思いました。これは空港の中の動く歩道です。