後の栄光は、先の栄光よりも大きい

2026年6月21日(日)新城教会牧師 公畑フェルナンド

ハガイ書2章9節
この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。──万軍の【主】は言われる──この場所にわたしは平和を与える。──万軍の【主】のことば。』」

おはようございます。 ハレルヤ。5カ月ぶりにここにいいます。 私たちのために、インターナショナル会のために祈ってくださる。 本当に心から感謝いたします。 今日は父の日です、新城教会の全てのパパたち、お祝い申し上げます。 それでは、今日のメッセージを始めましょう。

 

お読みしたみことばを自分のこことして信じますか?アーメンが少ないですね。これを願っている人は、どれぐらいますか?これは私の祈りでもあります。私たちは、この場所に神の栄光が満ちていることを信じています。ここは主を愛し、また主に仕える子どもたちがいる生きた教会です。若者もみことばを伝えてお互いに支え合っています。そして主の勇士へと導かれている若者たちがいる教会です。賛美チームが新しくされ、神のみ心から生まれた新しい賛美が会衆の信仰を励ましています。そして教会全体が積極的に参加しています。そして神の御言葉に対して飢え乾いている教会です。

新城教会の牧師たちや、外部から来る講師たちを通して、それぞれ異なるスタイルを持ちながらも、皆が主から受けた聖書のメッセージを伝えています。しかし、私の願いは、これから20年後、50年後、そして100年後まで、あるいは主が来られるその時まで、神の栄光が、この場所に長くとどまり続けることです。またとどまり続けるだけでなく、それがさらに大きな栄光へと変わっていくことを望みます。なぜなら、次の聖書箇所にこう書いてあるからです。

サムエル記第一の4章22節前半

彼女は言った。「栄光はイスラエルから去った。

 

私たちがこのようなことにならないようにしなくてはいけません。以前、ピーターワーグナーの本を読んでいた時のことを思い出します。その本の中で、彼はアメリカの各地の教会で、神がなさっている御業の証しを書きました。その中で、特に私が印象に残ったのが、アメリカ人司祭のデニス・ベネット師の証しでした。彼は自分の体験した聖霊体験について、証ししています。それは彼がカリフォルニアで教会を牧会していた時のことでした。ちょっと古い話になるので、今この教会はどうなっているのかなと思い、その教会をGoogleで調べてみました。そこで最初に、その教会の写真が出てきて、それを見たんですけど、その教会の入り口のところに、ゲイプライドという、あのレインボーフラッグがかかってました。いわゆるウォーク教会になっていたのです。その教会が、かつて栄えていた時代には、1500人から2000人ぐらいの人が集う教会でした。しかし、今、その教会の写真をGoogleで見ると、まあ、100人もいるように見えませんでした。 神の栄光を失った教会になってしまったのです。

同じように、ピーターワーグナーの本の中で紹介していた他の教会についても、調べてみました。その中でも特に興味を持っていた教会を探してみたのですが、見たら私が想像していたものとは、異なった状態になっていました。悲しいことに、リバイバルをもたらすために、神さまに用いられた牧師は、すでに亡くなっていました。そして、後を継いだ牧師は教会のお金を私的に流用して、自分の富を増やし、また、姦淫の中に生きていました。 それで、その場所から神の栄光が去っていました。 またアメリカやヨーロッパの様ざまな場所で、かつての神の礼拝堂が、今やバーであったり、保育園になってたり、モスクにも変わっていたり、ヨガスタジオになっている例をいくつも挙げることができます。かつての神の栄光を目にして体験することができた場所は、今や栄光が去ってしまった場所となっていました。ですから、私はとても気になります。 この、10年後、20年後、この新城教会はどうなっているのかと。 また50年後、100年後どうなっているのか心配になります。私の願いはこの場所の後の栄光が、先の栄光よりも大きくなることなのです。

 

イスラエルの歴史を見ると、神の栄光が彼らから去った時代を見ることができます。

そのひとつは、ペリシテ人の軍隊がイスラエルを攻撃して、彼らを打ち負かした時です。イスラエルのある人たちが、契約の箱を戦場に運ぶことを思いつきました。なぜなら旧約聖書において、契約の箱というのは、神の栄光、つまり神の臨在が現れる場所でしたから。サムエル記第一の4章5節をお読みします。

 

【主】の契約の箱が陣営に来たとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。

 

そのため、ペリシテ人ちは非常に恐れました。次の7節の後半をお読みしたいと思います。

 

「ああ、困ったことだ。今までに、こんなことはなかった。

 

ペリシテ人たちは、私たちは今までこの神の栄光と戦ったことがないと言いました。それで彼らはお互いに励まし合ってこう言います。

第一サムエル4章9

 

さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。そうでないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。」

 

こうお互いに言って、ペリシテ人たちは必死に戦ったので、再びイスラエル人を打ち負かすことができました。何が起こったのでしょう?イスラエルの中には、契約の箱があって神の栄光、神の臨在がイスラエルの陣営にあったと思われたのですが、実際は神の臨在はなかったのです。 どれほど立派な礼拝堂があっても、どんなに素晴らしい説教者がいても、優れた音楽家がいたとしても、そこに神の栄光がなければ、何の意味もありません。それだけではなく、さらにペリシテ人たちはその神の箱を奪ったと書いてあります。そして、祭司エリの息子のホフニとピネハスを殺したと書いてあります。聖書にはエリはその知らせを聞いた時、後ろ向きに倒れて死んだとあります。これは私の想像ですけど、もしかすると、エリは神の栄光なしに生きるくらいなら、死ぬ方がいいと思ったのかもしれないですね。

私たちもそのようであるべきです。主の臨在を失うくらいなら、死ぬ方がいいのではないかと思います。その時、彼の嫁が男の子を生みました。その子の名をイ・カボデと名付けました。その名前の意味は、「栄光がイスラエルから去った」という意味でした。

 

では、なぜ神の栄光はイスラエルから去ったのでしょうか?その答えはこの書の二章前に書いてあります。今日は神の栄光が去った6つの理由についてお話ししたいと思います。

第一番目の理由

家庭にある悪い実

 

ちょうど先ほどお読みした聖書の二章前に戻ります。サムエル記第一の2章12節をお読みいたします。

 

 

さて、エリの息子たちはよこしまな者たちで、【主】を知らなかった。

 

別の聖書の役では手に負えない者たちとあります。今日、世界の多くの教会で神の栄光を失っています。それは特に、牧師やリーダーの子供たちの問題によって、栄光を失っているのです。なぜでしょう。それは子供が親の本当の姿を映し出す鏡だからです。牧師は、清い生活を送っているように装うことができます。ルカの福音書の中に「木はその実によって知られる」と書いてある通りです。牧師やそのリーダーが、本当はどんな人かというのを知りたければ、その子供を見ればわかります。子供がその親を映しています。悲しいことに今日、世界の多くの教会の牧師やリーダーの子供たちは、恥知らずの者たちです。まるで、エリの子供たちのように、神を恐れない存在になっています。 なぜでしょう、それはその親たちの二重生活のためです。 家庭での姿と、教会での姿が違うということです。また、多くの子供たちが神を恐れなくなっている理由のひとつに、教会の中で罪について教えなくなったということがあります。多くのクリスチャンたちは、何が罪であるかを知りません。例えば、嘘をつくことが罪であることを知らないクリスチャンたちがいるのです。あなたは、暴言を吐くことが罪であることをご存知ですか?お酒を飲むことが罪であることをご存じですか?結婚前に、性的関係を持つことが罪であることをご存じですか?また怒りや憎しみ、嫉妬、不平不満、人を裁くこと、占いや、偶像礼拝など、他にもたくさん罪があるのです。それが第一番目の理由、家庭にある悪い実のゆえなのです。

 

第二番目の神の栄光が去る理由

神を知らないこと

 

再び、サムエル記第一の2章12節をおお読みいたします。

 

さて、エリの息子たちは、よこしまな者たちで主を知らなかった。

 

ここには、エリの息子たちは主を知らなかったと書いてあります。今日、多くのクリスチャンや、また説教者の中でさえ、聖書を読まない人がいます。私は携帯のアプリの聖書が広まったことの弊害でもあるのかなと思っています。今、本の聖書に線を引いているのを見なくなりました。アプリで聖書を読むことは悪いことではないのですが、もし聖書を勉強したい、聖書を深く知りたいと思うなら、本の聖書を使う方をおすすめします。そこに線を引いて、何月何日神さまにこの御言葉をもらったとか、そういうメモを取ることができます。 順先生もメッセージの中でおっしゃっていましたけれども、明先生の聖書を見たら、線が引いてあって、とても感動したと、みことばも、それがどういう経緯で新城教会のために与えられたのかというのを知れて、感動したという話を聞きました。それと同じように、本の聖書を使うことをお勧めします。 最近のクリスチャン達は、本の聖書を読まないので、本当の聖書の神さまを知ることができません。 それだけではなく、神ご自身を知らないのです。人を知るためには、その人とある程度時間を一緒に過ごさなければなりません。 神さまについても同じです。私は隠れた場所で神と時間を過ごすことによってのみ、神を知ることができます。もし毎日同じ時間にできるなら、そうします。同じ時間にするのは、そうしないと、私たちはやらないからです。隠れた場所で、神さまと交わりをするとき、ただ神さまを知ることが望みです。 また、神の声を聞くこと、神と時間を過ごすことが、私の望みです。ヨハネが言っていることを読みたいと思います。ヨハネの手紙第一の2章3節から6

3 もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。

4 神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。

5 しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。

6 神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。

 

もしあなたが神を信じたいと思うなら、そしてエリの息子たちのようになりたくないなら、また、何が神に喜ばれ、何が喜ばれないのかを知りたいと思うなら、なたは聖書を読まなければなりません。

 

第三番目の理由です

聖なるものを軽んじること

 

エリの息子たちは、捧げ物の最も良い部分を自分のものにしていました。サムエル記第一の2章13節後半後半から14節の前半までお読みします。

 

だれかが、いけにえを献げていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子弟が三又の肉刺しを手にしてやって来て、これを大鍋や、釜、大釜、鍋に突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。

 

つまり祭司たちは最上のものを自分たちのために取り上げていたのです。 主は彼らの行いを喜ばれませんでした。サムエルサムエル記第一の2章17

 

このように、子弟たちの罪は、【主】の前で非常に大きかった。この人たちは【主】へのささげ物を侮ったのである。

 

私たちはここを読んで、そんなに深刻なことなのか? と疑問に思うかもしれません。しかし、神にとっては非常に深刻なことでした。ですから、私は今朝、あなたにお聞きしたいと思います。あなたは、教会の賛美と礼拝という捧げものをどのように扱っていますか? なぜなら、大事なのはメッセージだと思っている人たちがいるからです。私は、ある説教者がメッセージを始める時、「では、ここからが、本当の大切な時間です」と言ったのを聞いたことがあります。誰がそんなことを決めたのでしょう。多くの人は、賛美はただのつなぎの時間だと思っています。遅れてくる人たちを待つための時間だと。賛美の時間は、つなぎの時間ではありません。遅れてくる人を待つ時間だと思っているなら注意してください。それは賛美を軽んじることになります。賛美というのは、神が最も喜ばれるものなので、それを軽んじることになります。あなたにお聞きしたいのですが、なぜ礼拝に時間通り来ることが難しいのでしょうか?また、神に属する什一献金や、また一般献金を、あなたはどのように扱っていますか?今日、世の中には一部の牧師が教会献金を私的に使うというスキャンダルがたくさんあります。そのために多くの未信者が教会について悪く言ったりします。しかし、神は私たちにこう語っています。ハガイ書1章4節をお読みします。