2026年8月30日(日)新城教会牧師 鈴木陽介
使徒の働き20:35
このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」
ハレルヤ、皆さんおはようございます。 今日は八月三十日です。八月最後の主日礼拝を迎えることができて感謝します。この夏は多くの主の働きがありました。それらを振り返り主に感謝をささげたいと思います。
先ず七月十八日には、上條頌さんが率いる33:3のコンサートが持たれました。また、同時にヘブンズアイスクリームアンドコーヒーの五周年のイベントを行わせていただき、夏の伝道会が行われました。多くの方に集っていただいて感謝でした。
そして、同じく七月二十八日から三十一日は、韓国でユニブルキャンプが行われ、新城教会からも子どもたちが参加させていただきました。皆さんにもファンドレイズなどでご協力いただき、多くの子どもたちにこのような素晴らしい機会が与えられていることを心から感謝します。
八月に入り、一日と二日には、長野市で上條頌さん主催のコンサートが行われました。こちらは一般のゲストも迎えてのコンサートではありましたが、福音を中心に据えた素晴らしいコンサートでした。
そして、二日には、新城教会に佐々木歩先生一家が来てくださり、彼らの働きの証を聞かせてくださいました。
また、八月十五日から二十二日には、この夏の働きを締めくくるモンゴル宣教旅行が行われました。 ムンフ先生の働きに参加させていただき、モンゴルの地を踏んで祈ることができ素晴らしい宣教となりました。皆さんのお祈りを心から感謝します。
また、その他にも瀧元望先生の働きで奥屋内でのキャンプが行われましたし、七月二十五日と八月八日の両日には七時間連鎖祈祷が行われました。
この夏、本当に多くの働きがここまで進められてきたこと、ただただ主に感謝し、栄光をお返しするばかりです。また、かさねて皆さんのお祈りによる支えを心から感謝いたします。
夏休みを終えて学校に向かう子どもたちのために守りをお祈りしつつ、九月に向けて、続けて主の働きをともにして、前進していきたいと思います。
それではみことばに移らせていただきますが、今日語らせていただくみことばは、私がこの夏、多くの方々と主の働きをともにさせていただく中で、学ばさせていただいたものです。皆さんとともに分かち合わせていただきたいと思います。
使徒の働き二十章三十五節、
このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。
「受けるよりも与える方が幸い」本当に有名なフレーズかと思います。しかし、ご存知の方も多いとは思いますが、このことばは、聖書の他の箇所にはありません。主イエスのことばとありますが、福音書にもこの通りの表現はありません。一般的にこれは伝承的なことばであって、直接記述には残っていないけれども、様々な場面で、イエスさまご自身が使われていたと考えられています。
しかし同時に、完全に合致する表現がなかったとしても、このことばの原理原則は、聖書のそこここにあるということは、皆さんもよくわかるのではないでしょうか。
今日はこの「受けるよりも与える方が幸い」という部分を中心に、神の国の視点で、みことばを学んでいきたいと思います。
まずこの箇所は、誰に対して、どんな場面で語られたものでしょうか。この言葉を含むひとまとまりの部分は、使徒の働きの二十章十七節から始まります。 そこには、パウロはミレトスからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼び寄せたとあります。
パウロの宣教は、第一回から第三回に分けられます。今日あつかうのは、第三回宣教旅行の最中の出来事になります。アンテオケを出発したパウロは、アジアを経てアカヤまで進み、またアジアまで戻ってきました。パウロはエルサレムまで戻る途上でしたが、アジアのエペソに近いミレトスまで来たとき、そこにエペソの長老たちを呼び寄せました。パウロはエルサレムへの旅を急いでいたのでそのようにしたのです。また、そうするほどにパウロはエペソの長老たちと会って話をする機会を求めたのです。当該箇所を読み進めていくとわかりますが、パウロは以前エペソに三年滞在し、群れをたて上げ、導きました。パウロにとってエペソの人々、特にリーダーである長老たちは、深い結びつきのある存在だったのです。
このように設けられた場でパウロが彼らに語っているのが、今日の主題のみことばを含む箇所なのです。具体的には使徒の働き二十章の十七節から三十八節になります。これは、端的に言うと彼らに対するパウロの「遺言説教」であるのです。このような背景も参考にしながらみことばを読み進めて行きたいと思います。
十九節、
私はユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。
労苦をともにしたエペソの長老たちと、働きを回想しています。パウロは困難な中でも、謙遜の限りを尽くし、主のために務めを果たしました。これらの出来事は、使徒の働き十九章に描かれていますのでそちらも読んでみてください。
そして、二十二節、二十三節、
ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。
ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。
先ほど触れたように、パウロはエルサレムへの道を急いでいます。それは、ここに「私は今、御霊に縛られて」とあるように、聖霊の強い促しによるものでした。そして、それは「鎖と苦しみ」が待っている道だというのです。パウロはここで、人間的な動機づけではなく、主に従う者として、困難に際しても抗うことなく従う心を示しています。
二十四節には、
けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。
と、あります。
使徒パウロは、三度にわたる宣教旅行の旅程を完了しようとする中、続けてエルサレムに戻れという主の計画に従おうとしています。それはまさに、このみことばにある通りの覚悟が伴っている行動なのです。
私たちも同じ信仰者として受け取るべきことはなんでしょうか。まずはじめに、わたしたちにはそれぞれ、走るべき道のりがあるということです。私はこの点を「主の使命」という表現で、これまでも再三お伝えしてきました。
パウロは、それは主から受けた神の恵みの福音を証しする任務であると語っています。その任務を全うできるのであれば、自分の命は少しも惜しいと思わないと。間違えていけないのは、それらが全うできるのであればです。決して犬死にするようなことを望んでいるわけではありません。
続けて三十一節、三十二節、
ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。
今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。
最後の別れの挨拶に入っていきます。パウロ自身も別れを惜しみ、自分が育てた群れに対して最後の教えを伝えています。ここでは、あなたがたを神とその恵みのみことばに委ねますというふうに書かれています。 神ご自身の次にみことばへの言及があり、それにより御国を受け継がせることができると表現されています。私たちの信仰の土台は、神ご自身とみことばです。
三十三節、三十四節、
私は、人の金銀や衣服を貪ったことはありません。
あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。
パウロは主の働きに際し、金銀や衣服を貪ったことはなく、自分の手で働き、それどころか、他の人たちのためにもそのようにしました。主の働きは決して受けるためのものではありません。
コロサイ人への手紙三章五節には、「貪欲は偶像礼拝」と、ストレートな表現で書かれています。私たちも必要なものは必要ですが、食事なども含めて、日々何のために何を求めているかということを考える必要があるかもしれません。
そして、二十章三十五節、
このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」
パウロはこれを実践し、他の人にも模範となり、示してきたのです。「受けるよりも与える方が幸い」クリスチャンであれば、誰もが知っているこのフレーズ。私たちはこのように生きることができているでしょうか。
そして、何かを与えるという行為の究極は、やはり命をささげることではないでしょうか。その模範は誰でしょうか。神ご自身です。有名なヨハネの福音書三章十六節を思い返してください。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
父なる神ご自身は、誰にも何も与える必要はない方です。その方が、ご自分の愛するみ子をこの地に、私たちのために与えてくれました。 そして、イエス・キリストご自身も、私たちの罪のため、私たちの勝利のため、十字架上で自らご自分の命を投げ出されました。究極の模範がここにあります。
この「受けるよりも与える方が幸い」というみことばは、より地上的、実践的な行動を促すために引用されることが多いのかもしれません。もちろんそれは大事なおしえですが、そのような視点ばかりが強調されると、ともすると「単なる善行の勧め」のようなおしえになってしまう可能性があるかもしれません。
しかし、今日私たちが学びたい点は、私たちが本質的に、どのように神に従うべきかということです。
使徒の働きの別れの場面の後、パウロは実際にエルサレムに戻ります。そしてその後、裁きの場に立つために、今度はローマへの旅をすることになります。使徒の働きにおける最後の部分です。そのストーリーの展開は、皆さんよくご存知かと思います。パウロはローマで捕らえられ、二年ほど幽閉されます。その時書かれたのが「獄中書簡」です。そのうちの一つであるピリピリ人への手紙一章二十節、二十一節を見ると、
私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
とあります。
パウロは、使徒の働きで語った「私はあらゆることを通してあなたがたに示してきた」という点を、さらに確信を持って、決意を持って、「私の身によってキリストがあがめられる」ようにと、より発展させて語っています。
さらに、二十一節では、「私にとって生きることはキリスト死ぬことは益です。」と宣言しています。主の働きが全うされるのなら、どちらでも構わないというのです。これが、究極的に神に従う態度ではないかと思います。
以前にも何度か同様の証をさせていただきましたが、特に二〇二〇年以降、多くの兄弟姉妹が天に帰る様子を見させていただくなかで、私が学ばされたことは、いつ自分の番が来ても良いように、日々一生懸命主のために生きるということです。地上の別れには大きな悲しみがあります。ご家族が一番悲しいです。泣く者と共に泣きなさいという教えがありますが、ご家族を飛び越えるほど悲しむ必要はありません。むしろ、残されたものは、自分の地上の役割をよりしっかりと果たす決意をするべきではないかと思います。
そして、死は敗北ではありません。そのような点を様々な悲しい別れを通しても、主がこの教会に教えてくださっています。
繰り返しになりますけど、与えるということの究極は、自分の命さえも主の前に差し出すことですね。それが信仰の態度ではないかと思います。
次のみことばもよく引用しておりますが、テモテへの手紙第二・四章七節、
私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
これは獄中書簡よりもさらに後に書かれたものです。先ほど触れたように、獄中書簡はローマで二年間幽閉された時に書かれたものです。その後パウロは、二年ほど解放されますが、再度捕らえられます。その投獄期間は、殉教に直結する厳しい獄中生活でした。その期間に書かれたのが、牧会書簡と呼ばれるテモテへの手紙とテトスへの手紙です。厳しい獄中生活で、自らの地上の使命が終わる時期が近いこともすべて受け取った上で、このようなことばを残しています。
私たちも、このような確信を持って地上を去ることができるような生き方をしたいものです。それぞれの役割で、それぞれの道のりを走り抜きたいと願います。