信仰の創始者であり完成者であるイエスから、 目を離さないでいなさい

2025年5月11日(日)新城教会副牧師 滝川充彦

ヘブル人への手紙 12章2節

“信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。”

皆さん、おはようございます。恵まれた賛美のときでした。新しい賛美も捧げられ、神さまのみ名をあがめます。
この教会に新しいことが続々と起こっております。先週の日曜日にヘブンズファームが開園しました。お隣の畑をお借りし、そちらで被造物の管理人としての使命を実践する場として、作物を育てる、お花を育てる、そんな働きが始められました。

新城教会には、いろんなプロの方がいまして、作業を手伝ってくれたりして、何もない更地が開墾され、先日、新しい苗や種を植えることができました。本当に神さまご自身が、これからどんな収穫を与えてくださるのかと、楽しみにさせられるような出来事が続々と起こっています。

今日もご一緒に神さまに期待して、礼拝を主にお捧げしていきたいと思います。そして、みことばを受け取っていきたいと思います。

前回、私がメッセージさせていただいたとき、「王なるイエスさまに向かって一心に」というタイトルで、マタイの福音書十四章から、この年、新城教会に神さまご自身が預言的に語ってくださっていると、私が受け取らせていただいたみことばから、分かち合わせていただきました。要約としてまとめさせていただいたものを、もう一度読んでみたいと思います。

“二〇二五年、あなたがたの立ち位置を点検しなさい。み声を聞いたならば、主が共におられない領域から勇気を持って踏み出しなさい。そして、主であるわたしと共に歩み続けるために、万物の創造者・支配者である王なるわたしに純粋に一心に目を止め続けなさい。その中で与えられた信仰を更に育み続けなさい。あなたがたの信仰の戦いは、激しい風が吹きつけてくる終わりの時代の只中にあるのだから。しかし、わたしは全き平和をもたらすために必ずあなたのもとに帰ってくる。『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』”

マタイの福音書十四章で、ペテロがイエスさまのもとに水の上を歩いていった、そんな記事から語らせていただきました。今日も皆さんと共に、王なる主イエスさまに一心に目を留め続けてまいりましょう。

信仰の創始者であり完成者であるイエスさまから、私たちは目を離すことがないように、神さまが語ってくださっている季節ではないかなということを覚えさせられております。

では、みことばを学んでいきたいと思います。マタイの福音書十四章を、少しおさらいのような形で一度読んでみたいと思います。マタイの福音書十四章二十二節から三十三節。

“二十二 それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
二十三 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
二十四 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
二十五 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
二十六 イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは、「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
二十七 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
二十八 するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
二十九 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
三十 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
三十一 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
三十二 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
三十三 舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。“

ペテロが水の上を歩いていくという二十八節の場面で、「主よ。あなたでしたら…」というところは、字義的には「主よ。あなたなのですから…」となります。弟子たちは最初、イエスさまが水の上を歩いて来られたのを見て、幽霊だと見間違えてしまうほどでした。そんな中で、イエスさまの「わたしだ」という声を聞いて、「主よ、あなたでしたら…」ではなく、「あなたなのですから…」と、ペテロはそこにイエスさまがおられると信じていたのです。
水の上を歩くイエスさまの奇跡を見る前に、五つのパンと二匹の魚によって、男だけで五千人の人々のお腹が満たされるような、「自然」という言葉をあえて今回使わせていただきますが、自然法則を超越した業が現されたのです。そのことを目の当たりにしたのが、弟子たちや群衆たちでした。

そして今度は、湖の上を歩くという、またも自然法則を超越したイエスさまの姿を目の当たりにしたのです。主は弟子たちに「恐れるな。わたしだ」と言われました。この「わたしだ(ギリシャ語:エゴー・エイミー)」という言葉は、出エジプト記で燃える柴の中から主がモーセに語られたとき、「わたしはある」とご自身を表現された、そのことばに重なるものです。

まさに、そこでペテロが目の当たりにしていたのは、天地万物を造られた創造者・支配者・完成者である主イエス・キリストだったのです。そのイエスさまとの出会いに、ペテロは深く感動したのだと思います。そして、イエスさまに純粋に近づきたいという思いから、一歩踏み出したのだと覚えさせられます。

イエスさまが「来なさい」と言われたそのことばを受け、主の主権の中で湖に向かって歩み出したペテロは、イエスさまと同じように、自然法則を超越した歩みをし始めました。しかし、「ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ」とあります。

命がけで嵐の中、自分の命綱である舟から飛び出して、すべてをイエスさまに託し、イエスさまを見つめて歩み出したペテロでしたが、歩き出したところで強風が吹いてきて、その風を見てしまったがために恐れて、沈みかけてしまったのです。イエスさまから焦点がずれて、強風に向いてしまったのです。

ここから学ばされるのは、イエスさまと同じ歩みをしていくためには、ただイエスさまに目を向け続けることがとても大切である、ということです。ペテロがイエスさまに焦点を合わせていたときには、イエスさまと同じく水の上を歩くことができていたのです。

私たちの日々の生活の中でも、いろいろな現実の風が吹き荒れていると思います。ときには命の危険を及ぼすような強風を受けることもあるかと思います。そのとき、私たちが強風という問題ばかりに目を留め続けてしまうとどうなるかというと、神さまが用意されている素晴らしい将来と希望、良いご計画、良いものを見失ってしまう、イエスさまから視点がずれてしまう、問題ばかりに目が止まってしまう、ということが起こるものです。

皆さんも、そういう経験があるのではないでしょうか。そうなると、神さまが用意されたご計画や神さまの思いを受け取ることができなくなり、私たちが本来すべきこと、神さまが私たちにしてほしいことがはっきりと見えなくなってしまう、そんな危険性があると思うのです。

ですから、イエスさまに向かって一心に目を注ぎ続けることは、イエスさまと同じ歩みをすることに繋がっていくための第一歩である、ということを教えられます。信仰の創始者であり完成者であるイエスさまから、目を離さないでいきましょう。

特に現代の私たちは、イエスさまから目を離さない、ということが、とても難しい時代にあるのではないかと思います。ペテロはイエスさまと生活を共にしました。イエスさまに直接触れていましたし、イエスさまの声を直接聞いていたのです。私たちもみことばを通してイエスさまと出会い、またイエスさまの声を聞く――超自然的に神さまの声を聞く、ビジョンや幻を見せられる、ということもあるかもしれませんが、それでもやはり、ペテロとは大きな差があると思うのです。現代においては、ペテロと比べて制限されている部分があると思います。

そんな私たちは、現実の風を見てしまい、恐れてイエスさまご自身から目を離してしまう。また、問題という強風だけでなく、誘惑の風もあるかと思います。たくさんの情報にあふれる社会の中で、多くの誘惑もあると思います。

四月、新年度に入りました。それぞれの新しい歩みが始まっていると思います。新しい学校、新しい担任の先生、新しい暮らし、地域の組長をしなければならなくなった、など、さまざまな新しい変化があり、今までに感じたことのないような風を感じて、不安や恐れ、心配を抱いて、現実的に対応しなければならないので、「何かしなければ」と焦っておられる方もいるかもしれません。

けれども、私たちはイエスさまに焦点を当てていきたいと思います。そのとき、私たちがなすべきことが、神さまご自身によって示され、導かれていくと信じます。新年度においても、今日のみことばをしっかりと受け取っていきたいと思います。

話は少し変わるのですが、最近、一つの記事を読みました。十数年前に「なぜから始める(Start with Why)〜偉大なリーダーがどのようにして人々に行動を起こさせるか〜」というテーマで、サイモン・シネックという方が話をして、テレビ番組に出演し、話題を呼んだそうです。その内容の一部をご紹介したいと思います。

「人々は『なぜそれを行っているのか』ということよりも、『自分が何をしているのか』ということばかりに関心を持ってしまう」。

 図を用いて説明しましょう。「何をしているのか」が、「なぜそれを行っているのか」に対して、より大きな比重を持ってしまっている、というのです。たとえば、自動車修理工場を例に挙げてみましょう。自動車修理工場で働く方々は、壊れた車が持ち込まれたときに、持てる知識や技術を用いて原因を探り、修理を行います。つまり、「何をするか」は熟知しているわけです。

しかし、「なぜその場所で働いているのか」「なぜその仕事をしているのか」という目的を見失ってしまっている組織も多くあるのだそうです。そうすると、だんだんと「何をしなければならないか」ということばかりに目が行き、日々忙しくなり、ストレスがたまり、モチベーションが下がってしまう。そんな現象が起きてくるというのです。

一方、発展していく組織は、「なぜそれを行っているのか」という目的がはっきりしていると言われます。目的、ゴールが明確に見えているのです。そうすると、そこに向かって「どうしていくか」を判断し、決断し、行動に反映していくことができます。右にも左にも逸れず、効率的に、的確に目的を達成していく。結果として、組織は自然と発展していくのです。
この「何>なぜ」という構図の不等号記号を反転させなければならない。「なぜそれを行っているのか」に比重を置き、そこから始めることが大切である、というような内容でした。

この話は、私たちの信仰生活にも通じるものがあると感じました。問題ばかりに目を留め、「しなければならないこと」ばかりにとらわれ、自分自身ばかりにフォーカスが当たってしまうと、信仰の創始者であり完成者であるイエスさまに目を留めることができなくなってしまいます。

目的やゴールに向かって歩むことができず、神さまのみ声を聞けなくなり、神さまの約束を握り続けることが難しくなってしまいます。その結果、神さまが望んでおられることに対して、ペテロのように風を見て、問題を見て、恐れて沈みかけたり、右に左に逸れたりしてしまうのです。

また、目的・目標を見失うということは、イエスさまご自身を見失うことになります。すると、ゴール地点がずれてしまいます。イエスさまが再び来られ、神の国が到来する――その神の国という目的地が見えなくなってしまったら、私たちは間違った方向に進んでしまう危険性もあります。