2026年5月17日(日)新城教会牧師 鈴木陽介
ルカの福音書5章10節から11節
10シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
ハレルヤ、おはようございます。 今日もこうして、みことばを取り継がせていただける恵みを、心から感謝します。 早いもので、五月も後半に入っています。二〇二六年を少し振り返ってみると、一月には、ジョーハイト先生が最初のメッセージをしてくださいました。そして二月には、金子道仁先生、三月には、モンゴルのムンフ先生がメッセージを取り次いでくださいました。 この五月は、先週になりますが、竹内先生が来られてメッセージを取り次いでくださいました。このように、二〇二六年は外部の先生方が、この教会に必要なみことばを取り次いでくださっています。
また、この五月には四日から五日にかけて、二十四時間連鎖祈祷が行われました。 これは初めての試みでした。 男女それぞれ一名が一時間祈りを担当し、交代で二十四時間絶え間なく祈り続けるというものでした。
一人一人が神さまと一対一となり、ただただ祈り続け、それが連鎖して続けられました。それは本当に、教会がひとつとなり、また天と地がひとつとなる時間、空間を感じさせられるときとなりました。素晴らしい祈りのプログラムでした。
その最後のパート五日の十九時から二十時は、賛美集会が持たれたのですが、印象深かったのは、子供たちが一生懸命賛美をしてくれたことです。彼らは二十四時間の中で、祈りの時間もたくさん持ってくれました。日本の暦においては、五月五日は「こどもの日」ですが、その同日にこの教会では、主に勝ち取られたこどもたちが、夜通し祈り、力一杯賛美をささげました。これは、この日本の支配に対し、とても大きな勝利のときであったと信じます。これからも、若い世代のために、教会をあげて祈っていきましょう。
それでは本題に入っていきたいと思います。先程少し触れましたが、三月にはムンフ先生が来られ、イザヤ書の六章八節からみことばを語ってくださいました。 実は、今回私が示されたみことばの前提となる内容でした。
私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
このみことばから、全世界にむけての福音宣教について語ってくださいました。 主が私たちに何をしてくれるかではなく、私たちが主のために何ができるか、という視点で私たちを励ましてくださいました。
私にとっても、このイザヤ書のみことばは、以前から心に留まっているものでした。 そして、これは預言者イザヤの召命の記事ですが、私にとっては、同時にエレミヤ書におけるエレミヤの召命の記事もセットで心に留まっているものです。
エレミヤ書、一章七節、
主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。
個人的な話で申し訳ないですが、実は私の長女の名前はこのみことばから与えられたものです。そのような背景もあり、これらのみことばは私にとって、とても大事なみことばのひとつです。
イザヤ、エレミヤはそれぞれ主から召命を受け、使命を与えられ、それを受け取り預言者として主のために働きました。これらはともに旧約の時代の出来事ですが、新約の時代においてはどうだったでしょうか。
これらの視点で、みことばを学んでいきたいと思います。 主題聖句をもう一度お読みします。
ルカの福音書五章十節十一節。
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
よくご存知の箇所ですが、今回の文脈で考えると、これは「イエスさまの弟子の召命」の記事です。十二弟子のうちここでは、シモン・ペテロと、アンデレ、また、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの二組の兄弟が主に召し出されています。
この場面の全体を簡潔に振り返ると、その日は、漁師である彼らが夜通し漁をしても何も取れませんでした。そこにイエスさまが訪れて、「深みに漕ぎ出して、もう一度網を下ろしてみなさい」と言われ、その言葉に彼らは従いました。 その結果、二艘の船が沈むほどの大漁が得られた、というストーリーです。
そしてその出来事の故に、弟子たちは非常におそれました。
「私から離れてください」と反応しました。 それは実に人間の自然な反応です。イザヤも主を目にしたとき、 ああ、私は滅んでしまう。 唇の汚れた者、また唇の汚れた民の中にある私が、万軍の主である王をこの目で見てしまったのだから、と言っています。 罪が入って以降の私たち人間と神である主は本来、それほどかけ離れた状態です。そこに救いをもたらしたのがイエスさまの十字架です。
さて、そのような反応を示した彼らに対して、イエスさまは恐れることは無いと声をかけ、さらには、漁師である彼らにこれらからは人間を捕るようになると、彼らを召し出されました。そして、彼らは「何もかも捨てて」主に従いました。
何もかも捨ててとはどういうことでしょうか。この場面全体から情景を思い浮かべるとわかってくることがあります。先程確認したように、この召命の直前には大漁の奇跡がありました。それを売れば、彼らは多くの収入を得られたはずです。しかし、彼らはその大量の魚も捨て置いたのです。さらにマルコの福音書の並行箇所を見ると、「彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った」と書かれています。漁師にとっての網は生計をたてるための道具、生活の基盤です。彼らはそれさえも捨てていきました。
この場面で彼らにとって最も優先されるべきものは主であるイエスさまご自身だったのです。彼らは主が起こされた大漁の奇跡、その結果よりも主ご自身を選び、その方に従いました。
それぞれ主の恵みや祝福をいただきながら、信仰を歩んでいる私たちもこのことを忘れてはていけません。主がなされた出来事以上に、主ご自身に目を向ける必要があります。
日常の生活においては、仕事があり、学校があり、子育てがあります。当然そこにも、主からの使命があり、遣わされている領域があります。それらを精一杯全うしながらも、私たちが何のために地上に生かされているかを忘れさせられてはいけません。そして、ときに主ご自身が臨まれ、弟子たちに求められたように、様々な状況を超越して、主ご自身に従うよう促される場面が私たちにもあると思います。そのときには、弟子たちと同じ決断ができるよう歩んでいきたいものです。
今、世界をみるとあまりにも多くの祈りの課題があります。災害があり戦争があり、未来に希望を持てるような状況ではありません。とても子どもたちに渡せる状況ではありません。大人は自己責任において様々な判断をしていくわけですが、子どもたちはそれも出来ず、何が正しいかもわからない時代になってしまっています。
クリスチャンが信仰というものを考える時、いわば真空状態で信仰の領域だけ考えることはできません。それぞれが生かされている時代、世の状況、その支配など、それらすべての中にあってどのように信仰を持って歩むのかを、いつの時代も考える必要があります。私たちは今のこの時代にあってどのように生きるべきでしょうか?どのように世と関わりながら生きるべきでしょうか?
そのような点についても「何もかもを捨て」という視点でもう一度考えていきたいと思います。
召命の記事に戻りますが、弟子たちは、いいスタートが切れました。しかし、彼らが特別な存在であって、いつも正解の道を歩めたかというと決してそうではありません。私がよくお話しさせていただく点ですが、弟子たちも失敗だらけでした。結論を言いますと、彼らが実際に主の使命に立ち、本当の意味で何もかもを捨てられたのは聖霊が注がれてからのことです。生まれながらの人間は、自分の力では主が求められように生きることはできません。
マタイの福音書一九章の二十七節では、このようにあります。
そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょう」
召命に応じ、イエスさまに従った弟子たちでしたが、イエスさまの宣教の後半においてこのような場面を迎えます。何もかもを捨てて従った。ゆえにその報酬を求めるあるいは、報酬を受けることが前提の言葉です。
実際にはこの場面では、イエスさまはペテロの言葉に対して叱責はしていませんし、彼らは十二の部族を治めようになる、あるいは百倍を受け永遠のいのちを受け継ぐとようになると言われています。
しかし、他の場面で弟子たちは、誰が偉いか、天の御国で重要なポストに就くかと議論したり、使徒の働きの冒頭においても、今こそ国を再建してくれるのかと、的外れな質問を投げかけます。神の国の本質を、理解できていませんでした。
これは私たち自身にも大いに当てはまります。主に従い主のためと思うのですが、そこにはいつでも人間の限界があります。日常の様々な場面で自分たちの心がどのように動くかを考えれば思い当たることはたくさんあるとおもいます。
ところで、社会において人間の心の動きを考える分野において、「動機づけ」という言葉があります。カタカナ語では、「モチベーション」です。動機づけとは、「人が目的や目標に向かって行動を起こし、その行動を持続させるための心の働きやプロセスのこと」です。今日の主題を学ぶための少しの助けになるかもしれませんので、このような視点で少しお話させていただきます。しかし、これらの領域を扱う学問の背景やすべての世界観を肯定するものではありませんのでその点に注意してください。
動機づけには、「外発的動機づけ」と「内発的動機づけ」とがあるということです。 外発的動機づけは、文字通り外部からの要因によって引き起こされる動機づけで、他方内発的動機づけは、自分の内側から湧き上がる感情による動機づけです。
勉強することを例にとると、外発的動機づけは、強制や叱責、あるいは試験の合否や成績評価などが勉強することの理由となります。内発的動機づけでは、 興味や楽しさ、成長の喜びなど自分の内側から湧いてくるものによって、より自らの意志で勉強をするということになります。両者にはこのような違いがあります。さらに外発的動機づけの中にも、いくつかの段階があるようです。
「外的調整」最も自発性が低い段階です。「強制されるからする」
「取り入れ的調整」罪悪感や羞恥心、プライドなど内面のプレッシャーを理由に行動する段階。「周囲から良く見られたいから」
「同一化的調整」行動の価値を自分自身で見いだし、自ら必要性を認めて選択する段階。「自分にとって必要だから仕事をする」
「総合的調整」最も自律性が高い段階。行動が自分の価値観や人生の目標と完全に一致。「目的のために仕事をしたいからする」
クリスチャンの文脈では、外的調整の段階では、「来たくないが、家族に来いと言われるから教会に来る。」などと適応できるのではないでしょうか?
取り入れ的調整、同一化的調整、総合的調整、また内発的動機づけにおいては、他者から見た場合、見分けはつかないかもしれません。しかし、外発的に動機づけられているだけだと、その外的要因が無くなった場合、行動を続ける理由もなくなってしまいます。
この状態を理解するために、非常に分かりやすい例があります。小学校低学年ぐらいの子が家の手伝いをすると、五十円お小遣いをあげるとします。そうすると子供は五十円という報酬のために手伝いをするようになります。 その報酬がある間は、一定の達成感も感じながら進んで手伝いをするようになるかもしれません。親にとっては嬉しいことです。しかし、これは典型的な外発的動機づけですので、ある一つの要因で、パタッとやる気がなくなります。それはお小遣いをなくすことです。 今回から手伝いをしてもお小遣いはない。その状況になった途端、急激にモチベーションが低下するのです。外発的動機づけの大きな問題点です。
これらは大人にも、そしてクリスチャンにおける信仰の領域でも日々起こっていることと考える必要があるかもしれません。私たちは、どのような理由で何のために教会に集っているでしょうか?
「あの人がいるから」、「楽しいことがあるから」、「病気がいやされるために」
これらは外的要因です。では、その要因が無くなった場合どうなるでしょうか?
私たちにとって、主ご自身が教会に集う第一の理由でなければなりません。主との垂直の関係がなければ、人間どうしの水平の関係もこの世のものとかわらないものになってしまいます。
自分がどのような動機づけで動いているかということを点検しながら歩んでいきたいと思います。そしてそれらを人間的な力で正すことは出来ません。それは聖霊さまによるのです。