2026年7月19日(日)新城教会牧師 滝川充彦
詩篇23編
1 【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも【主】の家に住まいます。
今回、「主は私の羊飼い」と題された詩篇23篇から、皆さんと共に御言葉を学んでいきたいと思います。私自身、この詩篇23篇の御言葉一つひとつを深く味わい、学ばせていただきました。
この詩篇は「ダビデの賛歌」とあるように、ダビデによって歌われたものと考えられます。ダビデはかつて羊飼いでした。そのため、羊飼いと羊との関係を非常によく知っており、身をもって経験していたからこそ、「主は私の羊飼い」という歌を謳うことができたのでしょう。
「主は私の羊飼い」から始まるこの詩篇23篇は、「牧者としてその民を導き守ってくださる主に対する感謝と信頼に満ちた歌」であると言われています。本日は、この御言葉を一節ずつ細かく皆さんと共に学んでいきましょう。
まずは1節と2節をお読みします。
詩篇 23篇1~2節
1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。」
(※2017年訳では「みぎわ」と表現されていますが、第3版では「いこいの水のほとりに伴われます」とあります。)
聖書において、神さまとイスラエルの民との関係は、神さまが「良い羊飼い」、イスラエルの民が「羊」として描かれています。良い羊飼いである神さまが、羊であるイスラエルの民を優しく守り、力強く導いてくださる存在として描かれているのです。
そして良い羊飼いである主は、私たちを緑の牧場に伏させてくださいます。「緑の牧場」という言葉には、単なる牧草地だけでなく、家、住まい、快適な場所といった意味合いが含まれています。つまり、動物が住む場所というだけでなく、羊と人間の双方の生活環境を連想させるような言葉が使われているのです。
柔らかい緑の草が生えている牧場という快適な住まい、すなわち神さまの完全な守りの中で、安心して横たわることができ、神さまの恵みのもとで親しい交わりを持ち、共に住まうことができるのです。実に快適な家が用意されているということです。
羊のために美味しい牧草が用意され、神さまご自身が必要のすべてを満たし、養ってくださる。だからこそダビデは、「私は、乏しいことがありません」と宣言しているのです。
また、「いこいのみぎわ(水のほとり)」とあるように、神さまは食物だけでなく、水をも与えてくださいます。私たちの疲れと喉の渇きを癒やし、潤してくださる水を与えてくださるのです。
それは一時的な潤いにとどまりません。ヨハネの福音書4章13~14節には、次のような御言葉があります。これは、太陽がじりじりと照りつける真昼の12時頃、サマリアの女性が井戸に水をくみに来た際、イエスさまが彼女に語られた言葉です。
ヨハネの福音書 4章13~14節
13イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
14しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。
良い羊飼いであるイエスさまを主として信じる者には、永遠に渇くことのないいのちの水、すなわち永遠のいのちが与えられます。
エデンの園にも川が流れていました。主が導いてくださる緑の牧場、そしてそこにある水のほとり。まさにエデンの園のような場所ではないかとと、この聖書箇所を学ぶ中で思い描かされたのです。
だからこそダビデは、神さまがすべての必要を満たし養ってくださることを信じ、「私は乏しいことがない」と宣言して謳っているのです。
続いて、詩篇23篇3節を見てみましょう。
詩篇 23篇3節
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
ここで「生き返らせる」と訳されているヘブル語には、「戻る」「引き戻す」「元に戻す」「悔い改める」という意味があります。
良い牧者である主を信じる者は、主に声をかけられ、真の主人である主に目を向けて向きを変えていきます(悔い改める)。そして、私たちを神さまが創造された本来の姿へと引き戻され、回復していくのです。
また、「御名のゆえに私を義の道に導かれます」とあります。新約の時代において私たちに与えられている御名とは、救い主イエス・キリストの御名です。イエスさまは全人類・全被造物のために自ら命を投げ出し、十字架にかかって贖いを成し遂げてくださいました。
それゆえに、イエス・キリストを救い主として信じる者は、十字架の血という代価によって買い取られ、神さまのものとされます。そして義の道、すなわち救いに至る道へと導かれるのです。私たちには、父なる神さまのもとへ行く救いの道がすでに備えられています。
ヨハネの福音書 14章6節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
イエスさまが開いてくださった救いに至る道は、父なる神さまのもと(神の御国)へと続く道であることを信じて歩んでいきましょう。そのような恵みが与えられていることを、今日あらためて心に留めたいと思います。
余談ですが、昨年我が家に新しい家族(インコ)がやって来ました。前の飼い主さんがお世話できない状況になり、里親を探していると聞いて立候補したのです。
我が家にやって来た当初はとても警戒しており、触ろうとすると噛みつかれて痛い思いもしました。しかし2~3ヶ月経つと慣れて手に乗るようになり、最近では肩や頭の上に乗るまでになりました。時々鳥籠から出してあげると、部屋をパタパタと一周飛んでまたすぐ鳥籠に戻り、まるで自分の家であるかのように過ごしています。
私たちは、神さまによって贖い買い取られ、神さまの恵みの家の中で自由に過ごすことができる存在とされました。我が家のインコとの関わりを通して、そのことを思い起こされました。もちろんインコとは比べものになりませんが、十字架の代価によって買い取られ、神の恵みの中に住まわせていただける主の素晴らしい恵みに感謝いたします。
神さまは歴史を通じて良い羊飼いとしてイスラエルの民を導き、また、まだご自身の羊となっていない多くの人々をも、真の主人である神のもとへ引き寄せようと愛の手を伸ばし続けておられます。そのことを覚えていきましょう。
続いて4節です。
詩篇23篇4節
たとえ 死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
「死の陰の谷」に関して、エレミヤ書2章6節には次のような記述があります。
エレミヤ書 2章6節
彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」
神様は、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を約束の地へ導くため、荒野を通らせ、その旅路を導かれました。その荒野は、「死の谷」「暗黒の地」でありました。しかし神さまは、40年間にわたる荒野の旅において、水が欲しいと言えば岩から水を湧き出させ、お腹がすけば毎日マナ(パン)を降らせ、肉が食べたいと言えばウズラを送ってくださいました。服も履物も擦り切れることがなかったと申命記にあるように、良い羊飼いである主が民を守り導かれたのです。
この歴史をイスラエルの民もダビデもよく知っていました。またダビデ自身の人生を振り返っても、サウル王から何度も命を狙われたり、子どもを失ったり、息子アブシャロムの反乱によって心が引き裂かれるような死の痛みを味わったりと、多くの「死線」を通ってきました。そうした危機から常に守り導いてくださった神さまへの信頼があるからこそ、ダビデは「たとえ死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません」と高らかに宣言できたのです。
ここで注意したいのは、「災いが来ない」と言っているのではない点です。「災いは来るが、心配しない、恐れない」と宣言しているのです。
クリスチャンになれば一切の問題がなくなり、順風満帆な人生になるかといえば、そうではありません。私たちの周りには様々な問題が存在します。苦しいこと、悲しいこと、涙すること、心が傷つくこともあります。病気になることもあれば、仕事や学校での人間関係、家庭や経済の問題、台風や地震などの災害に直面することもあります。現実には多くの災いがあふれています。しかし、たとえ死の陰の谷を歩むような時であっても、死線をくぐり抜けさせてくださる良い羊飼い(神さま)が共にいて守ってくださると信頼するゆえに、ダビデは「恐れません」と宣言できたのです。私たちも、共におられる主をさらに信頼していきましょう。
後半には「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」とあります。
サムエル記 第一 17章34~35節
34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、
35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。
羊飼いが持つ「むち」や「杖」は、襲いかかる敵と戦うためのものです。良い羊飼いは、私たちを攻撃する敵の力から完璧に守り、その敵を打ち滅ぼしてくださる強いお方です。
また、「むち」という言葉には、ヘブル語で「権威」「統治」「規律」「慰め」「裁き」「王の約束」といった意味合いが含まれています。主が権威をもって羊の群れを統治し、敵から守り、慰め養ってくださるのです。むちと杖は安全と親密さの双方を象徴しており、羊のために命を捨てる「良き牧者」を予感させる言葉となっています。
ヨハネの福音書 10章11~13節
11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
12牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
13彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
良い羊飼いである主は、命がけで私たちを守り、敵と戦ってくださいます。決して私たちを見放さず、見捨てない神さまが共におられることを覚えましょう。
また「杖」には、文字通り「杖」という意味のほかに、抽象的には「支え」、比喩的には「食料」という意味があります。旧約聖書全体を通して見ると、この言葉は「頼ることの具体的な象徴」として使われています。
神さまご自身が、私たちが全幅の信頼を寄せられる存在であるということです。同時にこの御言葉は、「あなたは誰を信頼しますか?」という問いかけでもあります。私たちはどれほど神さまを信頼し、頼り切って生きているでしょうか。ますますこの良い羊飼いに信頼し、従ってまいりましょう。
ここで、羊の特性について少し触れてみたいと思います。
ヨハネの福音書10:3~4
3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
羊はとても耳が良く、主人の声を聞き分けることができます。名前を呼ばれれば主人のもとへ寄ってきます。一方で、足元を見る力が弱く、臆病な面もあります。しかし視野は非常に広く、頭を動かさずに270度から320度の広範囲を見渡すことができるため、背後から敵が近づいてもすぐに気づくことができます。さらに顔の認識能力が高く、主人の顔はもちろん、仲間の羊の顔も50頭ほど覚えられ、その記憶は2年ほど持続するそうです。羊は決して愚かな動物ではありません。ただし、羊には「先頭のリーダーに盲目的について行ってしまう」という強い習性があります。先頭の羊が誤って崖から飛び降りると、後続の羊も次々と飛び降りて全滅してしまうことすらあります。モンゴルでは、この特性を補うために羊をヤギと一緒に飼うそうです。また、羊は平和主義であり、戦いになると逃げることを選択するようです。
こうした特性を持つ羊ですが、「主人の声を聞き分けられる」という点が重要です。私たちは今、誰の声を聞いて生きているでしょうか。
「シェマー」(ヘブル語で「聞く」「聞き従う」の意)という言葉があるように、誰の声を聞いて生きるかが問われています。現代社会は情報にあふれ、スマートフォンやデジタルデバイスを通じて無数の声が飛び込んできます。
ある試算によると、大人が仕事以外でスマホを1日3~4時間使用し、画面をスクロールする回数は1日約2,700回に及ぶそうです。指が画面上を移動する距離は1日で約380~400m(東京タワーの高さ以上)、1年で約141kmにも達します。
また、現代人の集中力の持続時間は年々短くなっているという研究結果もあります。2004年の2分30秒から、2025年には400秒程度へ減少したとも言われます。そして、最新の脳科学や心理学によれば、これは脳の退化ではなく、デジタル環境(ドーパミンの誘発構造)によって脳がハッキングされている状態なのだそうです。
私たちは無意識のうちに刺激や新しい情報を求め、欲望のままに動いてしまう弱さを持っています。だからこそ、どの声に耳を傾けるかを厳密に吟味しなければ、受け取る必要のない情報に惑わされてしまいます。主の声に耳を澄ます努力がいかに大切かを覚えさせられます。
再び詩篇23篇に戻りましょう。5節です。
詩篇 23篇5節