2025年9月14日(日)新城教会副牧師 鈴木陽介
イザヤ書40章8節
”草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」”
二〇二五年九月も半ばに入りました。九月十五日は敬老の日です。お年を召した方々に感謝します。この教会をずっと支えてくださった方々です。今の教会、施設や建物も含め祝福があるのは、先人たちの尊い働きや献金、また犠牲のおかげです。そのことに心から感謝したいと思います。同様に、五月には子どもの日があるように、次世代を担う子どもたちにも感謝したいと思います。教会は全世代がそれぞれの使命を果たし、お互いに感謝する場所として進んでいきたいものです。
我が家の話になりますが、一番下の第四子が、九月の終わりに誕生日をむかえ、二歳になります。あっという間の二年間でしたが、ここまで守られたことを感謝します。皆さんのお祈りを感謝します。
このように時の流れを感じるたびに、クリスチャンとして主に従って生き、地上での命を与えられている者として、思いが新たになります。

また、五月から始められたヘブンズファームの働きも度々ご紹介していますが、真夏に最盛期を迎え、ミニトマトなども
きれいに実り、夏野菜は採れ始めると毎日ゴロゴロと採れます。花もきれいに咲き誇っていました。すべて大きな恵みでした。しかし、ご存知のように、夏野菜は時期を過ぎれば役目を終え、枯れていきます。夏野菜に限らず季節ごとに咲くものは、その時期が過ぎれば役目を終え、過ぎ去っていくものです。実は、その様子を見る中で、今日の主題であるイザヤ書四〇章八節が思い浮かびました。
「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
草や花、そして夏野菜と同様に、私たちは地上では過ぎ去る存在であり、一時的なものです。この地上の命は限られた期間与えられたものです。百年後、誰もこの場所にいないとよく言われるように、私たちは過ぎ去っていく存在にすぎないのです。
それだけ考えると、虚しいような感じがするかもしれません。しかし、クリスチャンがなぜ虚しくないかというと、永遠なる神の言葉によって生きているからです。このみ言葉にあるように、地上のものは一時的で必ず過ぎ去るものですが、神の言葉は永遠に立ちます。この対比の中で私たちは生きていくのです。これは大変重要なことだと思います。
人間は、無限に時間があれば、明日でいいや、次でいいやと、後回しにしていくと思いますが、時間の有限性を考えるときに、一日一日、一瞬一瞬を大事に生きるようになります。病に伏したときなどは、そのようなことを、より実感を持って考えられるようになります。ですから、今日の主題のみ言葉を、いつも隣に置いて歩むことが、どの世代においても共通して求められている生き方ではないかと思います。そのような視点で学んでいきたいと思います。
イザヤ書四〇章は「慰めよ、慰めよ。」という印象的なキーワードで始まる部分です。イザヤ書は三九章までは裁きのメッセージが多く、四〇章から雰囲気が変わると解説されます。四〇章以降、回復、再建の言葉が投げかけられていくようになります。
その冒頭ですが、「慰めよ。慰めよ、わたしの民を。あなたがたの神は仰せられる。エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」
主は、信じる者に、回復、祝福の結末を用意してくださる方です。一時的に苦しみや悲しみを経験することがあっても、必ず、私たちにそれ以上の祝福をくださるのが、主のみ言葉によって生きる者に対する約束です。
続く三節から五節、
「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる。』」
聖書においては、バプテスマのヨハネによってこの預言が成就されました。主が来られる前に道が用意されることが求められます。さまざまな領域が整理されて準備される必要があります。今までとは違う段階に主の計画が進むとき、私たちの身の回りにも、その前触れとして起こされる出来事があるのかもしれません。
さらに、イザヤ書四〇章を読み進めていくと、今日の主題に移っていきます。六節から八節。
「『叫べ』と言う者の声がする。『何と叫びましょうか』と人は言う。『人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。』」
このような文脈でこの四〇章八節があります。主の息吹が吹くだけで、地上の繁栄は一瞬で過ぎ去ります。「草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。」とある通りです。これはあらゆる地上の営みに共通して言えることです。
私たちはときに、自分たちで生きているかのように錯覚します。人間の営みが自然に発展を生み、国々が自分たちの力で栄えているように思ってしまいます。現代社会はまさにそうではないでしょうか。まことの神、創造主を知らない人間がほとんどで、自分たちの知恵や知識が積み重ねられて発展してきたかのように考えています。しかしそうではありません。主の主権の中で生かされているだけであり、主の息吹一つでそれらは消し飛びます。後に続く箇所では、このような点について、より直接的に言及がされています。一七節にはこのようにあります。
「すべての国々も主の前では無いに等しく、主には、空しく何もないものとみなされる。」
さらに二三節、二四節には、「君主たちを無に帰し、地を裁く者たちを空しいものとされる。彼らが植えられ、蒔かれ、いよいよ地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹き付け、彼らは枯れる。暴風がそれを藁のように散らす。」
繰り返しになりますが、この点が今日のみ言葉の中心です、私たちは、一時的な存在、主は主権者であり永遠なる方です。ここでは地上の国々や君主など、その時代の実際の権力や支配にも言及が及んでいます。自然界だけではなく、藁が飛ぶようにすべては吹き飛ばされます。すべてです。私たちはこのような事をどれだけ理解して、現代社会に生きているでしょうか。今の社会で良いとされるものを良いと思っていたり、必要以上に頼りにしている部分はないか、考える必要があります。
二十五節には、そのようなものの考え方を主が咎める表現もあります。
「それなのに、あなたがたは、わたしを誰になぞらえ、誰と比べようとするのか」と聖なる方は言われる。
現実社会におけるクリスチャンの信仰のあり方について重要な点は、突き詰めていくと、この部分に集約されるといえるかもしれません。神の国のものとこの世のものをしっかりと区別する必要があります。
繰り返しますが、私たちは生きていると、今が素晴らしいかのように、今私たちを取り囲んでいるものが素晴らしいものかのように錯覚します。もしかしたら、現代ほどそのように考えてしまう罠に囲まれている時代は無いかもしれません。「これがあれば何でもできる」とか、「このように生きれば幸せに生きられる、安全に生きられる」など、神話のようなものが、信仰とは別に存在していないでしょうか。
以前にもお話させていただいていますが、いのちを握っているのは主です。私はその当たり前のことを、この五年間ぐらいの出来事でもよく学ばせていただきました。冒頭でもお話ししたように、我が家に第四子が与えられたことも、いのちを司る方にしかできないことです。誰も考えないようなこと、私たちの家族に強制的な場面転換を与えてくださった大いなる主の計画、物語だと感じます。
私たちはいのちを与えられる存在であり、主はいのちを与えることができる方です。
同じ説き明かしの流れで、新約聖書に移っていきます。第一コリント二章六節から八節には、このようなみ言葉があります。
「しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」
ここでは、今日イザヤ書で学んでいる点を、知恵という領域で語られている部分と受け取ることができます。私たちは知恵と言う領域においてもこの世のものと神の知恵とを混同してはいけません。この世の知恵は過ぎ去っていくものです。そしてここに「過ぎ去っていく支配者たちの知恵」という表現があります。今こういう表現はもしかしたら分かりやすいのかもしれません。
一番に思い浮かぶのはトランプ大統領です。アメリカの大統領が変わるだけで、社会、世界の考え方が変わります。所詮、私たちはメディアを通して社会、世界の多くの人々が「これが正しい、これがこれからの時代の考え方だ」と根付かせようとしているものを正しいと信じ込まされているにすぎません。その代表的なものがLGBTQ、性的少数者に対する考え方でした。以前の支配者と現在の支配者と考え方が違うので、政策や社会の動きなどにおいて白紙撤回されたようなことがいくつもあります。これはLGBTQの問題に限らず、全ての領域に至る話です。
結局、支配者、トップにいる人間がどのような考えをしているかが世界に反映されているにすぎないのです。私たちはそのような支配から真剣に解放されて、そうではない神の知恵によって生きなければなりません。これがクリスチャンの生き方であり、求めるべき知恵や知性の領域です。神の国の永遠性を持ったものを私たちは求めなければならないのです。
神の知恵は「世界の始まる前から定められているもの」で、時の移ろいや政権の移ろいで変わるものではありません。私たちはそれらを深く握って、いつの時代も一日一日生きる必要があります。メディアや政府がどう言おうが、その情報だけで物事を考えることはやめるべき段階にあると思います。「この世の支配者たちは誰一人、この知恵を知りませんでした。」とある通りです。これは現代も同じです。彼らは知ることはないし、知ろうともしていない、神の知恵と違う知恵を世界中に植え付けようとしています。そして、究極的にはそれは栄光の主を十字架につける行為です。
クリスチャンにおいても、主の言葉よりも大事なものを握り、主の言葉を否むようなとき、それは栄光の主を十字架につけている行為になり得るかもしれません。
私たちは本当に真剣に考えて戦わなければなりません。
数日前、アメリカにおいて、有名な政治活動家、良いクリスチャンだったとされる方が講演中に暗殺されました。トランプ氏も何度かそういう危機に遭っているわけです。
残念ながら私たちは、それらの出来事について、全貌を知り正しく認識・評価をすることは出来ないです。しかし、今日学んでいるみ言葉に照らし合わせて考えるとき、現代の社会を見るとき、主のみ言葉に立って正しく生きようとすればするほど、この世の中にあって苦しみを受ける、そのようなことがより鮮明になっている時代だと考える必要があると思います。支配者たちにとって、気に入らないことを発し続ければ、命さえ狙われるのです。支配者にとって一番邪魔な存在は誰でしょうか。クリスチャンです。福音を語ること自体が本来、このように命がけのことなのです。
このような話をすると、日常とかけ離れたように感じるかもしれませんが、クリスチャンは一人一人、それぐらいの使命を帯びて召された存在です。そのことを自覚する必要があると考えさせられます。
「主の使命に生きる」というタイトルでお話しさせていただいておりますが、実はこのタイトルは三回目です。二〇二三年から、夏の時期にこのタイトルでお話をさせていただいております。二〇二四年には、「主の使命に生きる二〇二四」、それらも読み直していただければと思います。そして今回は「主の使命に生きる二〇二五」です。
この一年、二年でもどのように世界が移ろいでいるか冷静に振り返ってみてください。